新・名も無い馬ですが・・・・・

2013年11月3日に旅立ったマイネルスティング。
その想い出と一緒に、これからも名も無い馬たちの応援をしていきます。

☆有馬記念を彩った馬たち☆

2014-12-25 | 日記
2014年も残りわずかとなりました。

今年も沢山の名馬たちが虹の橋を渡りました。
寂しい事ですが、どうしようもない世の常です。
ただ、どのお馬も幸せな馬生であったと信じます。
その死を悲しむ人がいると云う事がその証明だと思います。
今月もまた1頭の名馬が旅立って行きました。

12月12日、トウカイテイオーの同期で、皐月賞2着馬 “シャコーグレイド”です。
引退後、誘導馬や、乗馬などで頑張り、余生は、夏は岐阜の乗馬クラブ、冬になると富山のオーナーさんのところで過ごすと云う生活を送っていました。
今年は何と役者馬(?)として「超高速・参勤交代」という映画でスクリーンデビューもしました。
映画のエンドロールにちゃんとシャコーグレイドと名前が出て、生きている事を知ったファン達がそのクラブに会いに行ったり、ニンジンを送ったりしてくれたそうです。
そして、11月に富山に戻り、オーナーさんが見守る中で静かに馬生の幕を閉じたそうです。
老衰でした。  享年26才。

1991年、皐月賞、私は新聞を見るまでも無く買う馬を決めていました。
トウカイテイオーとシャコーグレイド。これしかない!

そして、テイオーの引退式、まるでテイオーの引退を祝う様に3年ぶりにあげた勝利。
私はボックス席(今はもうありません)からウイナーズサークルのシャコーに拍手しました。
懐かしい懐かしい想い出です。

今頃はテイオーと会って、想い出話しに花を咲かせているかも知れません。


    
          
          2011年のシャコーグレイド



          
          2012年のシャコーグレイド



          
          同じく2012年のシャコーグレイド



          
          2013年のシャコーグレイド

    
                 
          2014年のシャコーグレイド
          
          

シャコーグレイド、お疲れ様、そしてありがとう。 
ご冥福を祈ります。



                 



                              
        (画像はチームテイオー、Mさんよりご提供いただきました。有り難うございました)          

今日はいつもと違った始まり方をしてみました。 エドリンです、こんにちは。



    

クリスマスが終われば、最後のお楽しみ “有馬記念” です。
有馬と云えばこの方、ナイスネイチャが登場します。
何と言っても、20年以上たった今も破られていない記録、有馬記念3年連続3着。
別に狙って3着に入ったわけではないでしょうが、前の方で何があっても気がつけば3着。
それも
1991年、絶対的1番人気のメジロマックイーンを14番人気のダイユウサクが破ると云うとんでもない事が起きたレースで3着。
1992年、これまた1番人気のトウカイテイオーをメジロパーマーが破っちゃうという、今なおテイオーファンの間では話題にしてはいけない2つのレースの内の1つ (もう1つは春の天皇賞 )となっている中で黙々と3着。
そして、1年ぶりのトウカイテイオーがその年の最強馬ビワハヤヒデを破り、奇跡的勝利をあげた感動のレースでも、我関せずの3着。
実はそれだけではないのです。
ナイスネイチャは同期の仲間達が次々とターフを去った後も有馬記念を走ったのです。
1991年から1995年まで、野球でいえばオールスターのようなレースに出走したのです。
私の記憶では有馬記念に5回連続出走したのは、ナイスネイチャくらいじゃないかと思うのですが、もし他にもいたら教えて下さいまし。

ナイスネイチャの記録が何故凄いかと云うと、2年連続して3着したのは、2006年、07年のダイワメジャー、2010年、11年のトゥザグローリーと2頭いるのですが、3年目はダイワ出走なし(引退した為)、グローリーは16着と切れてしまっています。
ある意味連覇するより難しいかも。
これから先も出てくるかなぁ・・・・・・?

