今思うと若くて働きやりたいことのためにお金を稼ぎ遊んでいた頃は楽だったな。 それにその時にはその意味が全く見えてはいなかった。 ただ我慢して働きお金が適当に貯まると、日ごろのストレスは山にスキーに行くことで解消されていた。 僕がスキーの魅力を初めて知ったのは高校の修学旅行で長野県は志賀高原に行った時のことだった。 今でも鮮明に覚えている。 初めてクラスメートと男二人でリフトなるものに乗り空中散歩を味わった。 すごく怖かったのを今でもよーく覚えている。 僕はだいたい高いところが苦手であった。 そんな僕がスキーを覚えて2日目で自分の意思通りに曲がれるまでになりスキーのおもしろさに魅了されたのだった。
スキーをするために働いていた感じだったな。 そういえば理容のグループで信州にスキートレインという列車に乗って旅行をしたことがあった。 その時にリフトの上でたまたま神戸に住んでいるという若い女の子と一緒に座ることとなったのであった。 僕はその時には彼女なんていなかった。 その神戸の女の子とは、スキーの話がかみ合ったのだが、その子が言うには今日が初めてだと不安がっていた。 僕は一瞬、指導してあげたいと考えたのだが・・ そこまでの積極性は持ち合わせてはいなかった。 彼女は僕にきっと教えて欲しかったのだと今思えば思い出す。 私は彼女とは縁がありませんでした。
僕はそれからも休みになればスキー場に通った。 多くは島根県の瑞穂ハイランドスキー場に通った。 スキー教室で個人指導を受けたり、日本スキー連盟主催の検定に合格したくて練習に明け暮れた日々を過ごしていたものだった。 あの頃は元気だったな。 3級を一発で合格でき、翌年にも2級も一発で合格できた。 残すは1級であったのだが・・ トライしてみたもの合格にはほど遠い夢のまま終わった。 1級を取得しようと思ったら・・ 子供の頃から滑っているレベルでないと難しいのだ。 うわさでは1シーズンに30回は通わないと1級取得は難しいだろうと噂されていた。
僕が1シーズンに通っていたのはせいぜい15回までだった。 そんな時代は終わり私の趣味は民謡へと変わった・・ 38歳の頃にテレビで観た、第1回音戸の舟唄全国大会の模様に興奮した。 よしっ!! 僕も音戸の舟唄全国大会に我流でエントリーしてみたい!! 舞台の上で自分を表現してみたい!! そう思ったのだった。 そして第2回大会に僕は母に頼んで合いの手をしてもらい、尺八はなしの素唄でチャレンジした。 初めての舞台であったので膝がガクガク震えていたことを今でも覚えている。 母は昔、鎌田英一さんの目の前で唄った経験があった。 母は唄が大好きだった。 だからたぶん母の方が堂々としていたように思います。
それから第3回大会となるところで、私はとんでもない民謡人と出会うことになる。 床屋のお客様が「あんたー民謡するんなら安来節全国大会は1度は観ておいた方がええど」とアドバイスを下さったので、島根県は安来市に大会を観に行った時のことである。 私はそこで信じられないほど体に電気が走るほどに感動を覚えた歌手がいた。 それが陶山さんであった。 彼は去年の民謡フェスティバルでも安来節の三味線伴奏者として出演していた。 そう、彼は唄も三味線も天下一品なのである。
それと陶山さんの友人である治郎さんとも安来の会場で出会った。 その彼に僕は音戸を誘い、彼は僕を隠岐の島へと誘うこととなったのである。 彼は音戸の舟唄全国大会に第3回から6回まですでに連続4回出場されていて、その全てに決勝進出されている偉業を成し遂げている。 ハッキリ言って考えられない。 120~130人、いや多い時には170人くらいの時もあったが、その全てで彼はたった10人の中に残ったのだ。 それがいかに難しいことであるのか・・ 私は身に染みてわかっている。 私はどんなにもがいてももがいても決勝には決して残れなかった。
私にとって・・ 決勝に残ることは叶わぬ夢であった。 母は、私が生涯決勝に残ることは無理だろうと予測し・・ とんでもない約束を僕と交わす・・ 「あんたがもし決勝に残ったならば、私が着物を買ってあげるよ」 着物といっても本物の着物(正絹である15万くらい) それならば僕もと決勝を逃す度に罰金3万円を払うと約束してしまった。 母はいらないと当然言うが、それでは僕が納得がいかなかった。 その約束から結局3年目に僕は夢を叶えることとなる。 がしかしその夢が叶った決勝に残れたのには明らかな事情が秘められていたのであった。
それは今年1月の終わりに決勝に残れたのであったのだが・・ これまでずっと予選に落ちてきた時の心理状態と今回とでは明らかに大きく違っていたのであった。 そこがカギだと思うのです。 去年までの僕は、決勝に残ることしか考えてはいなかった。 他の競技者の上手さなどを聞いて感じては・・ この人には勝てないなどとメモを取った・・ その人数が10人を超えたところでなんとなく自分が残れない予想を立てていたからであった。
つまり、それまでの自分には勝ちたいという欲望に塗れていた。 しかも、上手なはずの人が失敗をしてしまうとどこかで喜んでいる汚い自分がいたと思う。
