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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

人はなぜ苦しむのか 第15回

2014年09月16日 | 日記

    

 人はなぜ苦しむのか 第15回

パウロは神様から直接多くの導きを与えられた使徒でした。そのために彼が高慢になったり、人々も彼を神様の特別な恩寵を授けられた特別な人として扱う危険性がありました。そのような危険を防止するために、神様は彼に肉体のとげをお許しになりました。悲しいことは、高く評価されている人こそ高慢に陥りやすいことです。しかし神様はそのような場合にどのようにすればよいかご存知です。

新約聖書の中で最も多くの記事を書き、弟子の中で最もたくさんの伝道旅行をした、偉大な使徒パウロの祈りさえ答えられないことがありました。ところが、今日の多くの人々は、祈りが答えられないのは信仰が欠けているためであると考えがちです。病気をいやして下さるように祈りを捧げても、いやしを受けられないのは信仰が欠けていたり、悔い改めていないためであると決めつけるのは、とても非聖書的なことです。なぜなら、誰もその病人に対して神様がどのような計画をお持ちであるか、知ることができないからです。皆様が心から神様を信じていて、また、神様の愛を心から信頼しているのであれば、起きてきた状況を、神様の摂理とご計画として、あるがまま受け入れる態度が必要なのです。

パウロが、自分自身の肉体の中に刺さっているとげについて聖書に記録した理由は、神様がなぜ私たちに苦痛をお許しになるのかということについて、理由を説明するためでした。神様は私たちを謙遜に低くするためにどのような経験が必要であり、そのような経験がいつ必要とされるかすべてご存じです。ですから、肉体的、精神的な苦しみが襲って来た時、私たちはパウロの言葉を思い出して「パウロのような人にさえ、高慢にならないために肉体にとげが必要とされたのなら、私のように軟弱ですぐ高慢になりやすい者には、肉体のとげがなおさら必要ではないか!」と言えるようにしましょう。

  絶望から希望へ 第17回

罪人の自覚

私たちは、身なりはとても紳士であり、淑女であっても、自分が餓死状態に陥るなら、人を殴り、盗み、殺すのです。それが私たちの本当の姿なのです。もしこの世に、警察もいない、法もなかったら、みんな泥棒になり殺人者になりますよ。法がなくなり罰する人がいなくなれば、全部罪びとの世の中になります。やくざも強盗も関係ありません。自分自身がそうなり、力の強いものが正義になります。

皆さん、今は人の目があるから、特に日本の方々は人目をとても気にしますね。人から辱めを受けるくらいなら、腹を切ってでもと、そこまで考えるでしょう。恥を受けたくない、だから悪いことをしない、それは、人の目があるから、自分を制して、自分の本性を隠しているだけです。私たちはみんな罪人そのままなのです。私たちがまだ切羽つまった環境に置かれていないから、自分がどれほど罪人であるか、その姿を見ていないだけです。

私たちがどれほど邪悪な者であるか、どうしたらそれに気づくようになるでしょうか。イエス・キリストの生涯を見て、教えを聞いて、聖なる神様のご品性を知る時、「ああ、私はこれほど罪深い者なんだ」ということに気がつかされます。

愛する日本の聖徒の皆さん、何よりも私たちはイエス様のみ前で、自分がどんな者であるか知る者にならなければいけません。そして、主の救いがなければ、私たちは到底生きることの出来ない者であることを、まず認める者でなければなりません。それを告白するべきです。そこに、まことの望みがあるのです。


 人はなぜ苦しむのか 第14回

2014年09月15日 | 日記

 

  人はなぜ苦しむのか 第14回

4、あなたを益するために来る苦難

使徒パウロの場合を考えてみると、彼が肉体に持っていた何らかの障害、苦痛は、彼自身の益のために許されていたことが分かります。パウロは忠実な神の僕でした。神様のみ事業の進展のために、立派に用いられた人でした。しかし同時に弱さを持った人間でもありました。神様は、パウロが成し遂げた驚くべき功績や自己犠牲によって、高慢になる危険性を知っておられました。神様はパウロが、自分で自分を高めるだけでなく、他人によって高められる危険があることも知っておられました。それゆえパウロが、「肉体に一つのとげ」を持つことをお許しになりました(2コリント12:7)。私たちはその「とげ」が何であったか具体的に知ることはできませんが、その「とげ」がパウロを非常に苦しめていたことを知ることができます。