ちょっと面白くなってしまった私は、有馬記念の変わった記録を調べてみました( 暇だねぇとは言わないでネ )。

まず、2001年から2003年までこんなお馬たちが馬券に絡んでました。
2001年  ダイワテキサス   3着  13番人気
2002年  アメリカンボス   2着  13番人気
2003年  タップダンスシチー 2着  13番人気

タップダンスシチーは2002年の2着の後、2004年にも2着でした。
リンカーンは2003年2着した後、2005年に3着とやはり1年、間が開いた後の掲示板確保でした。

何気にファンだったランニングフリーは1988年、89年4着、1990年5着という成績でしたが、1988年と1990年の勝馬はオグリキャップでした。

そして、可哀相なのはマチカネタンホイザで、1994年のジャパンカップを鼻出血で競走除外、続く有馬記念もまた蕁麻疹で出走取り消し、それでも翌年の “高松宮杯” で勝ったのですから強い馬だったのですね。

今回はちょっと古めの有馬記念を探ってみましたが、その内にまた最近の有馬を調べてみたいと思います。

さぁ今年はどんなドラマが起こるのでしょうね。


    

名古屋競馬のオキテ君、24日、今年最後のレースに挑みました。
2枠2番、2番人気・・・・・・・・そうです、結果は鼻差2着(笑)。
それでも、内で我慢して直線で馬込みを割って差してきた姿に、今までとは一味違うオキテを見ました。
今年も1年、オキテの応援ありがとうございました。
新しい年にはきっと、もう1段成長したオキテになっていると信じます。
引き続き応援して下さったら嬉しいです。



              
              オキテ会の会員さんOさんが応援に行って下さいました。有り難うございます。



    

スティング亡きあと、ビッグゴールドさんと一緒に坂本牧場のアイドルとして頑張っているモッヒー君から元気な姿が届きました。


            
            「モッヒーでし。 元気してるでし。」



            
            「僕たんにも会いに来て下さいでし。」



            
    アンバー婆ちゃんと、オキテ妹(父、デュランダル)、タケノハーモニーッ娘(父アサクサキングス)




どうぞ来たるべき2015年も、皆様にとって素敵な1年になりますようにお祈りしています。

今年も1年有り難うございました!!

追憶*****ミホシンザン・その時代

2014-12-11 | 日記
最近、軽い鬱にかかっている気がします。
大した事でもないのにド~ンと落ち込んでみたり、急に涙ぐみそうになったり・・・・。
「心の病にかかったみたい」と甥っ子に打ち明けてみると、
「きっと老人性ウツってやつだよ。」 軽く言われました。
急にムカッときて「 まだ早いわい!! 」思わず怒鳴ってみました。
そうしたら何故か心の中のモヤモヤが消えました。
気持ちが重~くなった時は大きな声で叫ぶのが良いのかも知れません。

我ながら‘単純な奴’だと思います、ハイ・・・エドリンです、こんばんは。



12月4日、ミホシンザンが亡くなりました。
父、シンザンの35才は超えられなかったものの、32才と8カ月、生ききったといっても良いでしょう。
昨年の9月、会っておいて良かったと思います。

道路沿いの広い放牧地でのんびりと草を食んでいたミホシンザン。
私たちを見つけると「別にあんた達がいるから行くんじゃないよ。日陰で休みたいだけだよ。」とでも云うように、ゆっくり、ゆっくりと私たちのいる方へ来てくれて、柵にもたれかかる様にまどろみ始めた姿は、縁側で昼寝するご隠居さんといった風情で、今現在、どれだけ穏やかで平和な余生を過ごしているかを想像させるのに充分でした。
今までの辛かった事、悲しかった事、苦しかった事、すべて消化しつくして、今はただ自然の流れにまかせて、その日、その日を無事に過ごす事で満足している、そんな気がして、眠っているミホシンザンに小さい声で「 良い馬生生きてるね 」とささやきました。
気のせいかも知れませんが、その時つぶっていた目がうっすらあいた様に見えました。
まるで「 あぁそうだよ。幸せに暮らせてるよ。」とミホシンザンが返事してくれたようで心から安心した事を覚えています。
だから、訃報を聞いても悲しくは有りませんでした。
「さて、この世のお役目は終了した。そろそろ行こうかな」 そういうミホシンザンの言葉が聞こえてきそうでした。

