お雛様も終わったというのに猛吹雪。
吹き溜まりで玄関ドアが開かな~い!!
春はどこ行った~~!
家の前にドデ~ンとのさばっている雪の山に・・・もう笑うしかないエドリンです、こんにちは。
1980年代へタイムトラベル・しゅっぱーつ
つい最近ちょっと調べる事があって、ネットサーフィンしてた時、何気に見つけたお馬の名前。
ゲンキクン
私が競馬に興味を持ち始めた頃、初めて心魅かれた仔です。
最初は名前が可愛くて気になっていました。
実物見たらもっと可愛くって、競馬雑誌に載っていた写真を切り抜き、フォトスタンドに入れて飾っていました。
初めて写真を飾ったお馬さんでした。
その頃は、引退したお馬さん達がどうなるのかなんて全く想像さえした事がありませんでした。
自分の選んだお馬さんが勝ったとか、馬券が当たったとかそんな事に夢中でしたから。
血統だとか、レース展開だとか、なぁんにも知らず、ただ自分の勘だけで馬券を買っていましたが、結構当たってたんですよね。
競馬場に行けなくて、初めて場外馬券売り場で買った馬券、今でも覚えています。
1986年1月5日、クシロキングの勝った金杯。
この時私は3レースに1点ずつ買いました。
9レース、10レース、11レースそれぞれ枠連千円ずつ。 計三千円。
当時は、単、複、枠連しかなかったのです。
9レースは外れましたが、10レース、11レースとゲット。
メインの金杯は980円と低配当でしたが、10レースの門松賞は三千円近くの高配当。
ヨシカツイッセイとワカサドンソー、懐かしい名前です。
競馬仲間に「たくさん買っても意味ないよ。」などと偉そうに言った覚えがあります。
たんなる偶然でしかなかったのですが (後の結果が物語る)・・・・・。
閑話休題、ゲンキクンでした。
実はゲンキクンと言う名前のお馬は今までに3頭いるのです。
で、私の言ってるゲンキクンは初代の仔です。
1982年5月25日生れ、父ルポデュール、母アリスライン(父ハードリドン)。
彼は増沢ジョッキー(現調教師)を背に、900万下(現1000万下)のつくば特別、三里塚特別を2着した後、果敢にも上のクラス1400万下に挑戦し、パーシャンボーイの3着と頑張りました。
残念なことに、当時はワイドも、3連複も3連単もなかったので、私の馬券は紙くずと散っていきましたが・・(涙)
それでも、奇麗な栗毛の馬体が、直線まで先頭を走っている姿に心ときめかせるのは、本当に楽しい事でした。
その名前のせいか彼は、私の様に競馬初心者の女性とか、子供たちに結構人気があったように記憶しています。
でも、月日の流れと共に、彼の名前も消えていきました。
その後、馬世界を知れば知るほど、引退後の競走馬の悲惨さに幾度となく心を押しつぶされそうになりました。
G1馬ですら幸せな余生を送れるかどうかわからないご時世です。
ゲンキクンも私の思い出の中に埋もれていきました。
それが何と、初代ゲンキクンは2009年まで北海道の牧場で生きていた事がわかったのです。
どこの牧場か、今現在どうしているのかまではわかりませんでした。
でも、私にとってつい4年前まで彼が生きていたという事で十分です。
今も彼が生きているとしても、すでに31才です。
4年前なら27才。
長生きといってもおかしくはない年齢です。
準オープン馬ですらなかった彼がその年齢まで生きていられた奇跡に、ただただ感激するばかりです。
詳細はわからなくても、きっと彼ゲンキクンは、神様のお呼びがかかる時までゲンキに生きている、又はいたと、信じていたいから・・・・・。
何と言って良いのかわからない嬉しさと一緒に、心の奥底に押しこまれていた、想い出の宝箱のふたが開いて、懐かしい馬たちの名前が飛び出してくるのを感じました。
1980年代、ミスターシービー、シンボリルドルフが連続して3冠馬になった時代、その偉大な功績の陰で一生懸命走っていた馬たち。