とげが刺さったまま過ごした経験がありますか。小さなとげでも違和感があり不便さを感じます。パウロに与えられた肉体のとげは大きなもので、パウロは三度もその肉体のとげを離れ去らせてくださるように祈りました。しかし神様は、そのとげをパウロの肉体にそのまま残しておくことが、最善であると思われたのです。神様はただ、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われました。それゆえそのとげは、パウロの肉体に一生涯の間そのまま残って、彼に苦痛を与えました。パウロが「サタンの使」と呼んでいたその肉体のとげは、真実な神様の僕の救いのために必要なものとして残されました。「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」(Ⅱコリント12:7~9)。

    絶望から希望へ 第16回

「主よ、わたしを生かしてください。この場で私を何とか救ってください」。皆さん覚えておられますか。神殿の中で祈っていた二人を・・・(ルカ18:9~14)。一人は取税人でした。もう一人はパリサイ人でした。パリサイ人は大声で、「おお主よ、感謝します。私はこれもやってあれもやりました」。しかし、取税人は隅のほうで、誰かに聞かれはしないかと小さな声で、「わが主よ、私は罪人です。私は罪人です。この罪人をどうか哀れんでください」と祈りました。その時イエス様は、この取税人の祈りを聞いて下さいました。「あの罪人は私に受け入れられた」と。

このローマ7章の人も、自分のどうにもできない悪の姿を知っていています。しかし今のクリスチャンたちは、自分がどれほど邪悪なものであるかに気づいていません。特に日本の方々は、あまりにもさっぱりしてきれい過ぎて、いつも人を配慮して、人に奉仕しながら、90度に身をかがめ挨拶をして、「ありがとうございます。すみません、すみません、ありがとうございます」といつも口に出して、家庭はうまくやっているし、親には孝行を尽くしているし、職場では誠実だし・・・、日本人は立派過ぎて、足りないところがありません。これ程やっているのに、これ以上どうやったらいいのでしょうか。

ですから皆さんの祈りは力を発揮することができないんです。徹底的な切なる心がないのです。なぜ罪に勝利する経験を持てないのでしょうか。勝利する力であるイエス様のみ名を叫ばない人が多いですね。なぜでしょうか。それは自分がどれほど邪悪な者で、どれほど醜い姿であるか知らない、気づかないからですね。「どうか救ってください」という切なる願いの祈りがないのです。皆さんに姦淫を犯す環境がないからです。ミス日本が来て皆さんを誘惑するならば、韓国からヨン様が来て皆さんを誘惑するならば、これはいけないけれどもと言いながら、ちょっとだけと言いながら誘惑にね、一回はしょうがないかなという心が生じませんか?皆さんが実際にそのようなことを行わないとしても、そういった思いを持ったこと、それが罪なのです。皆さんは、実際には姦淫を犯したことがないかもしれませんが、心の中では、皆さんは姦淫を犯した者ではありませんか?

 

皆さん、もし職を失って家族が飢えて何も食べていない状態にあったとします。その時、道を通ると銀行が開いたままで警備員もいなくて、カウンターの上にはお金が置いてある、そうすると、中に行って盗って来るのではありませんか?銀行強盗まではしなくても、マーケットに人がいなかったら、食べ物を持って来ませんか?「今、家では子供たちが飢えているので、これは家族を養っていくためには仕方がないことだ」、そのように自分を欺くのではないでしょうか。


 人はなぜ苦しむのか 第13回

2014年09月14日 | 日記

   

