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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

神様に知られる人  第2回

2016年09月29日 | 日記

どうしてこのようなことになったのでしょうか。実は私の義父が使っていた聖書のこの箇所の欄外には、『品性がキリストに似ていない』と書き込みがしてありました。この人たちは、イエス様を知っていると口では言っていても、本質的にイエス様と同じ品性ではなかったということなのでしょう。自分では一生懸命イエス様のためにと思ってやっていたけれども、心の隠された動機においては、自分のためにやっていた人なのかもしれません。時々、私たちの間でも、相手のためにと思ってやったことが、実は相手にとっては迷惑だったとか、相手が全然望んでいないことをやっていたということがあります。気持ちが通じていない、心が一致していないから、相手が喜ぶことではなく、ただ自分の気持ちを押し付けているだけということがあります。これでは「あなたを知らない」と拒否されても仕方がないかもしれません。

聖書で、「知る」というのは、アダムがエバを「知った」(創世記4:1)という時のように、体験的に知っていることです。知識として知っていることや、表面的に知っているということではなく、深く交わり、お互いによく理解しあっている関係のことですから、そのような交わりがなかったのでしょう。マタイ25章の『賢いおとめと愚かなおとめ』のたとえ話でも、おろかな乙女は、「あなたを知らない」と追い払われてしまいます。彼女たちも、花婿を待つクリスチャンでしたが、聖霊によって変えられた品性を身につけていなかったために、「知らない」と拒否されてしまいます。


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