新・名も無い馬ですが・・・・・

2013年11月3日に旅立ったマイネルスティング。
その想い出と一緒に、これからも名も無い馬たちの応援をしていきます。

オキテツアー・サイドストーリー

2014-11-25 | 日記
山から降りてきてちょっと早めの冬眠に入ってます。
単にプータロー生活とも言いますが・・・・・(爆)。
なので暇にあかせて、チラシで作る箱作りにはまってます。
パソコンの傍に置いてゴミ箱として使うんです。
きちんと折り山をつけて折っていくのですが、必ずどこか1か所ずれています。
ちゃんと合わせているつもりなんですけどね・・・・・(???)。
なのできちんとした正方形になるはずが、少しゆがんだ箱になってしまうのです。
良く見なければわからないので良しなんですが。
あらためて、何につけても不器用な自分に気づかされている、エドリンです、こんにちは。




    

今回の旅行で、会いたかったお馬さん達に会えた事も嬉しかったのですが、それに加えて嬉しかったのは素敵な人たちとの出会いでした。
中でも、とびきり心に残った事がありました。

仮にその方の名をAさんとします。
その方と1頭の馬の話です。

Aさんは元々馬にも競馬にも全く興味がありませんでした。
普通の専業主婦としてお家を守っていました。
2006年の暮れ、たまたま外出先でかかっていたテレビの競馬中継。
第51回有馬記念でした。
初めて競馬なるものをみた彼女は、その時の勝馬 “ディープインパクト”の、まるで空を飛ぶような走りに魅せられたのです。
それから彼女はインターネットで馬関係のブログなどを探しては見るようになりました( すぐに馬券に走る誰かとは違いますね )。
それでいろいろ調べていくうちに大きな壁に突き当たったのです。
これは、馬を知った人達がたいていぶつかる壁です。
競走馬を引退した馬たちのその後です。
その辛い現実に彼女も悩みました。
そんな時に引退馬の余生を見守る会、当時はフォスターペアレントの会、現“ 引退馬協会 ”の存在を知り、すぐさま入会しました。
もともと野良猫さんを助けたりと、動物が大好きだったのです。
そして、いつものようにネットを見ていた時、競走馬を引退し種牡馬になったけれど、生殖能力が弱くて種牡馬は無理とされ、再び競走馬に戻らされた1頭の馬の記事に目を奪われました。
「せっかく種牡馬になれたのに・・・・・」
その時から彼女の心にその馬の存在が焼き付けられたのでした。
彼女はその馬の行き先をずっと追いかけ続けました。
ただ、ただ心配だから。

その馬の名はロードバクシン。
父サクラバクシンオー、母ツイストアンドシャウトの間に1998年4月6日に誕生した牡馬です。
2000年に園田競馬でデビュー、順調に勝ち星を重ね「園田ジュニアカップ」も勝ち「2001年兵庫県最優秀3才馬」に選出されました。
その後も園田ダービー、兵庫チャンピオンシップ、菊水賞を勝ち、初めての兵庫3冠馬に輝き、2006年には「兵庫県年度代表馬・最優秀4歳以上馬」に選ばれています。
そして。9才になった2007年「サンテレビ賞」を最後に引退、種牡馬へと進むはずでした。
それが何と生殖能力無しという残念な結果となり、功労馬の道もなく、再びターフへと・・・・・。

当初は北海道競馬所属になる予定でしたが、体調を崩し、約1年の休養後、笠松競馬へと移籍。
6戦目の“ 揖斐峡特別 ”で1年9カ月ぶりに勝つと、続く“ 黒ユリ賞 ”で通算13勝目の重賞制覇するもその後は勝てず、2009年に高知競馬に移籍となりました。
ちなみに、この“ 黒ユリ賞 ”の時の2着馬はあのミツアキタービンでした。

高知競馬への移籍を知ったAさんは、何となく、もうここが現役最後の地になるような気がしていたそうです。
そして2009年10月、ついにバクシンの登録が抹消されてしまいました。
Aさんは必死で行く先を探しました。
バクシンは兵庫県の乗馬クラブに移動していました。
でも何故かAさんは、いつか行方不明になってしまう様な不安を感じました。
それで矢も楯もたまらず、引退馬ネット事務局を頼ったそうです。
引退馬ネットの方では、てっきり北海道で種牡馬をしていると思っていたようで、すぐさま調べてくれました。
結果、クラブにはいるがこの先どうなるかはわからないとの報告があったのでした。
「どうしたいですか?」と尋ねられた彼女は思わず「引き取ります!」と答えていたそうです。
ずっと気にかかっていた仔だと云う事、そして、初の兵庫3冠に輝いたほどの馬に悲惨な最期を迎えさせたくないとの思いが言わせた言葉でした。

