臓器移植法を問い直す市民ネットワーク

「脳死」は人の死ではありません。「脳死」からの臓器摘出に反対します。臓器移植以外の医療の研究・確立を求めます。

11・13市民シンポジウムの報告(2‐2)

2011-12-29 00:00:38 | 集会・学習会の報告

11・13市民シンポジウムの報告
【討論および質疑応答(抜粋)】

■先ほど山口先生が言われた中で、無呼吸テストをしていない臨床的脳死の人達が、これは脳死じゃないから脳死の議論から外していいということに、怖さと怒りを持ちます。そういう状態の子どもを持つ親達が、危険な脳死判定なんかできないのを分かっていて、「この人達は脳死患者じゃない、脳死だったら長く生きないんだ」と堂々と言うところに、医療者が科学者である身分を捨てて、そういう発言をしていることに、凄く怖さと怒りを感じます。

山口:おっしゃるように、本来ならば、無呼吸テストは実施せず、その方を少しでもいい状態に持っていくことが、医療者の当たり前の姿です。それに対して無呼吸テストをするべきであるとか、脳死判定のためには必要であるとか、それは僕は本末転倒だと思うんです。それがこの法律が出来たことによってやるべきであると、やらない限りは長期脳死という言葉さえも語っていけないという論理展開がなされている状況です。とにかく小児脳死の問題に関しては、今凄く学会的には議論になっています。その中で、親への説明や臓器の保存管理といった色々なことが討議されているわけです。そういう状況であるってことをお伝えしたいと思います。

 

■今回発行された『脳死・臓器移植Q&A』で、心停止後臓器提供は、実際は脳死前提の臓器提供であったということを指摘しております。1960年代から人為的な心停止後の臓器摘出も行なってきた。そういうことを、マスメディアは全く忘却している。また、こういう心停止後の臓器提供、年間100例前後ですが、これを検証することについて浅野さんはどのようにお考えでしょうか。

浅野:心停止後の臓器提供を問題にする人たちで何があったかを検証し、メディアに報道するように要請すべきだと思います。ジャーナリズムの役割は、社会の中にある問題点を提起し、適正手続きに基づき民主的に裁判が行われ、社会の中で情報が自由に流れ、それを促進していくことです。報道機関が記者と取材するお金をどこに振り向けるかということでもあります。法的・制度的矛盾があることに切り込んで、問題解決のために、ジャーナリスムは機能すべきですが、既成のマスメディアにはほとんど期待できない。記者には良心的な人もいるので、マスメディア全体を駄目と言うのではなくて、内部で闘う人たちに働きかけて励ますとか、自分たちが発信していく、いわゆるオルタナティブ・メディア-インターネットなどを使った発信が必要かなと思います。それぞれの分野の人々がネットワークを作って連帯してやっていく、その中にジャーナリズムも参加すべきであるということです。

 

■国民健康保険証の裏にあるドナーカードについて怒りや疑問があり、日本臓器移植ネットワークに電話で確認したことについて質問します。臓器を提供したくない場合、「提供しない」に丸をしてシールを貼ればいいということですが、「シールをはがすのは誰ですか」と聞くと、医者は剥がさずに家族が剥がすということでした。また、その時は、医者が移植を勧めることはないと説明されました。それから、臓器摘出を承諾する家族の範囲を聞くと、家族の範囲は規定されてないという話だったんですけど、本当でしょうか。

川見:シールを誰が剥がすのかという疑問は、初めてそうだなと思いました。国会でもそういう質問はなかったです。家族が剥がすと日本臓器移植ネットワークの職員が言ったそうですが、それには根拠はないと思います。それから親族の範囲は、親族優先提供の場合は配偶者と親子になっているけれども、家族承諾のときの家族が誰かは、明確でありません。一般的には同居している親族と言われています。でもそうじゃない場合もある。この間の自殺した少年の時には、同居はしていない祖父が決めたと言われていますし、はっきりしていないですね。

 

■光石さんに質問します。現行法を施行停止するという提案でしたが、その先にあるものについてはどのようにお考えでしょうか。脳死臨調以降、参議院での修正とか、あるいは2009年のC案で示された理念などがあると思いますが、それらを新しい体制の中でどのように生かしていくべきとお考えなのか伺えればと思います。

光石:もちろんC案とかがいいとは思いますが、実質的にはなかなか難しいので、1997年法でやっていいんじゃないかと私は思っています。

 

■小松さんに二つうかがいます。一つは、レジュメにありお話の中で触れられなかった「その哲学的意味」について伺いたい。あともう一つ、米国の動向について、かなり極端なというか奇矯な動向が出てきている中で、アメリカ社会、世論、ジャーナリズムは、反論が出せないような脆弱な状況なのか。それは、脳死・臓器移植法が80年代に成立したことと関わりがあると考えてよいのかを伺えればと思います。

小松:まず、近年の動向に対してアメリカ社会やマスメディアがどう扱っているかについては、残念ながら分かりません。ただし、ネットの検索にも引っかかってこないので、あまり扱われていないように思われます。この事態はアメリカで脳死が死と既成事実化していることと関係あると私は見ていますが、明確な証拠を出せと言われたら出せません。<o:p></o:p>

もう一点については、現在の思想界の世界最高峰と思われる、イタリアのジョルジュ・アガンベンという哲学者の所説をもとにお話しします。アガンベンは『ホモ・サケル』という本で、権力とは何かについて論じました。結論を言うと、その人を殺しても罪に問われない、そういう例外者を作り出すのが権力の正体だというのです。アガンベンによればその実例は、古代ローマ法にすでに記されており、境界石を掘り起こした者、親に暴力を振るった子、顧客に不正を働いた主人です。もう少々分かりやすく言うと、古代社会の奴隷、中世近世の魔女や宗教的な異端者などは、殺しても構わない存在でした。そしてアガンベンがとりわけ論じているのが、ナチスによるユダヤ人や安楽死の対象者です。さらには、現代のそれとして脳死者に言及しています。<o:p></o:p>

