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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

助け主聖霊 第24回

2016年09月25日 | 日記

3.キリストの再臨の信仰を所有する

 キリストが天の父のもとに帰られるときになると、イエス様は弟子たちをベタニヤに導かれました。オリーブ山の上で、イエス様は弟子たちを祝福しながら徐々に天に昇られました。「祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕」(ルカ24:51)。弟子たちが、天に戻られるイエス様を見ていようと天を見上げていると、二人の天使が現れ、次のような約束の言葉を伝えました。「白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』」(使徒行伝1:10、11)。

 キリスト再臨の約束は、弟子たちの心の中に常に生き、燃えている必要がありました。戻ってきて、あなたがたを私のところに迎えるとのキリストの約束は、艱難と試練を控えた弟子たちにとって最大の希望でした。弟子たちは聖霊を受ける前に、キリストの再臨の信仰を堅く持つ必要がありました。彼らは再臨を待ち望みながら、福音事業を促進する必要がありました。まず彼ら自身が、キリストの再臨を信じて理解しなければなりませんでした。そうでなければ、これから出会う貧困と試練の中にある魂に、どうやって慰めを与えることがでるでしょうか!

 最後の時代に住んでいるクリスチャンにとって、再臨についての真理は非常に重要な真理となります。なぜなら、再臨が近づけば近づくほど、サタンは再臨の真理を歪曲させることで人々を欺くためです。「『どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか』」。そこでイエスは答えて言われた、『人に惑わされないように気をつけなさい』」(マタイ24:3、4)。キリストの再臨を熱望することなく、再臨の真理を信じないか誤解している人たちに、どうして最後の艱難の時代を乗り越えて行くための、驚くべき聖霊の力と賜物が与えられるでしょうか。


助け主聖霊 第23回

2016年09月24日 | 日記

2.真理に一致する経験を所有する

 キリストは昇天される前に、ご自分の弟子たちに全世界の人々の魂をゆだねられました。彼らは、キリストがこの世に託された、永遠の命に至らせる真理の伝達者となる必要がありました。彼らは、イエス・キリストの生涯を通して、真理を分け与える人が受けるべき試練と犠牲を理解しました。キリストを殺そうと飛びかかった人々に示された彼の同情と愛を見ました。また、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。と言われたキリストのみ言葉を常に覚えておく必要がありました。あらゆる困難の中で、忍耐しながらも挫折されなかったキリストの姿を忘れてはなりませんでした。

 弟子たちは、キリストのみ名によって働きを進めなければなりませんでした。そこで、彼らのすべての言葉と行動は、罪人を救う生命力を持っている必要がありました。彼らの信仰と生活は、能力の源であられるキリストに集中する必要がありました。キリストのみ名は、彼らの肩書であり、彼らを聖別し、彼らの計画と行動の方向を決定する権威でなければなりませんでした。彼らはすべての魂を、キリストの教会へ呼び戻さなければなりませんでした。

 福音事業は、犠牲と愛によって前進しなければなりませんが、そこには単純な信仰が伴う必要がありました。虚飾と誇りがなければないほど、人々に及ぼす感化は大きくなるという事実を学ぶ必要がありました。彼らは、キリストを伝える前に、キリストが与えて下さる救いに関する真理を学ぶ必要があり、キリストの思いと心を所有しなければなりませんでした。彼らは他の人に従順を教える前に、まず自身が従うことを学ぶ必要がありました。キリストはこのように変えられた弟子たちに、聖霊の偉大な力と賜物を安心して委託することがお出来になりました。

 キリストは弟子たちに、ご自分の働きが容易だと言われませんでした。彼らは真理に対抗するために立ち上がる巨大な悪の勢力に直面し、それを打ち負かさなければなりませんでした。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊」(エペソ6:12)と戦わなければなりませんでした。しかし、彼らは一人で戦うために捨て置かれたのではありません。キリストの力が彼らの盾となり、彼らはまさに信仰によって進まなければならないということを学びました。キリストが語られた真理に従い、キリストの霊と共に働くなら失敗の余地がないという事実を悟りました。今、キリストが教えて下さった真理は、もはや理論ではなく、彼らに生命と信仰のすべてをもたらしました。ついに、彼らは真理と一致する人生を生きる者とされました。


助け主聖霊 第22回

2016年09月22日 | 日記

第2部:十字架から五旬節まで

 1.最も重要な最初の段階、真理に対する正しい理解

 

この記事は、偉大な聖霊の力と賜物を渇望するクリスチャンたちのために書いています。聖霊を受けることを希望するクリスチャンたちは、弟子たちが十字架以降ペンテコステの日までの50日間に体験した経験を理解しなければなりません。なぜなら、その50日の期間は、弟子たちが聖霊を受けるために、自分自身を整えていた期間だったからです。あなたは聖霊の降り注ぎを受けたいでしょうか?聖霊を受けようと祈る前に、弟子たちが聖霊を受けるために準備した経験を研究して下さい!