といっても、彼女は当時、全く普通の専業主婦でした。
それでも馬の面倒を見るのにお金がかかることは理解していました。
自分が働いて支払えるような預託場所。
引退馬ネット事務局に相談しながら彼女が決めたのは、鹿児島の「ホーストラスト」でした。

ここは、馬が自然界で暮らすのと同じ様な環境で余生を過ごさせよう、というコンセプトで創られた施設です。
そして何よりも、彼女が無理なく払える預託料だったのです。
彼女は言います。
「馬は引退してからの方が長いと云います。バクシンもこれからまだ10年や15年は生きてくれるでしょう。私が無理や見栄を張ったらいつかそのひずみが馬にいってしまいます。それは一番不幸なことだと思うのです。なので、自分が出来る範囲でやろうと決めていました。」
それでも、引き取る為の買い取り代( バクシンは有料譲渡でした )、鹿児島までの馬運車代などは彼女の結婚前の蓄えからねん出したそうです。
その時はまだ、ご主人には話してなかったとか。
勿論、今はご主人も全てご存じです。
幸いなことにバクシンは助成金対象馬で、その頃は地方馬でも月2万円、今のように年齢も関係ありませんでした。
ただ、医療関係の費用や装蹄代は馬主持ちです。
そして、2011年から助成金は1万円減額となり、年齢も14才以上と云う条件に変わってしまいました。
ただし2015年度からは10歳以上とまた変わります。

バクシンについていろいろお聞きしていた時、彼女は常にこんな事を言っていました。
「私の様な、馬の事も競馬の事も良く知らないものが、馬の面倒を見ること自体おこがましいことだと思っています。 バクシンをスムーズに引き取れたのも、間に入って下さった引退馬ネットの方や調教師さん、その他関係者の方達のおかげだと感謝しています。 そして何よりもバクシンに運があったのだと思うのです。
なので私の事などより、バクシンの事がきっかけとなり、少しでも引退馬の余生に関心を持って下さる方がいればこんな嬉しい事はありません。」

そして、バクシンを預けた翌年、電車を乗り継ぎ、レンタカーを借り、彼女は1人でホーストラストを訪ねました。
その時の気持ちをメールで教えて下さいました。
「そこで(バクシンが)のんびりと他の馬たちと放牧されている姿を見て安堵したのと同時に、これで本当に良かったのだという思いがこみ上げてきました。
人間が手を差し伸べなければ生きられない馬たち。
ここにいる馬たちが、いろんな人たちの想いによって、命を繋いで暮らしている姿の素晴らしさに感動しました。」




             




    
             
             




今、バクシンに伝えたいことは何かという質問に、
「そして、バクシンへのメッセージとしては、もう頑張って走らなくてもいいのだから、のんびりと暮らして長生きして下さいよと云う事だけです。 バクシン自身は私の事は何も知らないし、会いに行っても誰だともわからないと思うので、遠くからバクシンの余生を見守る事しか出来ませんが、一つの命が関係者の方々の尽力によって守られている事に感謝している次第です。(原文のまま)」



             


彼女は今までこの事を引退馬ネット事務局の方とご家族以外、誰にも言っていませんでした。


私は彼女の姿に、引退馬の余生を見ると云う事の原点を見た思いがしました。
自分が好きだった仔に生きていて貰いたい。
何の不安もなく、ただ自然のままに草を食み、仲間と戯れ、眠くなったら眠る、そんな当たり前の日々を過ごしてほしい。
そこには何の欲も得も無く、馬がそこで生きていてくれたらそれだけで幸せな気持ちになる・・・・。
たいがいの人がそんな思いで、自分なりの活動をしているのだと信じます。

馬を真ん中に、経費(会費)を持つ人、日々お世話をする人、細かな事務作業をする人、これらの人達の輪の力で1頭の馬の命が繋がっていきます。

そこには上下も格差もありません。
あるのは馬を愛するということだけ。
その仔の命を繋いでいきたいと云う思いだけ。
それが引退馬の余生を見ると云う事ではないでしょうか。
彼女のおかげで、あらためてこの思いを強くする事ができました。
そして、ふと周りを見回した時に、素晴らしい馬友さん達に囲まれている自分が、どんなに幸せなのかを気づかされた旅でした。



          


バクシン君、1日でも長く元気で生きること、それが貴方のAさんへの恩返しですからね!




