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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

助け主聖霊 第25回

2016年09月26日 | 日記

4.五旬節直前の経験

 弟子たちはキリストのご命令に従って、エルサレムで天父のお約束の聖霊の降下を待ちました。彼らは「絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」のです(ルカ 24:53)。彼らはまた、イエス様のみ名によって、み父に願いを申し出ようと集まっていました。天には彼らの代表者であられるお方、神様のみ座でとりなしをされるお方がおられるのだということを知っていました。彼らは厳粛な畏敬の念に打たれ「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」 という確証をくり返しながら、こうべをたれて祈りました(ヨハネ 16:23、24)。「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座 し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」という、ゆるぎない論証をもち、彼らは信仰の手をますます高く差しのべたのです(ロー マ 8:34)。

弟子たちは、約束が成就されるのを待っていたあいだ、謙遜な心で本当に悔い改め、また自分たちの不信心を告白しました。彼らは、キリストがなくなられる前にお語りになった言葉を思い出しながら、それらの意味を一層深く理解しました。すでに記憶から消えてしまっていた真理が再び心によみがえってきて、彼らはこれを互いにくり返し合いました。そして、 救い主について誤解していたことを思い、自責の念にかられたのです。主のすばらしいご生涯の場面が行列のように一つひとつ彼らの前を通り過ぎました。

 主の純粋で清らかなご生涯を瞑想しながら、もし、キリストの美しいご品性をあかしする生活をすることができさえすれば、どんな仕事でも難しすぎることはなく、どんな犠牲でも大きすぎることはないと思いました。もし、過去の3年間をもう1度やり直すことが出来るとすれば、 弟子たちはどんなにか違った行動をとることだろうと考えました。

 もし、主に再び会うことが出来さえすれば、どんなにか熱心に、自分たちが主を深く愛していたかを示そうと懸命に努めることでしょう。また、不信の言葉や行動で主を嘆かせたことに、どんなにか真心からのおわびを申し上げるかわかりません。しかし、彼らは、自分たちは赦されていると考えた時に慰められました。そして、主に対する信仰を出来る限り勇敢に世の人々の前で告白し、自分たちの不信心の償いをしようと決心しました。

 弟子たちは人々と接するのにふさわしくなるように、また、日常の交わりの中で罪人をキリストに導くような言葉を語るのにふさわしくなるように、とりわけ熱心に祈りました。意見の不一致や優位を望む心をすべて捨て、クリスチャンの交わりの中で互いに親密になりました。