彼の旅立ちは、一つの時代の終わりを告げている様で、悲しみよりも寂しさを強く感じたのでした。



             
              



             
              



ミホシンザン・・・・・戦後の日本競馬界を牽引した5冠馬シンザンの最高傑作と呼ばれ、故障でダービーに出られず、「幻の3冠馬」とも称されました。
ミホシンザンの産まれた1980年代は、競馬界が大きく揺れた時代でもあります。
1983年、84年と、父であるシンザンから20年近くたって、立て続けの3冠馬誕生。
そして、83年のミスターシービーは、天馬と呼ばれたトウショウボーイの息子、翌年のシンボリルドルフは、日本競馬初の無傷の3冠制覇。
これ以上ないくらいの盛り上がりのなかで、あのシンザンの息子、ミホシンザンがデビューし、1冠目の皐月賞勝利。
となると、3年連続の3冠馬誕生か!と周りが騒ぐのは至極当然だったでしょう。
ダービーを故障で出走できなかったことで余計に騒がしくなった菊花賞。
そんなプレッシャーにも負けずに勝利したミホシンザン、「幻の3冠馬」にふさわしい強い馬でした。
もともと悪かった脚元を庇いながら、名馬シンザンの息子と云うプレッシャーに押されながらの競走馬生活は、苦しいことの方が多かったでしょう。


あの時代は個性の強い馬が揃っていた時代でした。
競馬がギャンブルだけではなく、スポーツとして、エンターティメントとしても楽しめる物である事を、人々が知り始めた時代でもありました。
そして、馬と云う生き物が素晴らしく人を魅了する存在であるということも・・・・・。

シリウスシンボリ、 サクラユタカオー、 ニシノライデン、 アサヒエンペラー、 モンテジャパン、 スダホーク
スズパレード、 ビンゴチムール、 ロンスパーク、 ジュサブロー、 クシロキング、 ニッポーテイオー、 ウインザーノット、 フレッシュボイス、 ラグビーボール、シンチェスト、 メジロデュレン、 ダイナガリバー、 etc・・・etc

次々と出てくる懐かしい名前。
遠い記憶の底からドンドンと飛び出してきます。
それはきっと、私の人生の流れと共に歩み、刻み込まれた名前だからなのかも知れません。
ミホシンザンは、20年近く現れなかった3冠馬が2年連続して出た年代の大きな星の一つでした。
その殆どが天に還ってしまった今、ミホシンザンは最後の大物的存在でした。
その彼も逝ってしまった。
感慨深いものがあります。

その頃、初めて1口馬主になった事がありました。
まだそれほど一口クラブの馬は多くなく、馬主になれない庶民の趣味的疑似馬主ごっこのような受け止め方をされていました。
私が出資したのは、当時好きだったスダホークと同じ父、シーホークの牝馬でした。
父シーホーク、母レディビーナス・・・・カリビアンビーナス、それがその仔の競走馬名でした。
川崎競馬でデビューし、6戦1勝、6戦目に故障発生で競走中止。
そのまま引退となりました。
繁殖に上がるとクラブから連絡がありましたが、真偽のほどはわかりません。
その後クラブから代わりの馬のリストがきましたが、私はもう持ちたくありませんでした。
レースを見てあげる事もできないまま、一度も会う事もないまま別れてしまったビーナスに申し訳ない思いで一杯だったからです。
その罪悪感からか、これまでビーナスの話をした事はありません。
それが何故か、ミホシンザンが亡くなった後、もうそんな思いを開放しても良い様な気がしたのです。
長い幽閉から釈放されたような、重い足かせが取れたような・・・・。

ミホシンザンの旅立ちは、私の心の中に一つの区切りをつけてくれたのでしょう。

ミホシンザン、お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さいね。ありがとう!    合掌



             


                     2013年9月撮影                                   


 
    

トウカイテイオー産駒の会の第1号サポートホース、ヤマニンバッスルが乗馬競技会デビューしました。
常総ホースパークさんで乗馬馬として、日々お稽古に励んでいたバッスルは、乗馬としてもお仕事ができるようになり、障害競技にも出場できるまでになりました。
その晴れ姿をチームテイオーさんから送って頂きました。



          
           障害を一つも落とさず、減点なしで完走出来ました。ワンダフォ~!




