我が懐かしのマラソンランナー

2010-02-15 22:24:40 | 日記・エッセイ・コラム

ジュマ・イカンガー

 30キロ地点を過ぎた辺りから先頭集団に変化が起こる。ここからゴールまでが、マラソンレースのクライマックスとなる。ランナーたちにとっては正念場である。ふたつに割れた前の集団の中にまったく無表情の瀬古選手がいる。左右にぶれのない、上下動のない〈理想的〉と言われるそのフォームはなるほど、素人目にもスキがない。美しくはあるがその存在は不気味だ。あらゆるデータが打ち込まれた脳からの指令によって、両腕が振られ一歩一歩が寸秒の狂いもなく運ばれているかのようである。そんな先入観のせいだろうか、彼の走る姿を想像するとハイテクの都市空間が沿道のあちこちに出現する。そこでは声援は低く抑えられ、抑揚のないハードのグリーン・アイが冷たく点滅している。そして彼は先行するランナーの疲労を読み取ると、マークしてきた選手の位置を確認しながら静かにスパートする。アッと言う間にセイフティーリードを保ち、そのまま流れるようにゴールインする。

  しかし、いつのレースでもぼくの興味はタンザニアのイカンガー選手の方にあった。跳ねるようなあの野性的な走り方が動物的で美しかった。ぼくの中にある野性を刺激していたのかもしれない。両腕は巻き込むように振り、わずかな前傾姿勢、視線は水平に、はるか遠くの祖国に注がれているかのようである。彼がひた走る道には、小さな集落がポツンポツンと現れる。戦火で崩れ落ちた石の家が瓦礫の山となってむき出しになっている。駱駝色の広場では、女性たちが甕に水を汲んでいる。彼は古代の褐色の兵士である。その肉感と律動とが自然に彼を走らせている。

 だから、いつのレースでも先頭を切って走る。跳ねるが如く。一刻も早く祖国に辿り着かなければならないかのように。彼にとって、技や駆け引きは無用なのだ。ただひた走る。みずから楽しむかのように。やがて、魔の30キロを過ぎるとガクンとスピードが鈍る。苦痛に顔をゆがめ、全身で抗う。そして勝利は後続の選手に握られた。彼はただ、大切な人のもとへ辿り着ければよいのであった。ジュマ・イカンガーという若者はそんなことを感じさせてくれた。

 42.195キロに相応しいランナーであったと、そして月桂冠が最も似合う男であったと、今でも思っている。

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