  人はなぜ苦しむのか  第13回

神様は、ご自分の御子であるイエス様が地上での働きを始められた時、その盲人が信仰を持ってイエス様のところにやって来るのを待っておられました。やがてその盲人は、信仰を持ってイエス様の前に進み出て、ついに癒されました。神様の栄光を表す目的のために、目が見えなくなったり、歩けなくなったりした人は、イエス様と出会う時、ただちに癒しを受けることになります。

そうかといって、すべての盲人や足の悪い人が、真実なクリスチャンになれば、癒されるようになるわけではありません。それらの人々に対して、「あなたが癒されていないのは信仰が足りないからです」と言うことは出来ません。ある人が障害をもったまま人生を送り亡くなったからといって、「彼は信仰のない者」と言ってはなりません。なぜなら、私たちは彼らがなぜ障害を持つようになったのか、真の理由が分からないからです。なぜ、神様が彼らの祈りに答えられなかったのか、その意味を知ることは出来ません。従って、神様が全ての秘密を明らかにされる歴史の審判の時が来るまでは、誰も結論を出すことは出来ません。誤った願望を抱いていると、失望に終わることになるかも知れません。どのような状況にあっても、静かに、そして信頼の心を持って神様の導きにゆだねる心こそ、神様に対する最も強力な信仰の証となるのです。

   絶望から希望へ 第15回

ただつの望み

中世時代、ローマカトリック教会がプロテスタントの人々を捕らえて死刑にしていました。その時、彼らを尋問して火あぶりにする時、彼らは賛美しながら殺していたんです。どのような賛美歌だかわかりますか。「艱難と迫害の中で」という賛美です。そのような歌詞は、本来なら迫害される人が歌うべきなのに、カトリック教会側は欺瞞に陥っていて、悪の本質に任せて、悪の性質に支配されていたために、このような賛美歌を口にしながら、神様の聖徒たちを殺してしまったのです。

皆さん、私たちのあるがままの性質に身を任せると、このようなことになってしまうのです。だからこそ私たちは、み霊が私たちを創り変えてくださるこの体験を持たない限り、望みがありません。「主よ、私は罪人です。私を助けてください」。私たちは涙ながらにそのようにお祈りしなければなりません。

しかしこのローマ7章のこの人の姿には、一つの望みがあります。どんな望みでしょうか。「なんというみじめな人間なのだろうか。だれが、この死の体から、わたしを救ってくれるだろうか」と叫んでいることです。自分が願っているけれどもできない。自分は自分の中にある悪を分かります。罪を悟っています。しかし行えなくて本当にもどかしい。この苦しみから、どのようにすれば逃れられるのか。本当に嘆いています。

皆さん、この人の姿に同情出来ませんか。かわいそうな人だと思います。どのように私たちは彼を助けてあげることができるでしょうか。皆さん、この状態の方おられませんか。どのようにしたらこの状態を逃れることができるのでしょうか。しかし実は、私たちが正しい目で自分自身を見つめ、私たちの力では何一つできないことを悟る時、その時こそ私たちにまことの望みがあります。

 


 人はなぜ苦しむのか 第12回

2014年09月11日 | 日記

  

  人はなぜ苦しむのか 第12回

3、神の栄光を表すために来る苦難 

聖書の中に出てくる、生まれつき盲人であった人の話は、苦しみの意味について、別の面があることを私たちに教えてくれます(ヨハネ9:1~34)。この出来事が与える教訓は、罪の問題や悔い改めの問題ではありませんでした。ここでは、神様の摂理やご計画に基づいて苦しみが来る場合があり、苦しみにあっている本人は、信仰を通してその苦痛から解放されるという、驚くべき出来事が語られています。

弟子たちは、彼が盲人になった理由を罪の問題と結びつけました。「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか?本人ですか?それともその両親ですか?」。その質問に対して、「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』」(ヨハネ9:3)。その人は、病気で苦しむ者に対して、神様がどんな癒しの奇跡を与えられるのかを見せるために、盲人になることを許されていた人でした。そうして他の人々が、神様の驚くべきみ業を見て、神様の素晴らしさをほめたたえるようになるのでした。

