新・名も無い馬ですが・・・・・

2013年11月3日に旅立ったマイネルスティング。
その想い出と一緒に、これからも名も無い馬たちの応援をしていきます。

オキテツアー・サイドストーリー

2014-11-25 | 日記
山から降りてきてちょっと早めの冬眠に入ってます。
単にプータロー生活とも言いますが・・・・・(爆)。
なので暇にあかせて、チラシで作る箱作りにはまってます。
パソコンの傍に置いてゴミ箱として使うんです。
きちんと折り山をつけて折っていくのですが、必ずどこか1か所ずれています。
ちゃんと合わせているつもりなんですけどね・・・・・(???)。
なのできちんとした正方形になるはずが、少しゆがんだ箱になってしまうのです。
良く見なければわからないので良しなんですが。
あらためて、何につけても不器用な自分に気づかされている、エドリンです、こんにちは。




    

今回の旅行で、会いたかったお馬さん達に会えた事も嬉しかったのですが、それに加えて嬉しかったのは素敵な人たちとの出会いでした。
中でも、とびきり心に残った事がありました。

仮にその方の名をAさんとします。
その方と1頭の馬の話です。

Aさんは元々馬にも競馬にも全く興味がありませんでした。
普通の専業主婦としてお家を守っていました。
2006年の暮れ、たまたま外出先でかかっていたテレビの競馬中継。
第51回有馬記念でした。
初めて競馬なるものをみた彼女は、その時の勝馬 “ディープインパクト”の、まるで空を飛ぶような走りに魅せられたのです。
それから彼女はインターネットで馬関係のブログなどを探しては見るようになりました( すぐに馬券に走る誰かとは違いますね )。
それでいろいろ調べていくうちに大きな壁に突き当たったのです。
これは、馬を知った人達がたいていぶつかる壁です。
競走馬を引退した馬たちのその後です。
その辛い現実に彼女も悩みました。
そんな時に引退馬の余生を見守る会、当時はフォスターペアレントの会、現“ 引退馬協会 ”の存在を知り、すぐさま入会しました。
もともと野良猫さんを助けたりと、動物が大好きだったのです。
そして、いつものようにネットを見ていた時、競走馬を引退し種牡馬になったけれど、生殖能力が弱くて種牡馬は無理とされ、再び競走馬に戻らされた1頭の馬の記事に目を奪われました。
「せっかく種牡馬になれたのに・・・・・」
その時から彼女の心にその馬の存在が焼き付けられたのでした。
彼女はその馬の行き先をずっと追いかけ続けました。
ただ、ただ心配だから。

その馬の名はロードバクシン。
父サクラバクシンオー、母ツイストアンドシャウトの間に1998年4月6日に誕生した牡馬です。
2000年に園田競馬でデビュー、順調に勝ち星を重ね「園田ジュニアカップ」も勝ち「2001年兵庫県最優秀3才馬」に選出されました。
その後も園田ダービー、兵庫チャンピオンシップ、菊水賞を勝ち、初めての兵庫3冠馬に輝き、2006年には「兵庫県年度代表馬・最優秀4歳以上馬」に選ばれています。
そして。9才になった2007年「サンテレビ賞」を最後に引退、種牡馬へと進むはずでした。
それが何と生殖能力無しという残念な結果となり、功労馬の道もなく、再びターフへと・・・・・。

当初は北海道競馬所属になる予定でしたが、体調を崩し、約1年の休養後、笠松競馬へと移籍。
6戦目の“ 揖斐峡特別 ”で1年9カ月ぶりに勝つと、続く“ 黒ユリ賞 ”で通算13勝目の重賞制覇するもその後は勝てず、2009年に高知競馬に移籍となりました。
ちなみに、この“ 黒ユリ賞 ”の時の2着馬はあのミツアキタービンでした。

高知競馬への移籍を知ったAさんは、何となく、もうここが現役最後の地になるような気がしていたそうです。
そして2009年10月、ついにバクシンの登録が抹消されてしまいました。
Aさんは必死で行く先を探しました。
バクシンは兵庫県の乗馬クラブに移動していました。
でも何故かAさんは、いつか行方不明になってしまう様な不安を感じました。
それで矢も楯もたまらず、引退馬ネット事務局を頼ったそうです。
引退馬ネットの方では、てっきり北海道で種牡馬をしていると思っていたようで、すぐさま調べてくれました。
結果、クラブにはいるがこの先どうなるかはわからないとの報告があったのでした。
「どうしたいですか?」と尋ねられた彼女は思わず「引き取ります!」と答えていたそうです。
ずっと気にかかっていた仔だと云う事、そして、初の兵庫3冠に輝いたほどの馬に悲惨な最期を迎えさせたくないとの思いが言わせた言葉でした。