ところがだ! 今年だけはそこに全く違う自分が存在したのであった!! その訳は、その大会の月初めの4日に事件は起った!! 私は自分の持って行き場のない悩みや思うように生きてゆけないジレンマを徹夜のネット将棋にぶつけてしまっていた。 徹夜で行ってしまった。 早朝に今まで味わったことのない何か精神が狂い始める感覚に襲われた!! これはやばい!! 寝なければならないのに寝るタイミングを完全に失った!! もう眠れない・・ でも、寝ないと明らかに精神に異常を感じてしまった・・ 怖い。 布団に入った・・ 目を瞑った・・ 真っ暗闇の頭の中で悩みや考え事がまるで渦を巻くように僕の頭から離れなくなってゆく・・
考えないように思っても脳をコントロールできない・・ ただ考えて眠れないだけならまだいい・・ 次に襲ってきたのは自殺願望に脅されそうになる予感であった!! もしこの時、その大きさが極端に大きければ、私は屋上に走って上り、3階の屋根から下にダイビングをしたのかもしれない。 人はこのように心が病に犯されて→コントロールが効かなくなってしまって(タコの糸が切れてどこにゆくのかわからないような感じです)=破滅の道を辿る(自殺) 私は一人だとまずいと即座に感じて母に助けを叫んだ。 母はすぐに部屋に飛び込んで来てくれた。 私は母の手を握り締めた・・ もし、あの時に僕一人だけがこの家に住んでいたならば・・ 危なかったかもしれない。 一人で果たして救急車を呼べる余裕があったのだろうか?と考えると今でも恐ろしい。
今でも、こんなことを書き思い出すと怖い。 がしかし、実はこのことが私の物事の考え方に大きく方向転換をしてくれたことは間違いないのであります。 それは、民謡の全国大会で決勝に残るという今までの夢が・・ 本当にちっぽけなことに感じるように変わってしまったことです。 ちっぽけというのは価値がないとか、威厳がないとか、そんなことでは決してございません。 僕のいう、このちっぽけなということは・・ 生きた人間が舞台の上に健康な足で立ち唄えることの意味が大きく理解できた為に・・ 人より高い表彰を受けるという意味に対して、表彰を受けることが高い意味なんかじゃなく、舞台の上で自分を表現できるということ(健康な人間には当たり前なことでございますが、私のように一度、人生を落としかけた人間にとっては、とてつもなく素晴らしいことであるということが身に染みて理解できるように人間自体が変化を遂げたということです)
私は、今年の大会で決勝に残ろうと全く考えもしなかった・・ そもそも、大会の1週間前まで舞台に立てる体調ではなかったのです。 だけれども僕の尊敬している、こばさんや治郎さんの合いの手を行う約束もしてたし・・ なんとか舞台上に立ちたい思いでギリギリまで体調を整えようと努力を重ねていたのでした。 ナガセのスッポン粒を飲んでいったことがとても効力があった。 これには非常に助けられました。 1週間前まで辞退を考えていた私は信じられない回復で大会当日を迎えていたのでありました。 舞台に2本の足で立てるって 本当にすごいことです!! 人が大勢観てくださっている中で自分だけの唄を心を表現できる!! 聞いていただける!! それがどれだけ尊いことであるのかは!? 死を意識した経験のある人でないときっと理解はできないでしょう。
私は第6回の音戸の舟唄の予選の舞台で完全に無欲で緊張することなく笑顔で唄い切れたのです!! 今思うと・・ その伸び伸び唄えたことが結果に結びついたのだろうと推測致します。 だからといって・・ 来年も同じような気持ちで唄えるというほど人生は甘くは決してございません。 ただ、今の僕の夢は心の病からいつの日か抜け出すことなのです。 もう優勝したいとか、そんな余裕は正直ございません。 ただ、私の唄が好きだと感じてくださるファンの方が喜んで聞いてくれるならば、そのことが私には幸せなんです。 人は成績を気にしなくなり、それにとらわれることなく自分を表現できた時にこそ本当の魅力を表現できるのではないでしょうか。
現に私が心地よく感じる歌い手さんが全国のタイトルを取れるかと言ったら・・ そうではありません。 だけれども、私にとって・・ その人の唄う民謡はどんなプロの民謡よりも心に響くのであります。 ファンの人数とか有名だとか、私にはそれはあまり関係ありません。 実は有名になっていない中に隠された宝石は眠るものなのであります そしてその輝きは無欲なものに大きな輝きをもたらすものなのです ご拝読、誠にありがとうございます
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僕が1シーズンに通っていたのはせいぜい15回までだった。 そんな時代は終わり私の趣味は民謡へと変わった・・ 38歳の頃にテレビで観た、第1回音戸の舟唄全国大会の模様に興奮した。 よしっ!! 僕も音戸の舟唄全国大会に我流でエントリーしてみたい!! 舞台の上で自分を表現してみたい!! そう思ったのだった。 そして第2回大会に僕は母に頼んで合いの手をしてもらい、尺八はなしの素唄でチャレンジした。 初めての舞台であったので膝がガクガク震えていたことを今でも覚えている。 母は昔、鎌田英一さんの目の前で唄った経験があった。 母は唄が大好きだった。 だからたぶん母の方が堂々としていたように思います。