 キリストが十字架に架かられて亡くなられた後、弟子たちは完全な失望落胆に陥っていました。弟子たちの希望の太陽は消え、深い闇が彼らの心を支配していました。彼らはただ「わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました」。という言葉を繰り返すだけでした(ルカ24:21)。イエス様は生前何度も弟子たちに、将来に何が起こるのかを教えておられましたが、弟子たちはイエス様が語られた言葉について、自分たちの希望がくじかれるので心に留めていませんでした。

 キリストが十字架に架かられたとき、弟子たちはキリストが復活なさることを信じていませんでした。キリストご自身が三日目に甦ることを明らかに言われましたが、弟子たちにとって、その言葉はあまりにも受け入れがたいものに聞こえました。彼らにとってイエス様の言葉は、神秘的であいまいなものにしか聞こえませんでした。そして、彼らの信仰は、サタンが彼らの前に振りまいておいた霧の向こうを見通すことは出来ませんでした。

イエス様は「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」。「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。」と言われ、聖霊が彼らに臨むこと、その働きと目的について説明されていました。(ヨハネ16:13、8)。

しかし、失望と悲しみと落胆に陥った弟子たちは、キリストのすべての説明と約束を忘れてしまったままで、屋根裏部屋に一緒に集まってドアを固く閉じていました。彼らが愛していた主の死が、自分たちの運命となりはしないかという恐れに震えていたのです。まさにそのような状態にあったときに、復活されたキリストは、弟子たちの前に現れて下さいました。


助け主聖霊 第21回

2016年09月21日 | 日記

聖書は、愛と真理を一緒に持っている人に聖霊が与えられると説明しています。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主(聖霊)を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ14:15-17)。使徒ヨハネはここで、神様を愛する人は、神様の戒めに従うと言い、神様はまさにそのような人に聖霊を与えて下さると言っているのです。

 従って、真理に従うことこそ、自分の経験をテストする最終的な判断基準であり、同時に聖霊を受けることが出来る最も確実な方法だと言えるでしょう。自分の経験や感情、そして既存の知識がどうであれ、神様のみ言葉が要求することを、単純な信仰で受け入れ従順の生涯を生きているかどうかが、その人を支配する霊を見分ける最高の基準です。

 奇跡と賜物は、神様がクリスチャンに与えられるものですが、悪魔も、それに非常によく似た物を提供することによって、忠実なクリスチャンを惑わすことが出来ることに注意する必要があります。イエス・キリストが、この質問に対して与えられた非常に明白な教訓の言葉に注意を払いましょう。「このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイ7:20-23)。

 いくら主を愛していると言っても、どんなに主の名前で預言者の役割を行ったり、主の名によって悪霊を追い出したとしても、どんなに主の名で奇跡を行ったとしても、そのことが私たちがキリストの霊を所有しており、救われたという決定的な証拠にはならないのです。彼らは主の名で多くの奇跡と賜物のように思えることを行いましたが、最終的に「不法を働く者」と呼ばれ、滅びの宣言を受けました。なぜでしょうか?この聖句の冒頭に、彼らが救われない理由が述べられています。「良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」(マタイ7:19,20)。

 彼らの品性と生涯に美しい聖なる実がなかったことが、彼らが火の中に投げ込まれる決定的な原因となりました。彼らは汚れた心と不義の生活の中で、聖霊の賜物を求めていました。そのため悪魔は彼らに近づいて、自分の持っている力と能力を与えることで、彼らを非常に深い欺瞞の中に陥れていったのです。

 

 


助け主聖霊 第20回

2016年09月20日 | 日記

7.現在、聖霊の賜物と奇跡を体験している人が最も留意すべきことは何ですか?

 最も重要なことは、神様のみ言葉を深く研究することです。なぜなら真理自体は永遠不変ですが、真理を理解する私たちの知識と経験は、間違うことがあるからです。通常の場合、人々は自分の誤った知識と経験をもとに、真理を検証しようとしています。しかし、私たちは真理を基準にして、私たちが持っている知識と経験を判断する必要があります。つまり、私たちの知識と経験で真理を判断するのではなく、真理をもって私たちの知識と経験をテストする必要があるのです。

 しかし、サタンは経験を真理の上に置こうとします。私たちの経験は、それが正しい真理の枠組みの中あるときのみ価値があります。2人の人が同じものを観察しても異なる経験を話すように、真理は同じでも、受け止め方は人それぞれです。ですから、真理ついての私たちの知識と経験も、私たちがどのような教団に所属しているかとか、誰から聖書を学んだかによって大きく異なる可能性があります。しかし、真理は時と空間を超越して、常に不変です。

 聖霊の賜物を体験しているという人々の中で多くの人が次のように自分の経験を説明します。

 

A 私はある驚くべき奇跡を経験しました。

B ところで、私は私の経験と非常に似た経験を聖書に発見しました。

C したがって、私の経験は真実です。

 

このような3段論法によって、彼らは自分たちの経験を聖霊の賜物とみなしています。このような論理の展開は非常に説得力がありますが、自分の経験が初代教会の経験と似ているからと言って、それが真実であると言うことは出来ません。なぜなら、サタンも奇跡を起こすことが出来、聖霊の働きを偽造することが出来、人の感情を高揚させることが出来るからです。

 経験が最高の証拠と信じている人にとって、神様の真理は何の影響力も発揮出来なくなります。それらの人々は、自分が経験した「霊」によって真理を推し量ろうとします。パウロは、このようなクリスチャンに、次のように警告しています。「また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り」(Ⅱテサロニケ2:10,11)。神様の真理である聖書のみ言葉を深く研究して下さい。それだけが、終わりの時代に広がるサタンの最後の策略から逃れることができる唯一の道です。

 いくらキリストを信じ、愛していると公言したとしても、真理のみ言葉から逸れていたり、そのみ言葉に従わない場合、その人の霊的な立場は、非常に危険であると言わなければなりません。愛と真理は分離することが出来ません。愛だけを強調して真理を無視する人は、感情的な信仰を持つようになり、真理を主張しても愛をおろそかにする人は、律法主義者になりがちです。キリストを愛する人は、真理に最後まで従うべきであり、真理を持っていると主張する人は、その心の中に愛を持っている必要があります。