といっても、彼女は当時、全く普通の専業主婦でした。
それでも馬の面倒を見るのにお金がかかることは理解していました。
自分が働いて支払えるような預託場所。
引退馬ネット事務局に相談しながら彼女が決めたのは、鹿児島の「ホーストラスト」でした。

ここは、馬が自然界で暮らすのと同じ様な環境で余生を過ごさせよう、というコンセプトで創られた施設です。
そして何よりも、彼女が無理なく払える預託料だったのです。
彼女は言います。
「馬は引退してからの方が長いと云います。バクシンもこれからまだ10年や15年は生きてくれるでしょう。私が無理や見栄を張ったらいつかそのひずみが馬にいってしまいます。それは一番不幸なことだと思うのです。なので、自分が出来る範囲でやろうと決めていました。」
それでも、引き取る為の買い取り代( バクシンは有料譲渡でした )、鹿児島までの馬運車代などは彼女の結婚前の蓄えからねん出したそうです。
その時はまだ、ご主人には話してなかったとか。
勿論、今はご主人も全てご存じです。
幸いなことにバクシンは助成金対象馬で、その頃は地方馬でも月2万円、今のように年齢も関係ありませんでした。
ただ、医療関係の費用や装蹄代は馬主持ちです。
そして、2011年から助成金は1万円減額となり、年齢も14才以上と云う条件に変わってしまいました。
ただし2015年度からは10歳以上とまた変わります。

バクシンについていろいろお聞きしていた時、彼女は常にこんな事を言っていました。
「私の様な、馬の事も競馬の事も良く知らないものが、馬の面倒を見ること自体おこがましいことだと思っています。 バクシンをスムーズに引き取れたのも、間に入って下さった引退馬ネットの方や調教師さん、その他関係者の方達のおかげだと感謝しています。 そして何よりもバクシンに運があったのだと思うのです。
なので私の事などより、バクシンの事がきっかけとなり、少しでも引退馬の余生に関心を持って下さる方がいればこんな嬉しい事はありません。」

そして、バクシンを預けた翌年、電車を乗り継ぎ、レンタカーを借り、彼女は1人でホーストラストを訪ねました。
その時の気持ちをメールで教えて下さいました。
「そこで(バクシンが)のんびりと他の馬たちと放牧されている姿を見て安堵したのと同時に、これで本当に良かったのだという思いがこみ上げてきました。
人間が手を差し伸べなければ生きられない馬たち。
ここにいる馬たちが、いろんな人たちの想いによって、命を繋いで暮らしている姿の素晴らしさに感動しました。」




             




    
             
             




今、バクシンに伝えたいことは何かという質問に、
「そして、バクシンへのメッセージとしては、もう頑張って走らなくてもいいのだから、のんびりと暮らして長生きして下さいよと云う事だけです。 バクシン自身は私の事は何も知らないし、会いに行っても誰だともわからないと思うので、遠くからバクシンの余生を見守る事しか出来ませんが、一つの命が関係者の方々の尽力によって守られている事に感謝している次第です。(原文のまま)」



             


彼女は今までこの事を引退馬ネット事務局の方とご家族以外、誰にも言っていませんでした。


私は彼女の姿に、引退馬の余生を見ると云う事の原点を見た思いがしました。
自分が好きだった仔に生きていて貰いたい。
何の不安もなく、ただ自然のままに草を食み、仲間と戯れ、眠くなったら眠る、そんな当たり前の日々を過ごしてほしい。
そこには何の欲も得も無く、馬がそこで生きていてくれたらそれだけで幸せな気持ちになる・・・・。
たいがいの人がそんな思いで、自分なりの活動をしているのだと信じます。

馬を真ん中に、経費(会費)を持つ人、日々お世話をする人、細かな事務作業をする人、これらの人達の輪の力で1頭の馬の命が繋がっていきます。

そこには上下も格差もありません。
あるのは馬を愛するということだけ。
その仔の命を繋いでいきたいと云う思いだけ。
それが引退馬の余生を見ると云う事ではないでしょうか。
彼女のおかげで、あらためてこの思いを強くする事ができました。
そして、ふと周りを見回した時に、素晴らしい馬友さん達に囲まれている自分が、どんなに幸せなのかを気づかされた旅でした。



          


バクシン君、1日でも長く元気で生きること、それが貴方のAさんへの恩返しですからね!




     
このツアーで念願のキョウエイボーガンに会えました。
その時、ボーガンとその主婦のオーナーさん、そしてバクシンとAさんの姿がオーバーラップしたのです。
それで、あくまで控えめなAさんに無理を言って書かせてもらいました。
画像提供もAさんです。
Aさん有り難うございました。