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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

助け主聖霊 第8回

2016年09月07日 | 日記

残念ですが、神様が良心を通して語られるとき、私たちは、それが神様の声であることをほとんど意識せず、何のために語りかけておられるか気がつきません。ダビデ王の物語から私たちはよい教訓を学ぶことが出来ます。ダビデはウリヤを戦争に送って殺し、彼の妻を奪いました。この罪はダビデの良心を鈍くしました。時が来て神様は預言者ナタンをダビデに遣わし、一匹の小さな羊のたとえを通して、ダビデの良心を突き刺されました(サムエル下12:1-13参照)。ダビデはその話に出てくる貪欲な金持ちの話を聞いて、自分自身がどのような人間であるかを、突然気付きました。そして、自分の罪を深く悟ったダビデは、自分の罪を悔いながら悔い改めの詩、詩篇51編を書きました。

 神様が私たちに語られる言葉が受け入れられた場合、私たちの良心は目覚め、私たちがその間犯してきた具体的な罪に対して、深い自覚が起こるようになります。それらの罪は私たちを簡単に倒して、力をなくさせてきた肉の欲であったかもしれません。または、人々の間で起こる不正直な取引や、または直されていない悪い性格であるかもしれません。また良心は、私たちが楽しんでいたテレビ番組や、無駄な時間を過ごすようにさせた本、または音楽を指摘することもあるでしょう。

 イエス様はニコデモにも、同じ思想について言及されました。イエス様は、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない」。(ヨハネ3:6、7)と言われました。言いかえれば、私たちは超自然的なある力によって、完全に他の人として再び生まれ変わらなければならないということです。すなわち、別人に変化する必要があるということです。

 6.私は勝利するであろう

 良心の叫びに耳を傾けて聞くことと、神様に属するものでありたいという望みを通して、私たちは罪深い習慣を捨てたいという、次のような決心をすることが出来ます。「私はこの罪を必ず克服すべきだ」。「私は好きなこういうテレビ番組を二度と見ない」。「私は絶対にもう悪い習慣に引っ張られない」。

 ところで、多くの真面目な人々が、あれこれ悪い罪の習慣を修正しようとして、よいクリスチャンになろうと試みますが、ほとんどが失敗してしまいます。そうやって始めることは最初から間違った道を行くことになります。なぜなら、罪の改革は、習慣の改革よりもまず心の改革が起きなければならないからです。心が改革されていない状態で、習慣を改革しようとしても、その改革は、長続きせず、挫折してしまいます。

 穴が空いているところに詰め込もうとするような宗教には、何の価値もありません。神様は私たちの心全てを作り変えたいと望んでおられるのです。私たちの心のどのような小さな部分であっても、悪の性質が開発されるように放っておいたり、または反逆や不満、批判の精神が少しでも芽生えるのを許さないで下さい。多くの人がこのような中途半端なやり方で、毎日の信仰生活を送っているために、神様の品性を正しく表すことが出来ずにいるのです。