小さな小さな声で、リラは歌をうたっています。
椅子に座って、幼い頃のように、少しだけ足を揺らしながら。
訳はこちらのブログにありました。お世話になります。
今、カフェミュザンの2階はずいぶん静かです。学生達のほとんどは、もう帰りました。
残っているのは、アンジョルラスをはじめ、コンブフェールやマリウスなど数人だけです。
向こうのほうの離れたテーブルで、何ごとかを話し合っています。
しばらく前に、アンジョルラスはリラに、もう少しで終わるから待っているようにと言いました。
送っていくから、と。
だからリラは待っています。アンジョルラスの顔を見つめながら。
さっきまではガヴローシュがいてくれて、リラと楽しく話していました。でも、やがて彼も帰りました。
リラとガブローシュはとても仲良しでした。リラは弟たちに逢えない寂しさをガブローシュと話すことで
まぎらわせていました。リラは彼に歌を教えていました。ガブローシュは歌が好きなのです。
今日、リラが歌ったのは子守唄。ガブローシュは子守唄というものを知りませんでした。
『お眠り、小さな弟よ、ねんねをしたらミルクをあげる』
いつも大人ぶって肩をそびやかして生きているガブローシュを見ていると、ふと涙がこぼれそうになります。
アンジョルラス達の声は小さくて、リラには聞こえません。
あんなに熱心に、いったい何を話し合っているのでしょうか。
ふっと、リラは、アンジョルラスがとても遠いところに座っているような気がしてきました。
同じ部屋にいるのに…呼べば聞こえるところにいるはずなのに…。
でも、今、アンジョルラスの頭の中にリラはいないでしょう。
そして、彼が仲間と話していることはリラにはわかりません。
胸の中に、ほんの小さな…何か重いものを感じました。
リラは、ぼんやりと物思いに沈んでゆきました。
リラの眼に、故郷の家の中が見えてきました。食卓に家族が集まっています。
捨てられていた赤ちゃんだったリラを拾って育ててくれた優しい両親、やんちゃな小さな弟達…。
おかあさんの声が思い出されました。リラが故郷を出発する時、おかあさんはふるえる笑顔で言ったのです。
「リラ、身体は大事におし。それからね…これだけは忘れないでおくれ。おまえは、私達の娘なんだからね。」
みんな元気かな…。しばらくぶりに、リラは家族皆の笑顔を思い浮かべました。
アンジョルラスが立ち上がり、こちらに歩いてくるのが見えました。
「待たせてすまない。まだ終わらないんだ。とりあえず、送っていく。」
なんだか疲れた顔をしている…リラは、そう思いました。今日、会った時も同じことを思ったのです。
リラがミュザンに来たのは数日ぶりでした。仕事が忙しくて、なかなか来られなかったのです。
久しぶりに見たアンジョルラスの顔は、いつもと少し違いました。
「気にしないで。私、1人で帰っても大丈夫よ。だから…」言いながら立ち上がったリラは、びっくり仰天しました。
アンジョルラスの身体が、リラのほうへ、ふらっと倒れてきたのです。
「…どうしたの?!」リラは、もたれかかってくるその身体を一生懸命に支えました。
アンジョルラスは、すぐに我に返ったようでした。「…すまない。。。なんだか、眩暈がして…。」
リラは、やっとのことでアンジョルラスを椅子に座らせました。彼の身体は少し熱いようです。
「どうかした?」様子に気づいて、コンブフェールやマリウスがやってきました。
コンブフェールがアンジョルラスの正面に座り、額に手をあててみます。
「少し熱があるみたいだね。たいしたことはなさそうだけど。…今日は、もう帰ったほうがいいな。
どうする?俺が送っていっても良いよ。」
「…大丈夫だ。自分で帰れる。」
「ふむ…。」コンブフェールは少し考えているようでした。
「でもさ、無理して帰ってもどうせ1人なんだよね?それなら、いっそのこと、ここに泊まらせてもらったら?