     
このツアーで念願のキョウエイボーガンに会えました。
その時、ボーガンとその主婦のオーナーさん、そしてバクシンとAさんの姿がオーバーラップしたのです。
それで、あくまで控えめなAさんに無理を言って書かせてもらいました。
画像提供もAさんです。
Aさん有り難うございました。










津軽海峡とび越えてオキテに会いに行ってきたぁ!最終日

2014-11-17 | 日記
もの事には必ず、始まりがあれば終わりがあります。
6日間に渡った旅もついに最後となりました。
私たちは再び海をとび越え、札幌に戻ります。
ずっと一緒に行動して下さった毛玉さんも、今日からお仕事に戻りました。

それでも・・・・・・

このまますんなり帰る様なエドリンではありませぬ(笑)。

空港に向かう前に茨城に向かいますのですよ。

馬のためなら、最後の最後まで粘っちゃうのです。

で、京成上野駅のコインロッカーに荷物を預け、向かった先は「常総ホースパーク」さんです。
ここには、テイオー産駒が3頭いるのです。

2011年、東日本大震災で被災し命は助かったものの行き場を失い、あちこち転々としてやっと常総ホースパークさんに落ち着く事が出来たストロングブラッド。

2013年6月競走馬引退後、「チームテイオー」がテイオー亡きあとその産駒を見守りたいと新たに設立した「テイオー産駒の会」の第1号応援馬ヤマニンバッスル。

そして今はまだ休養中の為 “内緒だよ~ん”の乗馬見習い馬。(きちんとご報告出来るまで妄想ふくらませてて下さいね。)





          
          あれに見えるはブラッドさんじゃあ~りませんか?


              
                                                       
                        
                  「ようこそ、看板馬のブラッドで~す(ウソ)。」 by ストロングブラッド




          
           「実は・・・・眠くてたまりませんです。」

       
       

  
   「でも今日は、僕に会いに来る人がいるので眠るわけにはいかな・・・・・




           
            「     



気持ち良さげなブラッドさんを起こさない様にそぉっと離れて、次はバッスル君のところへ。                



                   
                   あのソックスは、バッスル君ですね。




              
                  
                  バッスル君、お仲間と一緒に草食みちう。




                   
                   「お~~い!」 呼べども呼べども顔あげてくれまっせ~ん(悲)。




                   
                   真正面に行っても・・・・・




                   
                    真横に行っても・・・・・草に夢中、もしかしてわざと???






                   
                   え~い! もう下向き顔アップしちゃう!!                    




幸せそうなお二人(馬)さんに別れを告げて、来る時に見かけてラスカルさんと「乗って見たいね!!」と言ってた2階建て電車の2階席に乗っちゃいまして、今度は本当に本州 (北海道ではこちらの事をこう呼ぶのです)とお別れです。

実は成田空港に行くの初めてなんですよね。
おのぼりさん丸出しであちこちキョロってる私を「こっち、こっち」と息子の様なラスカルさんにリードされながらどうにか乗れました、ジェットスター。
今は本当に飛行機代、お安くなっているんですねぇ。
初めて知りましたですよ。
私、かなり長らく東京生活していたんですが、その頃はこんなにリーズナブルなのなかったし・・・・。
これならまたこれるかな?などと考えちゃいました。

ず~っとお天気に恵まれていたのに札幌についたら、旅の終わりを知っていたかのように雨です。

今回お世話になった、角田厩舎のS厩務員さん、スタッフの皆さま、イグレット乗馬倶楽部、アリサ乗馬倶楽部、日本乗馬倶楽部、常総ホースパークの皆さま、お忙しい中押しかけたにもかかわらず暖かく迎えて下さって、本当に有り難うございました。
おかげで楽しく心に残る旅になりました。
深く感謝いたします。

それから、お休みまで取ってお付き合い下さった毛玉さん、そして、めんどくさいおばさんの案内役として頑張ってくれたラスカルさん、本当にお世話になりました。
有り難うございましたぁ。 
これからも、お世話して下さいませ。 宜しくでっす!