いつも必死な面持ちで走っていたけな気な オカポート
最高負担重量 61・5キロを背負って重賞を勝ち、JRA優秀ダートホース賞を2年連続で取った‘ダートの鬼’と呼ばれた アンドレアモン。
重馬馬をスイスイと走り抜け、水かきがついてる馬と言われたチェスナットバレー。
そして、私の永遠の王子様トウカイテイオー誕生に一役かっていたセッテジュノー。
というのは、彼女が勝った1987年の‘新潟大賞典’、この時の2着馬はトウカイローマンなのです。
本来はここで引退し、シンボリルドルフのお嫁さんになるはずだったローマン、それが2着と云うちょっと微妙な着順。
1着なら花道を飾り引退、もっと下の着順だったら体力の限界という事で引退、だったはず。
悩んだ陣営が選択したのは現役続行。
後に‘京都大賞典’を勝ったわけですから、この時の判断は正しかったのでしょう。
そして、宙に浮いてしまったルドルフの種付け権利は妹のトウカイナチュラルへ。
でもって、誕生したのが“テイオー様”と云うことなのです。
あの日セッテが勝っていなかったらテイオー様はいなかった・・・・はず。
まだまだ飛び出してきた名前はありますが、長くなるのでパート2に載せようと思います(続くんかい!)
ちなみに、2代目ゲンキクン (1994年6月7日生れ、父カッティングブレード、母ハイセイニシキ・母父ハイセイコー)はどうやら現在、群馬県の乗馬クラブで頑張っているようです。
3代目ゲンキクン (2001年4月10日生れ、父デュラブ、母キタノフレンド・母父シーホーク)は残念なことに3戦目のレース中に故障発生し予後不良となっています。
突然飛び込んできた名前から一気に1980年代へとタイムトラベル、この旅はまだ続くので~す。
おくちなおし
今年スティングがお世話係をする2号君に妹が生れました。
タケノハーモニーとべィビーちゃん(パパの名前は聞き忘れましたぁ!後ほどでっす!)
to be continued
吹き溜まりで玄関ドアが開かな~い!!
春はどこ行った~~!
家の前にドデ~ンとのさばっている雪の山に・・・もう笑うしかないエドリンです、こんにちは。
1980年代へタイムトラベル・しゅっぱーつ
つい最近ちょっと調べる事があって、ネットサーフィンしてた時、何気に見つけたお馬の名前。
ゲンキクン
私が競馬に興味を持ち始めた頃、初めて心魅かれた仔です。
最初は名前が可愛くて気になっていました。
実物見たらもっと可愛くって、競馬雑誌に載っていた写真を切り抜き、フォトスタンドに入れて飾っていました。
初めて写真を飾ったお馬さんでした。
その頃は、引退したお馬さん達がどうなるのかなんて全く想像さえした事がありませんでした。
自分の選んだお馬さんが勝ったとか、馬券が当たったとかそんな事に夢中でしたから。
血統だとか、レース展開だとか、なぁんにも知らず、ただ自分の勘だけで馬券を買っていましたが、結構当たってたんですよね。
競馬場に行けなくて、初めて場外馬券売り場で買った馬券、今でも覚えています。
1986年1月5日、クシロキングの勝った金杯。
この時私は3レースに1点ずつ買いました。
9レース、10レース、11レースそれぞれ枠連千円ずつ。 計三千円。
当時は、単、複、枠連しかなかったのです。
9レースは外れましたが、10レース、11レースとゲット。
メインの金杯は980円と低配当でしたが、10レースの門松賞は三千円近くの高配当。
ヨシカツイッセイとワカサドンソー、懐かしい名前です。
競馬仲間に「たくさん買っても意味ないよ。」などと偉そうに言った覚えがあります。
たんなる偶然でしかなかったのですが (後の結果が物語る)・・・・・。
閑話休題、ゲンキクンでした。
実はゲンキクンと言う名前のお馬は今までに3頭いるのです。
で、私の言ってるゲンキクンは初代の仔です。
1982年5月25日生れ、父ルポデュール、母アリスライン(父ハードリドン)。