俺が残ってついていてやる。」
そう言ったコンブフェールは、ちらっとリラのほうを見ました。
「あの…、私も残るわ。」リラは急いで言いました。
「…そんな必要はないぞ。俺は帰れる。」アンジョルラスは立ち上がりました。
その途端に身体が揺れ、今度は、傍に立っていたマリウスに支えられます。
「ほら、無理するなよ。最近、あんまり寝ていないんだろう?…リラが残ってくれるなら安心だから、俺は帰るよ。
その前に下に行って、おかみさんに、毛布やら何やら借りてこよう。…せっかくだから、今夜はここでぐっすり眠るといい。」
しゃべりながら、コンブフェールはマリウスと一緒に、アンジョルラスを部屋の隅の長椅子に連れて行き、寝かせました。
コンブフェール達は階段を下りて行きました。リラは長椅子の傍に行き、アンジョルラスの顔をそっと覗きこみます。
「…寝てなかったの?」
アンジョルラスは、天井を見上げて溜息をつきました。「そうでもないんだ…。」
それからリラを見て言います。
「リラ、ここにいなくていいんだぞ。たいしたことはないんだから…。帰れ。コンブフェールに送ってもらって…。」
「…私、いるわ。ここに。」リラははっきり言いました。
アンジョルラスは少しの間リラを見ていましたが、すぐに眼をそらし、また溜息をつきました。
皆がどやどやと階段を上がってくる足音がします。
ミュザンのおかみさんが、何か大きな声でしゃべっているのも聞こえてきます。
やがて、学生達は全員帰りました。あれやこれやと世話をやいていたおかみさんも、一緒にどたどたと下りて行きました。
アンジョルラスは眠ったようでした。穏やかな息遣いが聞こえてきます。具合はそんなに悪くはなさそうです。
明日には熱もさがるでしょう。
良かった…とリラは思いました。毛布にくるまり、アンジョルラスが寝ている長椅子の傍に座ります。
凍えそうな冬の夜です。静かな静かな時間が、ゆっくり流れていきます。
…なんて綺麗なんだろう。。。アンジョルラスの寝顔を見ながら、リラは心の中で呟きました。
そんなことはよく知っていましたが、あらためて、そう思ったのです。
そういえば、アンジョルラスと二人きりで、こんな静かな場所にいることが近頃あったでしょうか。
そもそも、二人きりになることが、ほとんどありません。ミュザンから帰る時に送ってもらうくらいです。
故郷にいた頃、リラの木の下でゆっくり話をしたような…アンジョルラスの部屋で勉強を教えてもらったような…
そんな二人だけの静かな時間は、考えてみれば、パリへ来てからは一度もなかったのです。
自分は…このパリで、いったい何をしているのだろう…。リラは、ふとそんな思いにとらわれました。
彼の傍にいたい…その気持ちだけで、周りの反対を押し切って、パリまで来てしまいました。
そして、今、リラは何をしているのでしょう。これから、どうしたいのでしょうか?
もしも…もしも、愛しているという気持ちをアンジョルラスに伝えられたとして…
そのうえで、リラは、いったい何を望んでいるのでしょう。
…彼に強く抱きしめてもらうこと?一緒に暮らそうと言ってもらうこと?
それとも…彼と結婚することでしょうか。
その全てが望みのようにも見えます。
でも、リラには、全てが違うような気がしました。
わけのわからない哀しみの波がリラを襲いました。突然、眼から涙が溢れます。
止めようと思うまもありませんでした。リラは両手で顔を覆いました。
…アンジョルラスは、革命のことや、この国のことで、頭がいっぱいです。
それでも、リラのことは妹のような幼馴染みとして気にかけてくれています。それは、リラにもよくわかります。
そして、とても幸せなことだとも思っています。ならば…リラはそれで満足すれば良いではありませんか。
これ以上、いったい何を望む必要があるのでしょう?