そしてそして、ここまで飽きずに読んで下さった皆様にも心から感謝いたします。
これからもどうぞ宜しくお願い致しますです(ペコリ)。

追記
書き忘れてしまいました。
オキテ会とコラボって下さった、サーチ会のママチさん、Wさん有り難うございました。
ぼけぼけエドリンですので許してやって下さいまし。
それにしても、Wさんのカメラ良いなぁ!!



      おまけ

スティングの1周忌の後の11月5日、オキテ “アケボノソウ特別C7” に出走しました。
2番人気でしたが結果は3着でした。
あともう少し!  頑張ってればきっと結果はついてくるからめげずにファイティ~ン!!

11月14日笠松競馬に出走した、オキテと同オーナーで同厩舎の大先輩ダイショウジェットがレース中に故障して馬運車で運ばれました。
翌日、厩舎さんから「骨折ではないので大丈夫です。」との情報を頂きました。
でも、このまま引退し、後は三重県にできたオーナー様のトレセンで療養しそこで乗馬になるとのことです。
以前、オキテが行くかもしれなかった所です。
何といっても、まだ未勝利のオキテが故障した時に、半年以上の休養をさせて下さったオーナー様です。
ジェットさんもきっと元気に第2の馬生を送ってくれる事と思います。

そして、昨日11月16日、2号君ことタケノハーモニーの息子が、競走馬 “コスモセブン”として、東京第4レースで競走馬デビューしました。

結果はちょっと残念でしたが、初めての場所で初めてのレース、無事に走ってくれただけで良しでしょう。
ゆっくり見守ってあげたいと思います。
皆様にも、オキテ同様、応援して頂きたいと、タケノハーモニーになり変わってお願い致します(笑)。




               
                派手なビジュアル健在です!


毛玉さんが画面から撮って下さいました。




               
     ワォッ!  本物の競走馬見たいだぁ!(本物だから)あのチビちゃんが…ウルウル(涙)
           



              
                コスモセブン、2号君の頃です。



                              毛玉さん、有り難うございました。


津軽海峡とび越えてオキテに会いに行ってきたぁ!パート4

2014-11-10 | 日記
本線に戻りま~す。

電車の中で眠りこけながら群馬から帰って来た翌日は、埼玉県で~す。
昨日に比べるとメチャ近かった・・・・・(爆)。
今度は前日に連絡を入れ(もっと前から今日お伺いする事は連絡してました)、送迎のバスの時間もちゃんと予約しました。
私だってまだまだ学習するんですよ~(特に偉そうに言う事でもないけど・・・)。

あの日バスに乗っていた方たち、乗馬のレッスンには似合わない変な3人組が同乗しちゃって、ども済みませんでした。

向かった先は「日本乗馬倶楽部」。

今まで見た中で一番立派な施設の乗馬倶楽部さんでした。
平日なのに沢山の生徒さん達がレッスンを受けに来ています。
日本の乗馬ファンも増えてきているんだなぁ、と今さらながら感心してみたり。
明らかにセレブらしき方もいて、私なんぞは口をポカーンとあけて見てましたです、ハイ。

受付の方から2階の休憩所に案内され、インストラクターの方に紹介して頂きました。
片面全部ガラス張りで、下でレッスンを受けている様子が良く見えます。
前もって電話連絡とニンジンを送ってあったので、私たちがミラクルに会いに来た事はインストラクターさんもご存じで、「ミラクルは今レッスン中なのであと少し待っていてあげて下さい」と。
下を見ると、奥の方のレッスン場に葦毛の仔が2頭いました。
「どっちがミラクルだろうね」「後ろの仔かな?」
結局遠すぎてわかりませんでした。 

ミラクルには “もしかしたら北海道で暮らしていたかも知れない” というちょっとしたイワクがあって、絶対に会いたかったのです。
10歳で障害に転向して3戦目で大怪我して、その後の情報がなく、本当にあの頃は生きた心地がしなかった・・・。
「誘導馬の話がありますから」という関係者の言葉に諦めた引き取り。
それが嘘なのか、気が変わったのかはわかりませんが、それからすぐの障害転向。
あの当時は、馬の引き取りなどに関して何の知識もノウハウもなくて、ただ言われた言葉を信じて諦めたのに・・・・。
チームテイオーの代表ソロモンさんに調べて頂きやっとわかった安否。
それから4年。
長い治療期間を経て、すっかり乗馬馬へと変身したミラクル
本当に貴方の馬生はミラクルだね!
やっと会えます。