彼は増沢ジョッキー(現調教師)を背に、900万下(現1000万下)のつくば特別、三里塚特別を2着した後、果敢にも上のクラス1400万下に挑戦し、パーシャンボーイの3着と頑張りました。
残念なことに、当時はワイドも、3連複も3連単もなかったので、私の馬券は紙くずと散っていきましたが・・(涙)
それでも、奇麗な栗毛の馬体が、直線まで先頭を走っている姿に心ときめかせるのは、本当に楽しい事でした。
その名前のせいか彼は、私の様に競馬初心者の女性とか、子供たちに結構人気があったように記憶しています。
でも、月日の流れと共に、彼の名前も消えていきました。
その後、馬世界を知れば知るほど、引退後の競走馬の悲惨さに幾度となく心を押しつぶされそうになりました。
G1馬ですら幸せな余生を送れるかどうかわからないご時世です。
ゲンキクンも私の思い出の中に埋もれていきました。
それが何と、初代ゲンキクンは2009年まで北海道の牧場で生きていた事がわかったのです。
どこの牧場か、今現在どうしているのかまではわかりませんでした。
でも、私にとってつい4年前まで彼が生きていたという事で十分です。
今も彼が生きているとしても、すでに31才です。
4年前なら27才。
長生きといってもおかしくはない年齢です。
準オープン馬ですらなかった彼がその年齢まで生きていられた奇跡に、ただただ感激するばかりです。
詳細はわからなくても、きっと彼ゲンキクンは、神様のお呼びがかかる時までゲンキに生きている、又はいたと、信じていたいから・・・・・。
何と言って良いのかわからない嬉しさと一緒に、心の奥底に押しこまれていた、想い出の宝箱のふたが開いて、懐かしい馬たちの名前が飛び出してくるのを感じました。
1980年代、ミスターシービー、シンボリルドルフが連続して3冠馬になった時代、その偉大な功績の陰で一生懸命走っていた馬たち。
いつも必死な面持ちで走っていたけな気な オカポート
最高負担重量 61・5キロを背負って重賞を勝ち、JRA優秀ダートホース賞を2年連続で取った‘ダートの鬼’と呼ばれた アンドレアモン。
重馬馬をスイスイと走り抜け、水かきがついてる馬と言われたチェスナットバレー。
そして、私の永遠の王子様トウカイテイオー誕生に一役かっていたセッテジュノー。
というのは、彼女が勝った1987年の‘新潟大賞典’、この時の2着馬はトウカイローマンなのです。
本来はここで引退し、シンボリルドルフのお嫁さんになるはずだったローマン、それが2着と云うちょっと微妙な着順。
1着なら花道を飾り引退、もっと下の着順だったら体力の限界という事で引退、だったはず。
悩んだ陣営が選択したのは現役続行。
後に‘京都大賞典’を勝ったわけですから、この時の判断は正しかったのでしょう。
そして、宙に浮いてしまったルドルフの種付け権利は妹のトウカイナチュラルへ。
でもって、誕生したのが“テイオー様”と云うことなのです。
あの日セッテが勝っていなかったらテイオー様はいなかった・・・・はず。
まだまだ飛び出してきた名前はありますが、長くなるのでパート2に載せようと思います(続くんかい!)
ちなみに、2代目ゲンキクン (1994年6月7日生れ、父カッティングブレード、母ハイセイニシキ・母父ハイセイコー)はどうやら現在、群馬県の乗馬クラブで頑張っているようです。
3代目ゲンキクン (2001年4月10日生れ、父デュラブ、母キタノフレンド・母父シーホーク)は残念なことに3戦目のレース中に故障発生し予後不良となっています。
突然飛び込んできた名前から一気に1980年代へとタイムトラベル、この旅はまだ続くので~す。
おくちなおし
今年スティングがお世話係をする2号君に妹が生れました。
タケノハーモニーとべィビーちゃん(パパの名前は聞き忘れましたぁ!後ほどでっす!)
to be continued