          
           父に良く似ています。 トウカイパルサーとどっちが似てるかなぁ?




          
           「このモンドコロが目に入らぬかぁ!」 byバッスル






    

名古屋競馬で頑張っているオキテ君情報です。
11月21日、3レース3枠3番で出走し、3番人気、3着、着差3馬身と笑える記録を残してくれました。
次走の12月5日のレースは、4レース4枠4番、5番人気、3着でした。
年内にあと1走くらい走るかも知れませんが、どうか次は1並びでいってほしいなと思います。
でもまずは、寒さに負けず、無事に走ってくれる事が一番です。


             
              「僕は数字に強いんだ!!」byオキテ  何か違う気が・・・・・?



皆様も風邪やインフルエンザにはお気をつけ下さいね。














♪ ルージュの伝言 ♪

2014-12-03 | 日記
寒いです。
天気予報で大雪とかいうので、覚悟して、チョウ厚着で準備万端、いつでも除雪オッケー体勢で待っていましたよ!
ところが、札幌方面はチラホラだけで積もる気配無し!
アレェ~~ッ???
地域によっては凄い積雪で、「大変だなぁ」と実感こめて思います。
でも、明日は我が身、です。
雪・・・・・嫌いです。
除雪・・・・もっと嫌いです。

春まで冬眠したいと切に願うエドリンです、こんばんは。





    

たぶん、馬に惹かれた人には大概1頭の「運命の仔」とでもいうような馬がいるんじゃないかと思うのです。
何となく気になって、から始まって、いつのまにかその仔の後を追っている。
その仔が引退して、探しても探しても行く先がわからない・・・・・不安で心配で胸が張り裂けそうになってしまう。
月日の流れにいつしか心配が諦めに変わっても、心の中に焼き印のように残っている名前。

それでも中には、行き先がわかったり、自分で引き取れたり、見守る会があったりと、幸せな出来事もあります。

引退馬の余生に関心を持って下さる方たちから「この馬は特別です」という言葉を良く聞きます。


彼女にもそういう特別な馬がいました。
その馬が引退した後、行き先を必死で探し、移動先まで会いに行き、先々を案じて引き取りも真剣に考えていた1頭の馬。
ダートでG1馬になったフィールドルージュです。

フィールドルージュは、父クロコルージュ、母メジロレーマーとの間に、2002年誕生しました。
2004年にデビューし、2011年に引退するまでに、30戦9勝。
その中には2008年の交流レース川崎記念(G1)で、フリオーソを破っての勝利があります。
また、2007年のジャパンカップダートでヴァーミリアンの2着したこともあります。
一緒に戦ったお馬はアロンダイトやスマートファルコン、ワンダーアキュートなど錚々たるダートの猛者たちでした。
G1を取った仔でも種牡馬になれない現在の競馬界。
フィールドルージュも引退後、函館競馬場の誘導馬になるべく函館に移動しました。
これが1回目。
函館には約1年近くいましたが、馬事公苑に移動。
ところがしだいに、ここに長くはいられそうもないと、彼女は感じるようになりました。
それというのも、会いに行くたびにスタッフさんに様子を聞いていたのですが、だんだんとスタッフさんの顔が暗くなっていったそうなのです。
乗馬馬としてあまり思わしい進展がないようなのでした。
結局、馬事公苑にいたのは1年足らずで、京都の大学の馬術部に移るもすぐに同じ京都の乗馬クラブへ移動。
まるで転勤族のように、2年間で4回の移動。
彼女はルージュが移動するたびに、もう1人、やはりルージュが心配でずっと見守り続けているNさんと連絡を取り合い、居所を探してきました。
京都の大学からの移動時は、移動する事すら教えて貰えず探すのに苦労したとか。