「レッスンが終わりましたよ」の言葉で、お仕事後のお手入れをして貰っている洗い場へ移動。
すっかり白くなった、テイオー産駒には珍しい葦毛のミラクル。
毛色は違うけれど、テイオーの仔らしく美形です(勝手にそう思ってます)。
穏やかで優しく落ち着いた光を放つ瞳からは、今の彼が幸せな日々を送っている事が伺えます。
鼻筋を触っても嫌がらずじっとしていてくれます。
人を信頼して、安心しきっているんだね。
オープン馬でもなかったミラクルですが、やはりそこはテイオーの仔、ファンが多い様で、ミラクルに会いに来て乗馬に関心を持ち、ここの会員さんになった方もいるのだとか。
ミラクルは、馬場馬術もやるくらいなので、初心者さんやビギナーさんには難しいのだそうです。
なのでその方は、いつかミラクルに乗ることを夢見てレッスンに励んでいるそうです。
そういう形の応援の仕方もあるのですね。
あと10年若かったら、私も乗馬やるんだけど・・・・(運動神経の問題もあるよ、という外野の言葉は聞こえません)。
































そして何気に横をみると、端正なお顔のお馬さんがお手入れして貰ってます。
「あの仔も元競走馬なんですよ」
気づいたインストラクターさんが教えてくれました。
“アイルラヴァゲイン”という名前です。  って、オープン馬じゃないですか!
2007年のオーシャンS(G3)の勝馬、今は亡きエルコンドルパサーの仔、そして安田記念馬リアルインパクトの半兄。
彼も10歳で引退後、ここで乗馬馬として第2の馬生を過ごしています。














たくさんミラクルと触れ合って、「もう、ご飯にしてあげなきゃ」とお部屋に帰してあげました。
ミラクルの馬房の壁には、馬場馬術で貰ったリボン( 何位かはわかりません )が2つ飾ってありました。
乗馬の世界では10歳以上のお馬さんの方が良いそうで、ミラクルもまだまだこれからなのだそうです。














ミラクルお疲れ様、そして今日は有り難う
これからもみんなに可愛がられて乗馬頑張ってね。
何よりも元気で、健康で、それが一番だからね。
たくさん、たくさん長生きするんだよ。
いつも祈っているからね!




「バイバイ」 ってウソで~す。 「ニンジンもっと~」のまえがきです(笑)。





1回に降りる階段の踊り場にこんなものがありました。
サインから、柴田大地騎手のもののようです。
柴田騎手も怪我からの復帰後、障害までずっとミラクルと闘ってきた方です。
きっと今の元気なミラクルの姿に喜んで下さっていると思います。




            











さぁ、いよいよ明日でこの長い旅も最終日になります。

続きま~す。



★追記★

先日、遠いオーストラリアでレース後に突然旅立ってしまった、アドマイヤラクティ。
ハーツッ仔応援の私にもショックな出来事でした。
いろんな意見や批判がネット上を駈け回っていますが、これを見て頂きたいと思います。

         サザンクロスの休息地便り


そして、昨日怪我をしたままゴールし、予後不良になってしまったシゲルスダチ。
NHKマイルの時のように蘇って欲しかった・・・・・・。

2頭のご冥福を祈ります。

お疲れ様、そして有り難う。









ちょっと途中下車です・・・・・スティングの1周忌

2014-11-04 | 日記
昨年の今日、私は唇をかみしめ下を向いたままバスに揺られていました。
上を向くと涙が落ちてきそうだったからです。
マイネルスティングが死んだ・・・・・・・。
昨夜その電話を受けた時から私の時は止まっていました。
「 嘘だ!悪い冗談だ!! 牧場に行ったら“わぁい、だまされたぁ!”ってみんなが笑ってるよ」そんな事を頭の中で繰り返しながら、流れる景色をただ見ていました。

嘘でも、ドッキリでもありませんでした。
私を迎えてくれたのは、トラックの荷台に横たわった、すでに冷たくなったスティングの亡きがらでした。


あれから1年の時が過ぎていきました。
その間に、スティングの愛したオキテは4つの勝ち星をあげ、今や立派な競走馬に成長しました。
この牧場で、スティングの仲間になるはずだったボンちゃん(フナバシボンバー)は、別の世界でスティングの仲間入りをしました。
そして、スティングの大好きだった茶飲み友達(?)ブリちゃん(ブリダーズフライト)もスティングのいる世界へお引っ越ししてしまいました。
だからきっと寂しくないね、スティング。




        
            
             スティング、久しぶりィ~!!