それから第3回大会となるところで、私はとんでもない民謡人と出会うことになる。 床屋のお客様が「あんたー民謡するんなら安来節全国大会は1度は観ておいた方がええど」とアドバイスを下さったので、島根県は安来市に大会を観に行った時のことである。 私はそこで信じられないほど体に電気が走るほどに感動を覚えた歌手がいた。 それが陶山さんであった。 彼は去年の民謡フェスティバルでも安来節の三味線伴奏者として出演していた。 そう、彼は唄も三味線も天下一品なのである。
それと陶山さんの友人である治郎さんとも安来の会場で出会った。 その彼に僕は音戸を誘い、彼は僕を隠岐の島へと誘うこととなったのである。 彼は音戸の舟唄全国大会に第3回から6回まですでに連続4回出場されていて、その全てに決勝進出されている偉業を成し遂げている。 ハッキリ言って考えられない。 120~130人、いや多い時には170人くらいの時もあったが、その全てで彼はたった10人の中に残ったのだ。 それがいかに難しいことであるのか・・ 私は身に染みてわかっている。 私はどんなにもがいてももがいても決勝には決して残れなかった。
私にとって・・ 決勝に残ることは叶わぬ夢であった。 母は、私が生涯決勝に残ることは無理だろうと予測し・・ とんでもない約束を僕と交わす・・ 「あんたがもし決勝に残ったならば、私が着物を買ってあげるよ」 着物といっても本物の着物(正絹である15万くらい) それならば僕もと決勝を逃す度に罰金3万円を払うと約束してしまった。 母はいらないと当然言うが、それでは僕が納得がいかなかった。 その約束から結局3年目に僕は夢を叶えることとなる。 がしかしその夢が叶った決勝に残れたのには明らかな事情が秘められていたのであった。
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今でも、こんなことを書き思い出すと怖い。 がしかし、実はこのことが私の物事の考え方に大きく方向転換をしてくれたことは間違いないのであります。 それは、民謡の全国大会で決勝に残るという今までの夢が・・ 本当にちっぽけなことに感じるように変わってしまったことです。 ちっぽけというのは価値がないとか、威厳がないとか、そんなことでは決してございません。 僕のいう、このちっぽけなということは・・ 生きた人間が舞台の上に健康な足で立ち唄えることの意味が大きく理解できた為に・・ 人より高い表彰を受けるという意味に対して、表彰を受けることが高い意味なんかじゃなく、舞台の上で自分を表現できるということ(健康な人間には当たり前なことでございますが、私のように一度、人生を落としかけた人間にとっては、とてつもなく素晴らしいことであるということが身に染みて理解できるように人間自体が変化を遂げたということです)
私は、今年の大会で決勝に残ろうと全く考えもしなかった・・ そもそも、大会の1週間前まで舞台に立てる体調ではなかったのです。 だけれども僕の尊敬している、こばさんや治郎さんの合いの手を行う約束もしてたし・・ なんとか舞台上に立ちたい思いでギリギリまで体調を整えようと努力を重ねていたのでした。 ナガセのスッポン粒を飲んでいったことがとても効力があった。 これには非常に助けられました。 1週間前まで辞退を考えていた私は信じられない回復で大会当日を迎えていたのでありました。 舞台に2本の足で立てるって 本当にすごいことです!! 人が大勢観てくださっている中で自分だけの唄を心を表現できる!! 聞いていただける!! それがどれだけ尊いことであるのかは!? 死を意識した経験のある人でないときっと理解はできないでしょう。
私は第6回の音戸の舟唄の予選の舞台で完全に無欲で緊張することなく笑顔で唄い切れたのです!! 今思うと・・ その伸び伸び唄えたことが結果に結びついたのだろうと推測致します。 だからといって・・ 来年も同じような気持ちで唄えるというほど人生は甘くは決してございません。 ただ、今の僕の夢は心の病からいつの日か抜け出すことなのです。 もう優勝したいとか、そんな余裕は正直ございません。 ただ、私の唄が好きだと感じてくださるファンの方が喜んで聞いてくれるならば、そのことが私には幸せなんです。 人は成績を気にしなくなり、それにとらわれることなく自分を表現できた時にこそ本当の魅力を表現できるのではないでしょうか。
現に私が心地よく感じる歌い手さんが全国のタイトルを取れるかと言ったら・・ そうではありません。 だけれども、私にとって・・ その人の唄う民謡はどんなプロの民謡よりも心に響くのであります。 ファンの人数とか有名だとか、私にはそれはあまり関係ありません。 実は有名になっていない中に隠された宝石は眠るものなのであります そしてその輝きは無欲なものに大きな輝きをもたらすものなのです ご拝読、誠にありがとうございます
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