ネコのヒトビト

ネコにまつわるヒトビトについてのお話等

孤独なのか

2022-06-02 01:15:11 | 思ったこと
Grand jury
7日目は、
精神医学とプロパガンダについてという中身で、
内容を読んで思ったのは
孤独にさせることで、人々をより上手に騙すことができる、という部分について
そうかなあ、と思ったこと。

だとしたら、
「〇〇さん、わくした?」
「うん、した。△△さんは?」
「もちろんしたわよ。コワイコワイ」
という感じの、
人間関係の輪から、逸脱するのがコワイために、
それ以上にコワイあれを、躊躇せずにしてしまう、
その感覚。は、一体なんなのか。
この人たちは、孤独なのか?

自分におきかえると
私は、人の輪に入っていけなかった。
もともと、どんなに努力しても、受け入れられない
どういうわけか、子供の頃から、
明日は、こう言ったら、仲間にいれてもらえるかなあ、
今日は、こういう態度なら、仲間に入れてもらえるかもしれない。
などと、手を変え品を変え、なんとか、友達に受け入れてもらえるようにするにはどうすればいいか、考えて考えて、顔の筋肉が硬直して頭が痛くなるみたいな
そんな子供でした
誰よりも孤独だった
ある時から、いつからか知らないけど、
なにをしても無駄だから、諦めた。
友達もほとんどいないし、
他の人たちのように「飲みに行く」「カラオケにいく」
「セミナーに参加する」「食事にいく」なんてことほとんどない。
人から見た目は超絶孤独。



でも、
騙されなかったよ。
どういうわけなんでしょうね。

孤独だから、なのか。
それとも
人と人が、つながっているように「みえる」のは、
一人一人が、孤独を直視することを「避ける」ための
便宜でしかないのか。
それは、本当の孤独を抱えているということなのか?
だれかと一緒にいる ということで安心している コドク

だれかと一緒にいる というシルシ だけで 安心している コドク

なのか?

私は思った
だれもがしているのに、じぶんだけしてなかったら、輪にはいっていけない。
だれもが、している体験としての枠 の機会を喪失したら、
なかまはずれになるのではないかという恐怖
それが、未来永劫いのちをうしなうかも あるいは けんりをうしなうかも という恐怖に勝っているという事実。


だとしたら、この「コドク」は、相当根が深い。

人から「反枠」と言われるのを恐れて
「わたしは反枠ではないけれど」と前置きしながら、家族が死んだとか知り合いが死んだ、とかツィートしている投稿をいくつもみてきた。
そんな前置きが必要だと思うほど、

どうして そんなに人目を気にしてるのだ?


社会。
そこで生きていくこと=人との関係を保つ。
嫌なことも嫌だと言わず、
ドレイのように
心を殺して、人と付き合う
自分の心がどこにあって、自分がどう思っているかも知らないまま
人のことばかり気にしている

そんな、人格形成を、されてしまったのだ。
そんな、人が「オトナ」として崇められ、「オトナ」はこういうものだ、と。

白い物を黒いといわれても、黒いと答え
顔色を伺い、忖度という言葉を知らないのに身につけて。
だれかに褒められるようにだれかにみとめられるように。

そんなふうに、されちゃったんだ。

孤独
孤立だけが、孤立の形だけが あるいはソーシャルディスタンスだけが
マインドコントロールを目的とした
外部から形成された「孤独」ではない

もっとも 根の深い、孤独は、もっと前から
我々の社会にのしかかり、支配していたのだ。


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