では、いかにして殺しても構わないようにするかというと、法律の適用外にするのですね。ここでいう法律には二つあって、一方では人間が作った法律の対象外にする。また他方では神の法、つまり宗教からも対象外にする。このように二つの法律からはじき出すことによって、かえって大きく囲い込む。これが権力のやってきたことだというのです。アガンベンのこの鋭い洞察からすると、むしろ脳死者を法律で死者と規定しない方が、宙吊り状態にしてしまう方が、権力の本流になっていると私は思うのです。そして実質、医療現場ではもはや「脳死は人の死」が大前提になって、ありとあらゆる方向に向かっています。すなわち、国家としては、脳死者を明確に死者と規定しないまま、現場では何やっても罪に問われませんよとした方が、権力の理にかなっている。まさしくアガンベンが言った権力の伝統的なやり方が実現しているのが今の日本だと私には思われるのです。以上が、私が考える脳死の法規程をめぐる哲学的な意味です。<o:p></o:p>

 

■娘がアメリカで心臓移植を受けた者です。資料にもありますが、法律の改正によって57人の方が脳死となり、その家族の承諾によって200人を超える方が臓器をいただき救われました。私の感情としては、少なくとも僕の付き合っているお医者さん、あるいは学会で触れる先生方の話とはずいぶん印象が違うということをまず申し上げたい。だいたい現在の現場では、〔臓器提供の可否を〕聞いた場合、「いやです」と言ったらそこで終わりです。これからどうなるかという先生のご懸念は分かりますけれども、まず今はそんなことはないということはお伝えしたいと思います。僕は、まずは提供して救われる患者さんがいることが、一番目にお医者さん方の頭の中にあると思うんですね。先生が、臓器提供者を増やし、時間を短くするというふうにお話を始めることには疑問があります。やっぱり、まず沢山の移植を待っている患者を救えるものなら救いたいという思いがあって、提供する方がいるならばそこを繋ぎたいという思いではないかと思います。

山口:現場の医師はまじめに何とか自分の仕事を全うしようとしていることは事実です。今の動きとして、そのまじめな医師達でさえもがそこに専念できなくなっていることを懸念しているということです。医療救急機関は救急の患者さんを助けることが第一で、それ以外何もないはずなんですよ。それなのにもう一つ臓器提供が出てきてしまったというのが現実です。先ほど学会の動きを紹介しましたが、これは別に学会の限られた医師達がいる場だけで話されているわけではないのです。私が今住んでいる高槻市の三島救命救急センターという救命救急に関して定評のある病院でも、さっき言ったような論理で、現場の医師達が臓器提供者を増やすことと、その現場における提供に向けた作業を合理化することをどうしたらいいかと論文として投稿しているわけです。だから、僕も一人ひとりの医師の良心を否定はしませんけれども、そういう動きになってきているのは事実なわけです。医師といえども一人の人間ですから、自分の立場や現場の医師達との関係もある中で、知らず知らずのうちに組み込まれてしまうというか、自分の思いとは違うところで動いてしまうことが、懸念されるという意味です。

小松:今のご発言に対してですが、私は一度移植を受けた人に対しては、何とかいつまでも元気でいらしてほしいとは思います。ただし私自身は、移植という方法、とりわけ脳死状態からの移植というものは、どこまでいっても間違っていると思います。200人が救われようと、60名、70名が、私は犠牲になっていると思います。本人が仮にいいと言っていても、やはり私は犠牲になっていると思います。そちらをどうするかということこそが問題です。となると、そもそもいっぺんに臓器を貰う側と臓器を差し出す側の二人を対象にした移植医療の在り方こそが根本的に問題なのであって、あくまでも一人の患者に焦点を絞った医療をすべきである。そこに何とか時計の針を戻してもう一度やりなおせないかと思っています。<o:p></o:p>

■僕は、少なくとも沢山の方が救われたということについて一言でも触れていただいた上で、けれども自分は反対であるというのが、意見を表明する場合の礼儀ではないかと思った次第です。先程のカードに関する質問のように色々問題はあると思うんですが、前の法律ができてから、世論調査などでいえば自分が脳死になったら提供してもよいと言う方のパーセンテージが上がってきたんですね。でも、残念ながらカードを持っておられる方は少ないわけです。これは日本だけではなくてアメリカでもヨーロッパでも、カードから始まったけどなかなかカードを持たないということで、家族の同意になってきたわけですね。そのことについても賛成反対あるだろうけれども、ただもうちょっと現状を踏まえてお話をうかがいたかったなという感想はあります。

小松:では、もう一言シビアなことを申し上げます。1995年に地下鉄サリン事件が起こった後に、吉本隆明という著名な思想家が、「麻原彰晃氏が死刑になったら、彼はイエスになる」、こう言いました。このために総スカンを食らったわけですね。ただし他方では、こういうことも述べています。「所詮、川で自分の子どもと他人(ひと)の子どもが溺れたら、自分の子どもを助ける時代ですからね」と。この世相こそが、我々全てに問われているわけです。自分の家族を助けることを最優先すること自体が、問い直されざるをえないというのが、私は脳死・臓器移植問題だと思っているし、吉本隆明氏の発言はその問題に繋がると思ったので、あえて申しました。

 

他にもたくさんのご意見質問がありました。連続して考えていきたいと思います。
(テープ起こし・まとめ:天野・川見)

 

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