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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

助け主聖霊 第12回

2016年09月11日 | 日記

聖霊をどう理解するかという問題は、キリスト教会史において、常に議論と意見の相違の課題となってきました。人々は、ほとんどの場合において、聖霊の働きを、まるで、能力を与え奇跡を起こして、歓喜の経験をもたらす媒介であるかのように理解しようとしてきました。しかし、イエス様はむしろ、聖霊を、クリスチャンを真理に導き、神様のみ言葉とその意味を悟らせるお方として説明されました。ヨハネの福音書7章37〜39節には、次のように述べられています。「祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである」。

ここで、イエス様がまだ栄光を受けておられなかったという意味は、まだ十字架上で亡くなっておられなかったことを表します。イエス様は私たちのために犠牲となられる、ご自分の痛みを伴う死をむしろ光栄だと思っておられたので、そのように表現されたのです。

 

イエス様が復活されてから天に戻られるまで、ご自分の弟子たちと一緒に過ごされた40日間は、黄金のような時間でした。その間イエス様は彼らに、聖書が記録している主ご自身のこと、すなわちメシヤについて預言し、説明している聖書の言葉を示し、説明することにほとんどの時間を過ごされました。ルカ24章25-27節のみ言葉は、私たちにその事実を間接的に示唆しています。「そこでイエスが言われた、『ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか』。 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。

 

弟子たちはまだメシヤの使命と働きについて、聖書に記録された真理の言葉を正しく理解していなかったため、イエス様が体験されたようには聖霊を理解することも、受ける準備もしていませんでした。ですからヨハネ7章39節には、「御霊がまだ下っていなかった」と記録したのです。

もちろん、聖霊は常にこの世に存在しておられました。十字架以前にも、聖霊はおられました。創世記1章2節に、「神の霊が水のおもてをおおっていた」と聖書は記録しています。

 

しかし、人間が神様の真理の言葉を理解し、正しく受け入れるまでは、このお方を通して力が表されることは出来ないのです。イエス様は聖霊について、「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネ16:8)と言われました。この聖句にあるように、聖霊は、人々の心に、過去に犯した罪に目を開かせ、現在どのように義なる生活を送るか、そして将来受ける神様の審判について、良心に自覚を与えて下さいます。つまり聖霊がなさることは、クリスチャンが罪を離れ、義にかなった生き方をするように促すことです。人が十字架の前で罪を悔い改め、神様の真理によって改変され、新しい人生を生きるように導き、感化して下さるお方は、神様の霊、すなわち、聖霊なのです。