Activated Sludge ブログ ~日々読学~

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●被爆や事故の確率論

2011年04月27日 01時21分29秒 | Weblog


THE JOURNALの記事の一部をコピペ(http://www.the-journal.jp/contents/jimbo/2011/04/post_107.html)。元は、videonews.comからのリンク。

 水道水の水質基準でも、人が一生涯飲み続けて10万人に1人がガンになるかどうかといったリスクが考えられていると思うが、その一人が身内や自分の子であれば、と考えると確率論で語っていいのかどうかに戸惑いを感じる。
 ましてや100%安全であるべき原子力発電所が事故を起こし、狭い国土ゆえに、例え遠い場所でも被爆の確率はゼロでないかもしれない。アジアでも、世界でも。やはり使ってはならない技術だったと思う。

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http://www.the-journal.jp/contents/jimbo/2011/04/post_107.html

マル激トーク・オン・ディマンド
522回(20110416日)
なぜ「専門家」は信用できないのか
ゲスト:平川秀幸氏(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授)
プレビュー


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 例えば科学者の「100万人に1人の確率でしか起こらないから安心だ」という説明は、全体を見てリスクを考える統治者側からの目線だ。リスクにさらされる一般市民の側は、その1人に自分や自分の家族が当たった場合どうするかを考えるため、到底受け入れられない。つまり、同じ「安心」にも統治者と当事者の目線の違いからくる対立が生まれる。

 全体のリスクを考える視点は必要だが、確率的に起こり得なくとも心理的に恐怖を感じることも安心できない理由であり、市民感覚や当事者の意見がすべて非合理であるということにはならない。専門家の意見はそのようなバイアスが掛かったものだという特殊性に気付いたうえで、問題を考える必要があると平川氏は言う。

 また、専門家の側には「一般市民は無知だから反対する」という考えがあり、正しい知識を与えれば皆が受け入れるはずであり、それでも反対する人は反体制のイデオロギーを持った人だとみなす構図があると平川氏は言う。日本での原発をめぐる議論は、まさにその典型だった。

 これまで、原発を推進する産官学の「原子力ムラ」の研究者以外から様々な警告が出されてはいたが、その証拠が十分強くなかったことなどから無視された。原発に反対する一般市民の様々な意見も、反体制のイデオロギーを持つものとみなされて考慮されることはなかったそもそも科学は不確実なものであり、科学だけで答えを出せるものではない。日本で原発が推進されてきたのは、科学的な政策決定に市民が参加する枠組みがなく、一部の専門家だけが原発のリスクについて価値判断をしてきた結果だと平川氏は言う。

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