ひとりの青年がアンジョルラス邸を目指して歩いていました。
茶色の髪に青い目、愉快そうな表情の若い男の名前はアンリ。
彼がこのマルセイユの地に帰るのは2年ぶりでした。
海外貿易の船乗りになっていました。
彼は自分を引き取って育ててくれた叔母と、自分に船乗りの仕事を世話してくれた
アンジョルラス家の当主を訪ねて来たのです。
屋敷の様子はまったく変わってはいませんでした。美しい花々、とりわけ美しいリラの木。
そういえば、ここには女の子がいたな。
確か、名前は・・・そうだ、リラの木から取ったとか聞いた・・・リラだ。
自分よりひとつ下だったから、今はもう嫁いでいるだろうか?
とても可愛がられていて、羨ましくて、時々いじめたりしたっけ。
再会したら、昔のことを怒られるだろうか。彼は苦笑しました。
そうそう、お坊ちゃまもいたな。金髪で絵から抜け出したような貴公子。
こちらがふて腐れた態度をとっても、不思議と怒ってはこなかった。
だけど、1度だけ、リラを叩いたとき、手をつかまれて怒られたっけ。
あの時は、こっちのほうが、あの女の子に滅茶苦茶に叩かれたんだけどな。
でも、あの王子様、案外、暖かくて親切な人だった。
リラは、アンリの不幸な境涯を知りませんでした。
アンリの両親は生きています。けれど父親はアンリを身ごもった母を棄てました。
母は幼いアンリを邪魔にして、邪険に当たり、次々と新しい恋人を作ります。
そんな妹を見かねて、リラの母の友達で近所の家で働いている女中さんが、ふたりを呼び寄せます。
数年の間、姉と一緒に働いていたアンリの母ですが、やがて男を作って出て行きました。
アンリの母の姉にあたる女中さんは、親切な人ではありましたが、仕事が忙しくて、アンリに構う暇は
ありません。
アンリはリラが羨ましかったのです。
棄てられた孤児なのに、幸せそうなリラ。
不幸な子供時代でしたが、今となっては、懐かしさがこみ上げてきます。
あれは、いつのことだったでしょう。アンリは母が知らない男と笑い合っているのを見ました。
母は、アンリを見つけると、いつになく優しい声で、外に遊びに行くように言いました。
いつもなら喜んで遊びに行くアンリですが、その時は行きたくはありませんでした。
けれど、母は無理やりアンリを追い出します。
幼いアンリは、時々、頭の中に火が燃えているかと思うほど腹を立てます。
そして、近くにいる小さい子に乱暴したりします。
石でも飲み込んだように、体が苦しくなる日もあります。
今日のアンリはそうでした。
彼は家から少し離れると、平たい岩をみつけて、そこにボンヤリと座りました。
さきほどから、涙が止まりません。
どのくらい座っていたのでしょう。ふと見ると、あの天使ような坊ちゃまがアンリを
じっと見つめていました。手に何やら平たい物を抱えています。
「僕について来て」
それだけ言うと、彼は、いきなりアンリの手を取って歩き出しました。
かなり年が離れていたので、アンリはふりほどく事もできずについていきました。
やがて二人は小高い丘に着きます。
坊ちゃまは、アンリの手に糸巻きのようなものを握らせました。そして
「風に向かって思いっきり走ってごらん。」と言います。
とても優しい声でした。
アンリは思いっきり走り出しました。
あまりに優しい声だったので、なぜだか素直な気持ちになれたのです。
「あ、あがった!」
後ろから坊ちゃまの声がしました。ふり返ったアンリは思わず声をあげます。
アンリは凧を知りません。初めて見た空高く上がる凧を見て、心の底から驚きました。
坊ちゃまが横に来て、アンリにコツを教えます。
糸を緩めたり、引いたり、少し走ったり・・・アンリは夢中になりました。
やがて、うまく気流に乗って、凧はゆうゆうと上空を泳ぎはじめました。
いつのまにか、アンリの涙は止まっています。
まわりで見ていた人々も、楽しそうな歓声をあげました。
実は、アンリが泣き続けているのを見つけて彼はとても心配していたのです。
少しだけ、事情を漏れ聞いていました。
でも、どうしたら良いのでしょう。彼は人を慰めたりしたことがありません。
どちらかというと、人と接するのが苦手です。
「そうだ!」彼は思いつくなり、家に凧を取りに帰りました。
アンリの楽しそうな顔を見て、彼は心底ほっとしました。
アンリ君、凧はね、向かい風でないと上がらない。
人も、辛い向かい風に吹かれた時こそ、高く昇るんだよ。
追い風では上昇できないんだ。(あ、きれいにまとまった)
あ、でも、俺たちは、向かい風が強すぎて、上がる前に糸切れちゃいましたけどね。
・・・・・・・・・・・・
人生をマラソンに例えると、追い風のほうが絶対有利ですけどね。
・・・・・・・・・・・・
それに、有利にことを運べそうな時の事を『追い風が吹いてきた』って言いませんか?
・・・・・・・・・・・・
アンジョルラス邸に入ったアンリは、中に漂う寂しげな空気にとまどいます。
当主は、アンリの帰還を喜んでくれましたが、2年ぶりとは思えないほど年を取ってみえました。
奥方さまは、病気で臥せておられるそうです。
アンリは驚きました。いったい、この屋敷に何が起きたというのでしょう。
そして、アンリは叔母の口から、悲しい事実を知らされます。
坊ちゃまが、パリで革命に参加して命を落としたこと。
坊ちゃまを慕って、パリに行った女の子も、その後、病気で亡くなったこと。
奥様は、そのリラをいう娘をとても可愛がっておられたので、まるで息子と娘を同時に失ったかのような
悲しみに沈んでおられること。
奥様は、毎晩泣いておられるそうです。
あるときは、ご自分の着た古いウェディングドレスを出してきて
「こんなことなら、アンジョルラスをパリにやらずに、ふたりを結婚させれば良かった」と言われたとか。
しかしながら、この屋敷と貿易の仕事を継がせるために、ふたりは後継者を選ばざるをえなかったそうです。
幸いなことに、坊ちゃまの従弟にあたる青年が、後を継ぐことを引き受けました。
誠実で真面目で頭も良い、申し分のない青年です。
けれど、実の子を失った悲しみは簡単に消えるわけもありません。
事件以来ずっと、屋敷は静まり返っているのだとか。
赤ん坊のころのアンジョルラスの肖像?
叔母の友人である、リラの育ての両親も、打ちのめされていました。
ふたりの息子が一生懸命、働いて、両親の悲しみを癒そうとしているそうです。
血のつながりはなくても、優しい大好きな姉を失って、弟たちも辛いに違いないのに
それをこらえて、ふたりは明るくふるまいます。
そういえば、俺がリラって子をよく苛めたのも、あの子が弟をとても可愛がってて・・・
本当の母親がいる自分より幸せそうだったからだよなぁ。悪いことをした。
坊ちゃまとは、数えるほどしか口をきいたことが無かったけど・・・
1度、凧揚げをさせてくれたっけ。そして、凧の作り方も教えてくれた。
思えば、あのころからだ、自分が少し変わったのは。
あの人のようになりたいと思ったのかもしれない。あんなに優しい人に。
そうか、あの人は革命で亡くなってしまったのか。
アンリは、あのとき、ふたりで作った凧を今でも大切に持っています。
明日、あの時の丘に登ろう。
そして、凧を飛ばそう。
神の国にいるふたりに届くほど高く・・・・・・・