ところが、その乗馬クラブで、乗馬として使えるようになったら売るので買う気がないなら邪魔しない様にと言われたそうです。
それで彼女もNさんもあせりを感じ、急いで引き取りする事を決めたそうです。
諸事情があってその引き取りはかなり難航しました。

Nさんの頑張りでどうにか引き取る事が出来たものの、手続きすべてが終了するまではフィールドルージュという名前を出す事さえ出来ませんでした。

高知の黒潮牧場さんへの移動が決まり、馬運車が到着した時点でやっと公表する事ができたのでした。

そして今は、黒潮さんで穏やかな日々を過ごせるようになりました。

運命の渦の中で漂流し続けたルージュにも終の棲家ができたのです。

黒潮牧場さんでは、黒潮友馬会の仲間となって会員さんを募っています。
ルージュを引き取り、ここまで導いてきた彼女とNさんも大口会員となり、これからもずっとルージュの余生を見守っていけます。
もう決して、目が覚めたらルージュが、知らない内にどこかへ行ってしまっているんじゃないかという不安に襲われる事もないでしょう。

そういう状況を感じたのか、ルージュは今、黒潮牧場さんで思いっきりやんちゃ坊主しているようです。
新人のくせに、隣のコッ君(ナムラコクオー)やライさん(ヘッドライナー)などに牙をむくのだとか。
実は彼、見かけは華奢っぽくて牝馬と間違われるくらいの美形なんですが、その実像はなかなかきついそうです。
それはそうでしょう。
だって、ルドルフ様の血が入っているのですから、一筋縄でいくようなヤワであるはずがない(きっぱり!笑)。
ルージュの母、メジロレーマの母はメジロリベーラ。
メジロリベーラといえば、メジロラモーヌとシンボリルドルフの娘で、当時10冠ベイビーと騒がれたお馬です。
やっと、もうどこにも行かなくて良いんだと理解して、安心して自分を出しているルージュなのでしょう。
でも、少しは年長者に敬意を払ってね()。



            土佐黒潮牧場ホームページ


      
            
            馬事公苑を退厩する前日





            
            大学の馬術部です。 ここにいたのは2カ月だけでした。




            
          京都の乗馬クラブに着いてすぐの頃。 不安そうな表情だと彼女は言います。





            
         これも京都のクラブです。ルージュは馬場馬術はあまり好きではなかったようです。





            
お二人に引き取られて、一時預かりの「ひだまり牧場」さんで。ここでルージュはのんびりした日々を過ごし、安らぎを取り戻したようです。




                                          
            
            安住の地、黒潮牧場さんです。




            
            ちょっと丸くなったかな?




            
            やるときゃやる男だじぇ!(あの~セン馬だよね。)




            
            ほらね、やるときゃやる男だっていったろぅ。(だから。セン馬でしょって)





            
            どんな会話をしてるんでしょ?



きっとルージュが話せたら、お二人にこう言うでしょう。
「僕を守ってくれてありがとう」と。



そして、ものはついでと、私はチタニックオーにお花を持って行って頂きました。


            



馬は出会った人で運命が決まると言っても過言ではありません。
小さな犬や猫ですら、寿命まで責任を持つと云う事が出来ない人間の多い中、大型動物の命など邪魔になるだけだと思う人がいるのは,残念ですが仕方のない事なのでしょう。
それでも、自分の心に入り込んだ仔達の命を守りたいと考える人が、1人でも2人でも出てくれたら、きっと動物達の環境も変わって来るのではないでしょうか?

貴方には運命の仔、いますか


            
    

先日、起こった「栃木小型犬大量遺棄事件」に関して、NPO法人犬猫みなしご救援隊の代表が情報を発信しています。
生き残った犬達を助けようと、動きがでています。
どうぞ、この事件がもみ消されない内に、覗いてみて下さい。


       NPO法人・犬猫みなしご救援隊・代表ブログ、みなしご庵へようこそ             


女優の杉本彩さんも書いてます。


        杉本彩オフィシャルブログ





フィールドルージュの画像、情報などは、彼女さんから頂きました。 有り難うございました。