リラは、急に、自分の何もかもが間違っているような気がしてきました。
涙はなかなか止まりません。両手で顔を覆って、リラは泣き続けていました。
泣き声だけは出さないように…それだけは一生懸命に考えました。
やがて…いつまでも止まらないかと思われた涙も、やっと流れてこなくなりました。
リラは、深く息をつき、そっと顔をあげ…そして、はっとしました。
ぐっすり眠っているとばかり思っていたアンジョルラスが眼を開けて、じっとリラを見つめていたのです。
「どうしたんだ?」アンジョルラスは静かな声で言いました。リラは首を横に振り、急いで顔をそむけました。
でも、それは無駄なことだったに違いありません。
きっと、アンジョルラスはしばらく前に眼を覚まして、泣いているリラを見ていたのでしょう。
「…何か、あったのか?」リラは無言で首を横に振り続け、唇をかみしめます。
泣いているところなんて…見られたくなかった…。
しばらくして、やっとリラは口を開きました。
「…何もないの。なんでもないのよ。ただ…ちょっと、わけがわからなくなっただけ。…それだけなの。」
アンジョルラスは、黙ってリラを見ていました。
リラは笑顔を作って立ち上がり、アンジョルラスの額から、熱をさげるためにのせていた布を取ります。
ミュザンのおかみさんが用意してくれた冷たい水で、きゅっと絞り、また、彼の額にのせました。
そのとき、いきなり、アンジョルラスがリラの片手を取りました。
リラは驚き、その手を引こうとしましたが、アンジョルラスは、しっかり握って離しません。
アンジョルラスは、リラを見つめながら、小さな声で言いました。
「リラの手は…なんでもできるんだな…。こうやって病人の世話もできるし、マフラーや手袋を作ることもできる。
もちろん針仕事だって…。俺の手は、何もできないけど…。」
リラの手が可愛いから、つい握ってしまって・・・あわてて握った口実を探して、それらしいことを言ってるんですね。
わかります。
まあ、ミュザンのかみさんの手のほうが、もっと色々できそうだよな。でも握らんだろうな。
あ、でもひとつ忘れてはいけないこと、リラの手はジャベールを一撃できるだけのパワーがあります。怒らせると怖いです。
わかった。 リラには・・・・・・
・・・さからうな!
リラは返事ができません。アンジョルラスの熱い手で握られた手が、かすかに震え始めます。
それを感じたのか、アンジョルラスの手の力が少しゆるみました。リラは大急ぎで手を引っこめました。
「私は、そんなことしかできないから…。」リラは下を向いて、消え入りそうな声で言いました。
それから、深く息をして、顔を上げて続けます。
「でも、あなたはそんなことをする必要はないでしょ?あなたは難しいことをたくさん知っていて…それを皆の前で
話すこともできるわ。皆に信頼されて、尊敬されるリーダーなのよ。」
もっと褒めて できれば皆がいるときにも
アンジョルラスはリラから眼をそらし、宙を見つめ、ふっと息をつきました。
「…リーダー、か。。。」
やがて、アンジョルラスは言いました。「リラは…戻りたくなることはないか?」
…どういうことだろう、とリラは思いました。
「戻りたくなるって…故郷のお家に帰りたいということ?」
「…いや、そうじゃないんだ。そういうことじゃない。それも…関係ないわけではないけれど…。」
アンジョルラスは、天井を見ながら話し続けます。
「時々、思うんだ。もし…戻ったら、どんなだろう…って。故郷にいた頃…まだ何も知らなかったあの頃に…。
本当に戻りたいわけじゃない。いつもそんなことを考えているわけでもない。ただ、たまに、ふっと思うんだ…。」
これからの人生も、あなたとの愛も、すべてを知っているのは時だけ。
物事は過ぎてみなければ意味などわからない・・・という歌です。
こちらに和訳があります。お世話になります。
リラは、アンジョルラスの声に、じっと耳を傾けました。
「でも…戻れない。戻るわけにはいかないんだ。いろいろなことを知ってしまったからには…。
世の中のことも、この国のことも…自分の気持ちも。
知ってしまったからには、もう戻れないんだ。真っ直ぐ前へ進むしかない…。」
「…前へ進むしかないの?本当に?もしかしたら、他にも道が…何か、別のやり方があるんじゃない?」
リラは、そっと尋ねました。それは、リラがたびたび感じていた問いでした。
「…わからない。あるのかもしれない…何か他の道が。だけど…俺には、このやり方しかできない。
前へ進むことしかできない。迷ってはいけないんだ…。」
口を閉じたアンジョルラスをじっと見ていたリラは、もう一度、笑顔を作りました。
「…夜明けまで、まだ、ずいぶん時間があるわ。もっと眠ったほうがいいわ。
そうすれば、きっと朝には熱がさがっているから…。」
