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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

助け主聖霊 第17回

2016年09月17日 | 日記

4. 奇跡を行う経験をしましたが、それは私が救われた証拠でしょうか?

 ある奇跡や賜物も、クリスチャンの信仰と救いを決定する絶対的な証拠や基準として用いてはいけません。奇跡を行なう経験していた人々の中でも、最終的には、神様への不従順と反抗的な人生を生きた結果により滅んだ例を聖書からいくらでも見つけることができます。しかし、あまりにも多くの場合、私たちはある賜物があるかどうかで、お互いの霊的な状態を判断する誤りを犯しています。

 一つ奇妙なことは、ある教会では異言を語る人々であふれ、別のある教会では、いやしの賜物を受けたと主張する人が多くいるということです。同じ聖霊の賜物が、まるで流行現象のように教会やグループの中に存在するため、異言を語らない人や、病気を治せない人は、霊的な劣等感さえ感じるようになるのが、今日の教会の状態ではないでしょうか?使徒時代のコリント教会にもこのような問題がありました。そのため使徒パウロは次のような言葉で、コリント教会の信徒たちを戒めました。「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、…次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた」(Ⅰコリント12:27-30)。すべての人が同じ賜物を持つことはできないというのが、パウロの説明です。私たちには、それぞれ肢体があってお互いに協力しながら体を維持しているように、クリスチャンも異なる賜物と才能をもって、キリストの体である教会のために奉仕します。

 また、使徒パウロは、特に「異言は・・・未信者のためのしるし」(Ⅰコリント14:22)と言いました。使徒たちの時代に福音は、教育をきちんと受けられなかった弟子たちによって、他の民族に伝える必要がありました。それで、言語の壁により宣教が難しくなると、神様が摂理のうちに、福音の迅速な宣教のために異言の賜物を弟子たちに与え、福音は、すべての民族と国の人々に伝えることが出来るように導かれました。

 また、聖霊の賜物を目撃する未信者の人々に、キリスト教信仰の確信を植え付ける役割を果たしました。しかし、今日では、多くのクリスチャンにとって、異言が信じていない人々の伝道のためでなく、すでに信仰を受け入れた人々の間で、自分や周囲の人の確信のために用いられていて、その用途が変更されてしまいました。

 それでは、私たちの信仰を判断することができる基準は何でしょうか?イエス・キリストが定められた試験基準を見てみましょう。イエスは、「その実によって彼らを見わけるのである」と言われました(マタイ7:20)。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)であると聖書は記しています。み霊の実は、憎しみではなく愛であり、不満と失望ではなく喜びであり、分裂と心配と自ら作り出した不和ではなく、平和であることに注意してください。聖霊の実を豊かに結んだ人たちに、天は神様の意志と摂理によって、聖霊の賜物を豊かに授けられるということが、聖書が述べている真理です。


助け主聖霊 第16回

2016年09月17日 | 日記

3.異言の賜物やいやしの賜物を受けるには、どうすべきでしょうか?

 このような質問は、その質問自体に問題があるということを、まず理解する必要があります。ですから、この質問に対する答えを見つける前に、私たちは「すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられる」という重要な原則を忘れてはいけません(Ⅰコリント12:11)。私たちが希望する聖霊の賜物を自分で選ぶのではなく、聖霊が福音宣教のためにご自身の意志と摂理に応じて、一人ひとりを器として用いられるのです。聖霊の賜物は、私たち自身の必要に応じて選択するものではなく、聖霊がご自分の必要性と目的に応じて、受ける準備が整えられた人に与えられる賜物であるということが、聖書が述べている真理です。私たちが聖霊を用いるのではなく、聖霊が私たちを用いて下さるという事実に注意する必要があります。

 神様は聖徒たちを通して奇跡を行なわれます。私たちは聖霊の奇跡と賜物を求め、祈りを捧げることが出来ます。しかし、奇跡や賜物の必要性と、それが行われる場所と時間と環境は、完全に神様の意志と計画にかかっています。私たち人間は、神様の奇跡が現されるべき最適の時と場所と環境を知ることが出来ません。いつ、どのような環境で、天の父の奇跡が行われるのかを正確に知ることが出来ません。私たちには天が与えて下さる能力を、時にかなって用いることの出来る霊的な知恵が不足しています。また、聖霊の賜物と奇跡を求めている私たちの祈りが、利己的なものになっていることがあるのです。

 ですから私たちは、神様の奇跡と聖霊の賜物を求める際に、イエス様がされた祈りの精神を持たなければなりません。「主よ、あなたの栄光のために、聖霊の賜物を求めている私の願いを聞いてお与え下さい。しかし、私の意のままにではなく、父のみ心のままに行って下さい。み心が天で行われるように地でも行われるようにさせて下さい。アーメン。」