昨日の夜中は猛烈な春一番が吹き荒れていました。ラジオと風の音を聞きながらいつ寝たのか分からないまま朝を迎えたようです。散策の道に咲いていた桜の蕾は大丈夫だろうか。ゆうあいステーションの庭園には紅梅白梅が咲いていた。春はもうそこまで来ている。僕の散策の楽しみの一つはセブンイレブン店内のカウンターに座って、真向の二上山を眺めながらコーヒーを飲む時間、夕暮れ時には缶酎ハイを飲みながら二上山を越えていく雲の形をゆっくり楽しむ。塩豆をつまみに。至福のひと時なのです。
ケルティック・ウーマンーO,America!~はるかな新天地ーより
O,America no weeping ああ アメリカよ泣かないで(泣かないで)
Let me heal your wounded heart: あなたの傷ついた心を癒やしましょう
I will keep you in my keeping 私の所で休んでください
Till there be...a new start あなたの出発の日が来るまで
CD「SONGS FROM THA HERAT」対訳メディア総合研究所より
2009年のアルバムで歌姫たちが奏でるメロディーは美しい。トランプ騒動とははるかに違う次元でアメリカを癒やし、讃える神の言葉を歌い上げている。
O,America no weeping ああ アメリカよ泣かないで(泣かないで)
Let me heal your wounded heart: あなたの傷ついた心を癒やしましょう
I will keep you in my keeping 私の所で休んでください
Till there be...a new start あなたの出発の日が来るまで
CD「SONGS FROM THA HERAT」対訳メディア総合研究所より
2009年のアルバムで歌姫たちが奏でるメロディーは美しい。トランプ騒動とははるかに違う次元でアメリカを癒やし、讃える神の言葉を歌い上げている。
負と正を行き来する者
「死と生を」と言い換えていいかもしれないが、詩人のために遠慮した。「死と生」とは詩作品においてはおよそ普遍的なテーマであるからだ。詩人は個々の方法でそのテーマを経験しようと試みるのであろう。或いは、「死と生」を同時に自己意識の中に埋め込まなければ済まないという状況に立ち合うことにもなる。
尾崎朋子氏の詩の行の進行は負から正への行き来を予感させている。短い誌だから全文を引用する。
消しゴム
年月の水の流れが
なつかしい言葉の家を押し流して
あなたは面影よりも軽く平たくなって
読み尽くされたあなたの
そのページは残っていない
今こそあなたの面影を
この鉛筆の先端にこそ見い出せる
あなたをとらえるため
ふたたびあなたの
言葉をとらえるのだ
そして次第にあなたは近づいて
もう消されようもなくなる
あなたのその一行が
この詩の第一連には負のイメージが塗られている。 第二連で正のイメージへの詩人の決意が感じられます。詩人は別の『家』という詩で「だれにも破壊されない/言葉の家」を想起しています。この詩では、押し流された「なつかしい言葉の家」が提起されています。
二つの詩における「言葉」と「家」とは存在の象徴として使われている。それは生者である自分自身を指しているであろうし、死者でもあろうし、失ったもののシンボルでもあろう。この詩で確かに形としてあるものは「鉛筆」と本文にはない「消しゴム」である。「家」も「言葉」も象徴である限り抽象的である。「読み尽くされたあなたの」ページも概念である。現実的な「鉛筆」と「消しゴム」が負と正の存在を明滅させながら、詩人を存在へのほのかな憧憬に導いているように感じられる。それは「消されようもなくなる」ものに対する詩人の秘めたる決意であるかもしれない。詩人はまた別の詩『箱』の最後に次の行を残す。
細長い箱はひつぎのようで
やがては
自分自身をその中に納めるために
そのために
あなたの道をたどることが
わたしの道をあるくことでもあったのだ
この美しいシミュレーション、ぼくはここでも、負と正を行き来する詩人の姿に魅了されることになる。
「死と生を」と言い換えていいかもしれないが、詩人のために遠慮した。「死と生」とは詩作品においてはおよそ普遍的なテーマであるからだ。詩人は個々の方法でそのテーマを経験しようと試みるのであろう。或いは、「死と生」を同時に自己意識の中に埋め込まなければ済まないという状況に立ち合うことにもなる。
尾崎朋子氏の詩の行の進行は負から正への行き来を予感させている。短い誌だから全文を引用する。
消しゴム
年月の水の流れが
なつかしい言葉の家を押し流して
あなたは面影よりも軽く平たくなって
読み尽くされたあなたの
そのページは残っていない
今こそあなたの面影を
この鉛筆の先端にこそ見い出せる
あなたをとらえるため
ふたたびあなたの
言葉をとらえるのだ
そして次第にあなたは近づいて
もう消されようもなくなる
あなたのその一行が
この詩の第一連には負のイメージが塗られている。 第二連で正のイメージへの詩人の決意が感じられます。詩人は別の『家』という詩で「だれにも破壊されない/言葉の家」を想起しています。この詩では、押し流された「なつかしい言葉の家」が提起されています。
二つの詩における「言葉」と「家」とは存在の象徴として使われている。それは生者である自分自身を指しているであろうし、死者でもあろうし、失ったもののシンボルでもあろう。この詩で確かに形としてあるものは「鉛筆」と本文にはない「消しゴム」である。「家」も「言葉」も象徴である限り抽象的である。「読み尽くされたあなたの」ページも概念である。現実的な「鉛筆」と「消しゴム」が負と正の存在を明滅させながら、詩人を存在へのほのかな憧憬に導いているように感じられる。それは「消されようもなくなる」ものに対する詩人の秘めたる決意であるかもしれない。詩人はまた別の詩『箱』の最後に次の行を残す。
細長い箱はひつぎのようで
やがては
自分自身をその中に納めるために
そのために
あなたの道をたどることが
わたしの道をあるくことでもあったのだ
この美しいシミュレーション、ぼくはここでも、負と正を行き来する詩人の姿に魅了されることになる。
朝晩の勤行で、地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈りしています。また被災されて苦しんでおられる人たちのご健康をお祈りしています。それしか出来ないのです。このような天災の度に思います。何が、誰が生と死を、運と不運との線引を、老若男女の区別なくするのかと。何が、誰が、この非情としかいえない選別を、抜き打ちみたいに降されるのか。今まで生きていることが当たり前の事のように思っていたが、その日その日或いは一瞬々々が奇跡なのであるかもしれない。生を信じるとは奇跡を信じることなのか。何をもって「一生」というのか分からなくなってくる。愛猫ルルを膝の上に乗せてお経本を読む。