「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「新選組の佐幕の大義」アマゾン・グーグル・楽天・電子電子書籍紹介。角川電子書籍・

2020-03-20 08:07:59 | 温故知新


「新選組の佐幕の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。角川電子書籍・
幕末・維新期に佐幕浪士隊。新選組とも書く、幕府は浪士取り締まりに武芸上達の者を取りたてて浪士組を編成し、文久3年(1863)2月、将軍徳川家茂の警護を名目として上洛させた。その際の指導者清河八郎(幕末末期の攘夷運動家。本名は斎藤元司。出羽国田川郡清川村の豪農の、名主斎藤治兵衛の長男。弘化4年(1847)江戸に出て古学の東条一堂に入門。嘉永4年(1851)北辰一刀流の千葉周作に入門し、神田美川町で文芸塾を開き、近藤らと出会い、新選組に合流することになるが、考えが違った)清河八郎は国事掛に出入りし攘夷実行すべきとめざし動き始めたため、同年3月に江戸に呼び戻された。この時、京都に残留した芹沢、近藤勇・土方歳三らは、京都守護職松平容保の支配下に属し、京都近郊の壬生村に屯所を置いて新選組と名乗った。将軍身辺の警固から京都治安維持にあたり、尊王攘夷派志士の弾圧に努め、壬生浪人として恐れられた。無謀は行いが多かった初代局長芹沢鴨を斬殺したのち、新選組の実権は局長近藤勇、副長土方歳三らが握った。元治元年(1864)6月、池田屋事件、7月の蛤門の変における活動を頂点とし、その後も尊王攘夷派浪士を取り締まりにあたる。慶応4年(1868)正月鳥羽伏見の戦いには幕府軍に加わって敗れ、江戸に帰る。同年3月改めて近藤勇は甲陽鎮撫隊を編成し、甲斐国勝沼まで出兵して官軍と抗戦するが敗退、ここで実質的解隊に追い込まれる。その後近藤は下総流山で捕らえられる。、江戸板橋で処刑され、土方は翌年に箱館五稜郭で戦死した。



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