            
             ボンちゃんも久しぶりィ~!!






             
              スティングの隣にいるよ、ブリちゃん。






早朝、札幌を出る時、湿った大きな雪が降り出していました。
でも、静内に近付くにつれ雲の合間に青空が出始めました。
風は強いものの、車の中にいる分には暖房も必要ないくらい暖かく「やっぱり、私って晴れ女だよ~ん」といつものセリフが飛び出すほどでした。
でも心の中では、スティングが風と一緒に帰って来て、雨雲や雪雲を吹き飛ばしてくれたんだ、と、おとめチックな事を考えていた事は内緒です。


スティングの写真が沢山張られ、使っていた無口が壁にたくさん掛けられた休憩所で、暖かいコーヒーを飲みながら、先日会ってきたオキテの話を坂本さんご夫妻にしながら、スティングが窓の外でじっと聞いている様な気がしていました。

スティングの姿はどこにもないけれど、スティングが存在していた形跡があちらこちらに感じられ、「あー、スティングはここに帰って来ているんだなぁ」と、何故か笑顔になってしまいました。
それなのに、帰って来ていろいろ思い出しながらパソコンをたたいていると涙が出てくるのです。
今日だけちょっと、想い出涙に浸ってみます。
また明日から、はっちゃけおばさんのエドリンに戻りますので・・・・・・。




    
              
お久しぶり!のモッヒー君を見た途端、一緒に行ったNさんと同時に「モッヒー君、まるで馬じゃない!!」と叫びました。
あの、もっさり頭のモッヒー君がすっきりスマートになって、サラブレッドみたいで…・・ワォッ!





    
              
              「ボクたん、ず~っと馬でしから」by モッヒー





              
              「そだよ、そだよ。僕だって馬でつから(?)」by ジロー





              
              自分を馬だと勘違いしている犬(単にニンジン好き)ジローです。





              
              すっきりイケてるサラもどき、モッヒー君





スティング、また、来年ここで会おうね!!             




             
              
             
             「待ってるで。  忘れんといてや」 by エンジェルスティング











津軽海峡とび越えてオキテに会いに行ってきたぁ!パート3

2014-11-03 | 日記
楽園イグレットから現実の世界に戻り、東京駅で今日の締めとして夕食を取り、またの再会を期してコラボは終了しました。
翌日はちょっと遠出の為、ホテルに戻って早寝です。

そして、毛玉さんと待ち合わせた上野駅から各駅で1時間40分、なげぇ~~~~!
新幹線で行けば1時間もかかりませんが、お値段が倍以上・・・・・(涙)
「急ぐ旅じゃないし。」「そだね」 などと行きは呑気モードです。
その目的地とは・・ジャジャジャジャ~ン・・群馬県でっす!
群馬でも伊香保温泉に近いかなり奥の方です。
そこの乗馬クラブに、ずっと会いたいと思っていたキョウエイボーガンがいるのです。

そうです。 1992年の菊花賞
皐月賞、ダービーと勝ち進んだ怪物ミホノブルボン。
シンボリルドルフ以来の3冠馬誕生か!という期待を一身に背負ったブルボンの単勝1・5倍。
距離の適性という心配があったにも関わらずです。
2番人気のライスシャワーが7・3倍でしたから、どれだけ確実視されていたかがわかります。
その、ブルボンの3冠達成を邪魔したとんでもない奴と言われた、その、キョウエイボーガンです。

競馬に“たら、れば”は禁句だと言いますが、もしあの時ボーガンが大逃げをうたなかったらブルボンの3冠は達成されていたのでしょうか?
それは誰にもわかりません。
でも、ライスシャワーという根っからのステイヤーが、あの時「やっと自分の出番が来た」と虎視眈眈とレースを待っていたわけです。
すんなりと勝てただろうか・・・・・・?
ブルボンファンの方には反論を受けそうですが、あの距離に関しては、どんな設定でもライスの方に分があったと私的には思うのです。

