何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

大鰡

2017-06-26 19:32:33 | 
「最近読んだなかで一番の傑作」という言葉とともに勧められた本がある。
忙しさに紛れてなかなか読めないでいると、しつこく(もとい、再々)感想を求められ、困った本がある。
「半分ほど読んだ印象としては、ヘミングウェイ「老人と海」に似ている」と言っただけで、「そうだろう、そうだろう、ノーベル文学賞もんだろう」と言われたために、同じく’’男と釣り’’を題材とする話ならば「投網」(井上靖)の方が好きかも・・・という言葉を呑み込んでしまった本がある。

「大鮃」(藤原新也)
主人公・太古(31歳)はイギリス人の父と日本人の母をもつ男性で ネットを介した翻訳業で生計を立てているが、これまで一度も女性と深く付き合ったことがなくオンラインゲームに依存している。そんな自分に不安を覚えた太古が精神科を受診する場面から、この物語は始まる。
カウンセリングをした精神科医は、「リアルな父性を獲得する必要がある」として、太古に父の故郷であるオークニーを旅することを勧める。

精神科医は、太古の字が幼いのも、女性と深く関わることができないのも、ゲームに依存し実社会と接点を持つことを苦手とするのも、父性が欠如しているせいだと、言う。
太古の父は、太古が6歳のときに自殺しているだけでなく、それまで何度も自殺未遂をはかっていたので、太古には父の背中を見て学ぶ(的な)男のロールモデルがなかったのは確かだと思う。
だが、それに続けて この精神科医が語る「父性についての一般論」が、この領域の専門家に懐疑的な視線を向けている私の気に障り、読み進めるのに時間を要したのだ。

本書の精神科医が云うところの「父性の欠如一般論」を私なりに要約すると、こうだ。
人の心は揺れやすく折れやすく本来決して強いものではない。仮にその心を自我と呼ぶと、その揺れやすい自我を支える超自我というもう一つの自我がある。それは見守られているという感覚であり、信仰心のなかで神の存在を信じ心を安定させる神も超自我の一つであるが、それは本来父性から伝達されるものである。
その父親経由の超自我が獲得できていない男子が最近大変多い。それは、父親が男性性を失っているため父親として機能していないからだ。
かつて、第一次産業(漁業・農業・林業)という自己決定権を常に求められる日常が基本であった時代の日本には、強い父性があったが、産業構造の変化によって父性は喪失してしまった。
企業戦士などという勇ましい言葉はあるが、長年企業戦士として大企業で勤めあげリタイアした男性が描く絵は、中性化というよりも女性化してさえいる。
システムの中で自分の足で歩いてこなかった為に定年を迎え不安症に陥いる企業戦士が多くいるが、そんな彼らに流行っている塗り絵は、本来自分で物事を決めることができない子供がすることだ。
男性性とは、塗り絵のように予め与えられた世界の輪郭を色で埋めるという受け身なものではなく、本来そのものの輪郭をつくり出す能動性にあるものだ。
要するに、日本が男性性を失った理由は、自己決定を常に求められる第一次産業が基本であった時代から、システム(企業)に依存し過剰適応するだけで自ら考えないですむ産業が中心になったことにある。
・・・・・と本書の精神科医は規定する。

おそらく、本書の精神科医が云う「父性についての一般論」は正しいのだと思う。
たまに読むその手の本にも、そう書いてはある。
だが、一般論としては正しいと分かっていても、それをマスターキーにして個々の心が十把一絡げに語られるのを見ると、不信しか覚えないのだ。
患者は一人ひとり、異なる背景を持っている。
勿論 社会や時代が人に与える大きさを考えれば、社会や時代の一般的傾向を病の原因や治療に用いる必要はあると思うが、患者一人一人を診る能力の低さを糊塗するために、個々のケースを一般論に引きずり込むという事をしてはいまいか。
それでは本末転倒ではないか。

このように精神医療の専門家に厳しい意見を持つのは、診たわけでもない有名人についてアレコレ訳知り顔でマスコミにしゃべる精神科医に辟易としているからかもしれない。
それでも、特定の有名人を事例にあげ社会に警鐘を促すことで心を病む人が減少しているならば、このような反発も覚えないかもしれないが、精神科医が語れば語るほど、心を病む人が増えていっているような印象を受けるのは、間違っているだろうか?
日頃から、そのような反発を覚えている精神科医が、のっけから一般論を繰り広げる本書ゆえに、なかなか読むスピードがあがらなかったが、矢の催促で感想を求められることに根負けし、週末腰をすえて読んでみた。
中盤以降については又つづく
  
週末、残りのジャガイモと、今年はじめてのピーマンと茄子を収穫した。

第一次産業の真似事をして思うのは、農業において人が決定権を持ちうることは限られているということだ。
お天道様のご機嫌を絶えず伺い、お天道様に謙虚に従ってこその実りと収穫ではないだろうか。
猫の額ほどの庭の野菜作りでも、播種・手入れ・収穫するタイミングに、人の自己決定権が及ぶところは少ないと思い知らされる。その決定権は、野菜(植物)自身とお天道様がほぼ全て握っている。
だが、見えない聞こえない自然の摂理にじっと目と耳を傾ける注意深さと、それに従う従順さを日本人が持っていため、忍耐強さにかけて素晴らしい国民性となったのではないだろうか。しかし、その裏返しとして、圧倒的に強い存在に対して平伏するしかないという国民性をも有してしまったのではないだろうか。
産業構造の変化が父性を失わせた、システムに安穏と浸る企業戦士の弱さが父性を失わせたという説に、改めて違和感を覚えさせた庭いじりであった。

参照、「庭いじりの愉しみ~あいこまち」

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