   絶望から希望へ 第14回

流れる水に自分の体をゆだねて流されていくように罪を犯す、そういう姿ですね。7章24節。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」。心は願いますが、この肉の体は罪に負けて、自分を苦しめて生きているという意味です。多くの牧師たちが、また神学者たちが、このローマ7章の経験以上になれずに、これが正常なクリスチャンの姿だよ、と慰めあっています。「人は新しく生まれても罪を犯さずには生きてはいけない、犯しながら生きるしかないと・・・」。「違います皆さん!」。

私たちは聖書が何を語っているか、体験的に知っていかなければなりません。福音の本当の力とは何であるかを、私たちは経験していかなければいけません。そしてこの力が何であるかを人々に教えていかなければなりません。この福音の力とは何の力でしょうか?出来ないことを出来るようにする、創造の力です。私たちはみんな悪の性質を持っていると言いましたね。しかし私たちには良心というものがあるので、悪の性質から逃れようと何とか頑張ってはいますが、この悪の性質に完全に捕らえられてしまう人がいます。その人はどんな状態になってしまいますか。盗んで、詐欺を行い、人を殺して、また姦淫を犯す。そういうことを全部やってしまうのではありませんか。それが私たちの内にある罪の性質ですね。

悪の性質は私たちの血の中に、細胞の中に、私たちの遺伝子のDNAの中にもあります。


火とはなぜ苦しむのか第11回

2014年09月10日 | 日記

   

人はなぜ苦しむのか 第11回

彼らがどのような罪によって刑罰を受けたのか、私たちには分かりません。この話が私たちに与える教訓は、神様の言葉を聞いて悔い改めない者は、誰でも彼らのように最終的には滅ぼされることを、警告することでした。彼らは私たちよりもっとひどい罪人ではなかったのです。しかし彼らは刑罰を受けました。もし私たちも悔い改めなければ、同じようなことが私たちにも臨むのです。目に見える刑罰が私たちの生涯に臨んでいないからといって、私たちが彼らより善人だと錯覚してはなりません。最後の審判の日には必ず、悔い改めていない罪人に対して報復が臨むことになります。なぜなら、聖書は「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)と言っているからです。

シロアムの塔に押し殺された人々も、神殿で宗教的な行為を行っていた人も、同じような刑罰が臨みました。宗教を持っていてもいなくても、悔い改めない者はみな、このように滅びてしまうというのが聖書の教えです。

皆さんに今、試練や苦痛がありますか?もしかして悔い改めていない罪がないかどうか、注意深く心を探ってみて下さい。神様の憐みの期間が終わって、突如として皆さんの上に、神様の裁きが臨むかもしれないのです。聖書は、クリスチャンであってもなくても、悔い改めない罪人に対して、いずれはその報酬である死と刑罰が臨むことを警告しています。

    絶望から希望へ 第13回

新しく生まれた人でもそうでない人でも、悪は誰にでも存在するのです。これは生まれつきの罪の性質を言っているのですね。幼い子を教育せずにほったらかすとどのようになりますか。自分で考えて善に従って歩むよりは、自分勝手に我がままになりますね。善というのは、教えて見せてあげなければ分からないのです。悪はどうしてあんなに、教えなくても全部受け入れて行うのでしょうか。なぜでしょうか。それは私たちの性質が罪あるものだからですね。私たちが聖霊に従って生きなければ、私たちの内にある悪が私たちを支配してしまいます。いくら心には望みがあっても、実行できないと告白する使徒パウロと同じ告白が私たちにもあります。

かつてパウロは熱心なパリサイ人の一人でした。彼は誰よりも主の戒めに従って生きたいと願った者でした。永遠の命を得ようと願い求めていた者でした。主を喜ばせたいという心を持っていました。主のおきてを徹底的に行いたいと願った者でした。しかし、どうしてもできなかったと、ローマ7章に書いています。知識的にはどのように生きるべきか、わかっています。しかし出来ません。それは、人々が御霊に従ってみ言葉に服従しないためですね。私のうちにある悪の性質に、簡単に「どうぞ」と任せてしまうからからです。