逃げ馬は、逃げなければ勝負になりません。
ボーガンもその逃げ馬でした。
“白い逃亡者”と云われたホワイトフォンティン、“狂気の大逃げ”のツインターボ、日本馬として初めてジャパンカップをを勝ったカツラギエース、そして悔しい悔しい思いをさせられたメジロパーマー(笑)と、逃げ馬には個性的な馬たちが多かったような気がします。
逃げ切るか、玉砕かのギリギリのところで勝負している姿に、何故か哀しさを感じてしまうのは私だけでしょうか・・・?
今はそういう個性派が少なくなったような気がします。

余談ですが、サイレンススズカは、逃げ馬ではなく天性のスピードが違うだけなのだと、武騎手が何かに書いていました。

1989年、4月27日、テュデュナムとインターマドンナの間に誕生した小さな馬、それがキョウエイボーガンでした。
1991年、11月に競走馬デビューした時も馬体重420キロそこそこの見栄えのしない仔だったようです。
それが、レースが始まるとポンと先頭にたちそのまま逃げ切り。
2着馬に2馬身半の差をつけるという楽勝。
そこで陣営が色気を出したのか、2戦目、3戦目はおさえる競馬をしたところ惨敗。
おまけに骨膜炎を発症し、休養を余儀なくされたのでした。

そして翌年の5月に復帰すると逃げに徹して4連勝。
それも、中日スポーツ賞(G3)神戸新聞杯(G2)を含めてですから凄いです。
一躍、夏の上がり馬として注目を集めますが、京都新聞杯でブルボンと対戦して、鼻を奪えずに9着と大敗。
その結果の菊花賞での大逃げ作戦だったようです。

ブルボンに勝つには一か八かのあの逃げしかなかったのでしょう。
でも、一人旅のボーガンとブルボンの間はかなりあったのですから、ある意味、ブルボンが先頭を切っているとも考えられるのですが。
当時、折り合いを欠いたブルボンのメンタル面を指摘した方もいました。
私的には「本当に強い馬は、どんな状況でも負けない」と思ってしまうのです。(ブルボンファンの方ごめんなさい。)

私は特にボーガンのファンではありませんでした。
ライスシャワーとマチカネタンホイザーの馬券を買っていたくらいですから。(当時まだワイドはなかったのです)
ただ、レース後、ある競馬評論家の方が 「くだらない馬が逃げた為にブルボンが3冠とれなかった」 と言ったことを知り、もの凄く悲しかったのを記憶しています。
それからです。 頭のどこかにキョウエイボーガンという名が焼き付けられたのは。


菊花賞で非難の的にされたボーガンは、その事が原因なのかわかりませんが、その後まったく勝てずにひっそりとターフを去ります。
重賞2勝もした仔でも生き残る事は砂浜からコンタクトレンズを探すくらい難しいことです。
ボーガンも馬運車に乗せられ兵庫県にある牧場に連れていかれました。
そこは場に送られる馬たちが一度集められる所でした。
ところが、ボーガンは持っている仔だったのです。
ある1人の女性が、ボーガンを探して探して、ここまで追いかけてきたのでした。
そこでボーガンは10万円で引き取られます。
1億3千万稼ぎだした馬の価値が10万円です。
どこかおかしい気がします。

引き取った女性は、普通の主婦の方でした。
たまたま読んだ雑誌に菊花賞出走馬の話が載っていて、ボーガンの事も出ていたそうです。
ボーガンの母インターライナーは、11才でボーガンを産み、それが最後の出産になったのです。
というのも、その年1989年でインターライナーは用途変更になり、牧場を出されてしまったからです。
産まれて7カ月で母を失ったボーガンに、この女性はいたく心を打たれ、菊花賞で先頭を走る姿に「この仔を飼ってみたい」と思ったそうです。
何故そんな風に思ったのかは、きっとご本人にもわからないでしょう。
神様のちょっとしたいたずら心だったのかも知れません。
それが縁というものなのかも知れません。
そして、ボーガンが引退したことを知ったその方は、無茶を承知で厩舎さんに行き先を尋ねたそうです。
普通は決して教えてはくれません。
適当な事を言ってあしらわれるのが関の山です。
でも、その方の気持ちの強さに負けたのか、ボーガンを助けてやりたい気持ちがあったのか、その行き先を厩務員さんが教えてくれたのです。

