何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

知性の声は小さい

2016-07-15 12:53:11 | ニュース
昨日7月14日は、パリ祭だった。

13日遅くに帰宅したため二ユースをよく知らないままだった私が翌日の新聞の一面で目にしたものは、「天皇陛下生前退位のご意向」の大文字だった。
<天皇陛下、生前退位の意向>  2016年07月14日 01時29分読売新聞より一部引用
天皇陛下が生前に天皇の地位を皇太子さまに譲る「退位」の意向を持たれていることが宮内庁関係者の話でわかった。

衝撃的な見出しの上にあるある日付を見て私の頭に浮かんだのは、このセンセーショナルな記事が掲載された日が、パリ祭の日だということだった。
それが、どのような心象に繋がっていくのかを書くのは難しいが、皇族の方々、皇族方と宮内庁、皇室(関係者)と政府、皇室と国民、この間合いを上手くはからねば大変なことになるという漠とした不安を感じたことは記しておかねばならないと思う。

「王妃 マリー・アントワネット」(遠藤周作)
7月14日に思い入れがあるためにパリ祭に関心をもっていた私が、その関連本として初めて読んだのは、「ベルサイユのばら」(池田理代子)だったと思う。
そもそもオスカルと云う人物からして存在しないので、「ベルばら」で繰り広げられた恋愛模様を期待して「王妃 マリー・アントワネット」を読めば肩透かしをくらうが本書だが、刻々と変わる「生前退位」のニュースとそれへのネット上のコメントを見ながら読み返していた。

皇室についての目を覆いたくなるような罵詈雑言が、ネット上では放置され続けている。
炎上といわれる状態すら、実はごく少数の人間が仕立てあげているケースが多いとは分かっていても、架空空間の節度の無い明け透けな物言いに実態社会の方が引きずられるという恐ろしい事態が起こっている。
群集心理が時に正常な判断力を奪ってしまうこと、狂暴化した群集心理の前にあっては知恵ある声や心ある眼差しは無力であることを、本書は書いているように思う。

「もうすぐで、お前の首はなくなるぞ」という言葉と唾を吐きかけられながら断頭台への道をゆくマリー・アントワネットを見つめる群衆を、ルイ・ダヴィッドという画家が観察している場面がある。(『 』「王妃 マリー・アントワネット」より引用)

『怯えたような顔がある。何かに耐えているような顔がある』 その表情から一目で元貴族だと分かる人々は、『彼女の最期の運命を彼らは耐えながら見るため』、王妃を待っている。

『可哀想に・・・・・』という顔もある。
『その素朴な顔はこれから起こる悲劇に深い同情を寄せた顔だ。しかし彼等にはそれを口にする勇気はない。もしそれを口にすれば彼等もまた捕えられ、足蹴にされ~引っ立てられるからだ』

そして、も一つ別の顔があった。
『残酷な大衆の表情だ。彼等は今、言いようのない快感を味わいながら死に曝された女を待っている。』 『不平等。不合理のすべての原因だった女。その女が今日この晴れあがった日に永遠に抹殺されるのだ。殺されて当然なこの女の死を、楽しみつつ見物するのが何故いけないのだろう』 と一人の女性の死を快感に酔いしれながら待ち望む大衆の顔。

そして、一人ぼっちのマリー・アントワネットの顔。
『眼をつむっているアントワネット。まるで彼女には群衆の声も聞こえぬようだ。死を前にして祈っているのかもしれぬ。あるいはこれらの大衆など信じていぬことをその表情で示そうとしているのかもしれぬ。だがいずれにしてもそこに描かれたマリー・アントワネットはまったく一人ぼっちである。一人ぼっちであることがそのスケッチから分かる』

彼女の最期を耐え忍びながら見守る穏健な人々の声も、可哀想にと同情する心優しい人々の声も、生き血に飢えた大衆の大声の前には無力だ。

しかし、断頭台が近づくにつれ、加害者であるマリー・アントワネットの気高さに対して、被害者であるはずの大衆の醜さと脆さが露呈してくる。

本書は、国民の困窮に目もくれず享楽的に贅沢三昧の毎日をおくるマリー・アントワネットの対極に、マルグリットという貧しい境遇に虐げられた女性を描いている。
断頭台にまさに首を差し出さんとしながらも瞑目したまま美しい姿勢を崩さないマリー・アントワネットの姿が、マルグリットには強情極まりないように思え、『あんたがいなかったら、わたしは自分の惨めさに気付かなかったかもしれない。でもあんたをあのストラスブールで見てから、私は自分の惨めさや、この世の不公平をたっぷり知ったわ』 と腹の中で毒づくのだが、すべてが終わり、死刑執行人が元仏蘭西王妃マリー・アントワネットの首をつかんで高々と持ち上げながら断頭台の周りを回り、歓声と拍手が広場をうずめたとき、マルグリットは故知らぬ涙を流す。

何故だか分からないけれど流れて仕方ない涙を、この後、多くの人々が少しずつ胸に溜め込んでいったような気がしてならない。

時は今、世界でも日本でも、憑かれたような熱情で一方向に傾れ込んだり、どこからか垂れ流される世論誘導にまんまと乗せられてしまう傾向がある。

リークなのかブラフなのか分からないが、世論を伺ったり世論を誘導したりと大衆心理を弄んでいるうちに、抜き差しならない事態になりかねない。
「うっかり、いたしましたのよ」と微笑みながら元仏蘭西王妃は天に召されたが、一時の熱情でうっかり失ってしまっては取り返しのつかない大切なものがある。

宮内庁幹部、政府高官が匿名で現れては二転三転する状態を見ていると、空恐ろしい気がしてならない、パリ祭の日であった。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 乙女は頂上(てっぺん)に立つ | トップ | 人生に生きる野球道を! »
最新の画像もっと見る

ニュース」カテゴリの最新記事