アンジョルラスは返事をせず、黙ったまま、リラを見つめます。
その眼を見ていると、リラはなんだか顔が熱くなってきました
眼をそらしたくなりましたが、なぜか、そうできませんでした。
そのうち、アンジョルラスはまた天井を見上げ、ふうっと大きく息をつきました。
そして、眼を閉じました。
リラは、また毛布にくるまって椅子に座りました。再び、静かな時間が流れ始めます。
…リラは、はっと眼を覚ましました。いつのまにか、うとうとしていました。
外はまだ暗いようですが、朝が近づいているのがわかります。
街が眠りから覚め始めている気配が感じられます。
リラは毛布から出て、アンジョルラスの顔を覗きこみました。アンジョルラスは静かに眠っています。
リラは、手を伸ばしてアンジョルラスの額の上の布を取り、額にそっと手をあててみました。
熱はさがっているようです。もう心配ないでしょう。
きっと、もうすぐミュザンのおかみさんがどたどたと階段を上がってくるでしょう。
リラは、その前に帰ることにしました。
本当はまだ彼の傍にいたい…そんな気もしますが、何かが、リラに帰ることを決めさせました。
リラは、アンジョルラスの寝顔をじっと見つめました。
アンジョルラスは、リラに、戻りたくなることはないかと言いました。
何も知らなかったあの頃に。
リラは、戻りたいかどうかわかりません。
ただただアンジョルラスが大好きで、会えるだけで嬉しくてたまらなかったあの頃…。
彼を愛することがこんなに苦しいと感じるようになるなんて、あの頃のリラは夢にも思いませんでした。
そっとそっと手を伸ばし、アンジョルラスの金髪の先に、ほんのかすかに触れてみます。
…愛してるわ。あなたが私と同じような気持ちになってくれる日は来ないかもしれないけど…
それでも、私は、あなたを愛してる…。
また涙がこぼれそうになり、リラは急いで長椅子の傍を離れます。
そして、足音をしのばせて階段を下りて行きました。
外に出た途端、真冬の早朝の寒さが押し寄せてきます。
その凍えそうな冷たさの中を歩きながら、リラは思いました。
希望を持っていよう…。ろうそくよりも小さい、いつも揺れている希望の炎だけど…。
消さないように、消さないように…明るく灯し続けていよう…。
What’s the time?
Where’s the place?
Why the line?
Where’s the race?
Just in time, I see your face
Toujours gai, mon cher
それはいつなの?
そこはどこなの?
どうしてその道を選ぶの?
人類はどこにいるの?
いま、ちょうどこの時、私はあなたを見ている
まだ明るいわ、恋人よ
You are the star
that greets the sun
Shine across my distant sky
when night is done
You’ll be the moon to light my way
Toujours gai, mon cher
あなたは星
太陽を待っている星
遠い空に輝く星
夜が来ても
あなたが月明かりになって道を照らしてくれる
(? まあ、月も星ですけど)
まだ希望はあるわ
It’s not too late to start again
It’s not too late
though when you go away
the skies will grey again
In the time that remains,
I will stay
Toujours gai, mon cher
再び歩き出すのに遅くはない
遅すぎはしない
あなたが立ち去ったら
空はふたたび曇るでしょう
残された時間の
私はここにいます
希望はあるから
No regrets
for the light that will not shine
No regrets,
but don’t forget, the flame was mine
and in another place, in another time
Toujours gai, mon cher
後悔はしない
再び光が輝かなくても
後悔はしないわ
忘れないで 炎は消えていないわ
どこにいても、どんな時でも
Halfway measures go unsung
Take your pleasures while you’re young
Just remember, when they’re done,
Toujours gai, mon cher
道半ばのあなたを知る人はいないけれど
若い間に希望を持ちましょう
覚えているのよ、使命が終わるまで
まだ希望があるということを