それから、あちこち点々と場所は移動した様ですが、オーナーさんはいまだにその女性の方です。

ボーガンの命は、若くして散ってしまった母インターライナーの思いが繋いだように思うのは人間的見方すぎるでしょうか。

今はもうすべて想い出という宝箱の中にしまわれ、時折誰かが取りだしては懐かしむ話になってしまいました。
その時の仲間、ライスは早世し、タンホイザも天に還っていきました。
この話を紡いでいくのはブルボンとボーガンだけになってしまいました。
だから、どうしても会いたかったのです。
そして「貴方は何も悪くない、間違った事などしてないよ。 素晴らしい名馬だったよ」と伝えたかったのです。
奇しくも今日は第74回菊花賞がおこなわれる日です。


前置きが長くなりました。
高崎で乗り換えて、小野上と云う所で降り、親切なおばさんにバス停まで案内されて歩くこと10分。
やっとたどり着いたバスの時間は1時間後・・・・・・(爆)
クラブさんに電話してみると、「駅まで迎えに行ったのに」と・・・・・早く言ってよ~。
とりあえず車で迎えに来ていただき、や~~~~~っとの思いで到着です。

いましたよ~!!ボーガン君。
童顔なのかまだまだ少年みたいな可愛さです。
やっぱり小柄で、この小さな体で3000メートルを逃げ切ろうとしたんだなぁとウルウル。
「悪者みたいに云われていますけど、おとなしいし、性格が良い。 可愛いですよ」と場長さん。




          
      明るい洗い場に出して下さいました。「初めまして、ボーガン君」 「あんた誰?」by ボーガン




          
           優しい瞳の穏やかな仔です。今年25才です。
       



          
           「お母さん、どこ行ったのかな?」by ボーガン




                                
           「何にもくれないし、帰りたいよ」by ボーガン





この場長さんは乗馬の先生でもあり、学習院の馬術講師もなさってきた方です。
長年ヨーロッパで修業をなさってきたと云うだけあって、きちんとネクタイを締めて馬に乗る、これが欧米風のホースマンなのでしょうね。
何よりも“馬第一主義”のお手本のような方で、レッスンの前に必ず馬を洗い場に出し、聴診器で心音を聞くのだそうです。
それで、少しでもおかしいと感じたら、その日のレッスンは中止。
ここは遠いので、生徒さん達は泊まりがけで来るそうですが、それでも、馬の体調によってはレッスンを受けられなかったりすることもあるのだとか。
先生にとって、お金儲けよりも馬の命の方が大切なのです。
「だからお金には縁がないんですよ」と笑う先生に、深い畏敬の念を感じざるを得ませんでした。



        
  
          
          馬に乗る時は常にきちんとした服装で。 本物のホースマンです。



そして雑談の中で、引退馬協会の話がでて、ナイスネイチャの話題になった時、「ここにも渡辺さんの生産馬がいるんですよ」と、奥様がおっしゃいました。
驚きながら、さっそくその仔の所へ。
ちょっといたずら心を出して、シャメを取り、渡辺牧場の奥様はるみさんに送ってみました。




          
          「この仔だぁれだ?」
       



すぐに返事がきて「ラックですね! 」と。
ビンゴ~!!
そうです。  キシュウラックの息子キゼンラックです。
さすが、もうかなり長く会っていない筈なのに一発でわかってしまう、強い愛のなせる業ですね。
そして、ここの先生は、はるみさんの著書「馬の瞳を見つめて」に写真が載ってらっしゃる方なのだそうです。
“昔から本当に生き物を大切になさってる方ですが、今も変わってらっしゃらないんですね”
とのはるみさんの言葉通り、犬も猫も可愛がっていらっしゃいました。
だから、そういうお気持ちに共鳴なさった方達が、交通の便もあまり良くないにも関わらず、「この先生でなければ」と自馬を預け、泊まりがけでレッスンに来るのでしょう。
この日も、何人かの方たちと、先生の教え子だと云う宮内庁の騎馬隊の方がお子様連れでいらしてました。




        
        「ども、ラックです」 ラックは先生の馬場馬術の素晴らしいパートナーだそうです。




        
        毛玉さん、引き馬させて頂きました。 様になってます。



                        

キョウエイボーガンに会えて、キゼンラックにも会えて、そしてこんな素敵なホースマンご夫妻に出会えて、ホッカホカの気持ちで帰途についたのでした。
に、しても、時間かかったぁ!!  帰りは倍に感じちゃったです。
次に来る事があったら、ケチらず新幹線にするぞっと。
それでもまた来てみたい所でした。
ボーガン、それまで元気でね!!



         
        





今回は長~くなってしまいごめんなさいです。
でも~、まだまだ続くのですよ~~~~(笑)。