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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

人はなぜ苦しむのか 第20回

2014年09月21日 | 日記

   

   人はなぜ苦しむのか 第20回

24節でパウロは「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」と、語りました。パウロのこの証しに注目しましょう。パウロは他者のために苦しみを受けていると語り、さらにキリストのからだである教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、彼のからだによって補っていると言いました。彼のこのような発言は、「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」(ピリピ3:10、11)という言葉とつながっています。パウロは「苦難にあずかることとその死のさまとひとしく」なることを熱望しました。実は、これこそがイエス様を信じる私たちの生涯における、最高の目標であり、愛の姿なのです。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)

パウロは、他人のために苦しみを受けて死ぬという、そのような自分の犠牲や功績が、自分自身の救いを達成することになると信じていた人ではありません。彼は自分の愛する救い主が与えてくださった真理として、苦痛を受けることを喜び、「キリストの苦しみ」にあずかることがいかに天において祝福されたものであるかを味わい知っていたのでした。パウロは、キリストのように自分も代理的な苦難と死の道を歩むことによって、キリストの心にあった喜びを体験していきました。

   絶望から希望へ 第22回

  間違った学びの結果

皆さんは聖霊に従って、聖霊の導きに従って生きているでしょうか。聖霊に従わない人、聖霊に導かれない人、肉の心にあまりにもあふれている者には、救いはありません。聖霊が臨むという意味は何でしょうか。聖霊が臨むということは、異言で語るということでしょうか。病気の人を全部癒すことでしょうか。皆さん、申し訳ないことですが、現在キリスト教会の中で起きている奇跡や異言などは、サタンの働きによるものが多いのです。皆さんは何よりも見分ける霊を持って下さい。それが、み言葉とはっきりとつながっているかを分別して下さい。聖霊様は静かに臨まれます。特に、聖霊よって歩む者は聖霊の実を結びます。それこそが聖霊の働きです。病の者を癒しながら姦淫している牧師がいます。それが聖霊の働きでしょうか。異言はたくさん語るけれども、いつも夫婦喧嘩ばかりしている人がいます。これが聖霊の働きでしょうか。それはみんなサタンに捕らわれていることです。

 


人はなぜ苦しむのか 第19回

2014年09月20日 | 日記

  

  人はなぜ苦しむのか 第19回

イエス様の苦痛は代理的な苦痛でした。その苦痛は、自分の利益のためではなく、ましてや罪の結果によるものでもなく、全面的に他のためのものでした。イエス様が十字架の肉体的、精神的な苦痛に耐え、あらゆる侮辱や非難を受けられたことも、全て私たちの幸福と救いのためでした。イエス様の全生涯が、他を祝福し天国へ導くためのものだったのです。そしてクリスチャンとは、まさにそのようなお方の足跡につき従う者たちです。

それでは私たちは、どのようにして他人の益のための苦しみにあずかるのでしょうか?他人のために苦しむということなど可能なことでしょうか。パウロは福音を説明しながら、まさしくこの点を強調しました。

「ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。 その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである」(コロサイ1:23~29)。

    絶望から希望へ 第21回

このことは重要なことですので、ぜひ理解していただきたいと思います。「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、命と平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである」(ローマ8:4~10)。

これこそが新しく生まれた姿です。先ほどのローマ7章では、まだ肉にあるものの姿でしたね。ここを見ると、肉は何だといっていますか。肉は死だと言っていますね。イエス様は「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」(ヨハネ3:5)と言われました。皆さん、このように、単純な言葉を見てください。この経験を持つことが、新しく生まれることなのです。

8章11節「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」。この言葉はどういう意味でしょうか。墓場で眠っておられたエス様を復活させた聖霊の力が、死の力を破った聖霊の力が、肉に負けて死ななければならないこの私を、新たな者として、復活させて下さるという約束です。罪と死の法則から、私たちを解放して下さるという意味です。

 


人はなぜ苦しむのか 第18回

2014年09月19日 | 日記

 

 人はなぜ苦しむのか 第18回

5、より良い奉仕をもたらす苦難

苦しいことやつらいことを避けたいと願う人間性にとって、異常に聞こえるかも知れませんが、他の人々のために皆さんが苦痛や病を持つようになることがあります。それは苦痛の中でも、最も神聖な価値のある苦痛です。私たちはそのような苦痛を“代理苦痛 (Vicarious Suffering)”と名付けています。

使徒パウロはあらゆる面において、イエス様の足跡に従う僕でした。彼は弟子たちの中で、誰よりも多くの苦難と苦痛を味わい、そのことによって苦しみによってしか得られない価値と教訓を数多く見い出した人でした。

他の使徒たちは、悩みと苦痛に対して、「忍耐心を持ちなさい」《「忍耐力を十分に働かせるがよい」(ヤコブ1:4)》と勧告していますが、パウロはさらに進んで、苦しみを味合いなさいと言われました。「望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」(ローマ12:12)。「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」(コロサイ1:24)。

このような言葉を見る時、パウロは、イエス様と非常に類以した経験を持っていることが分かります。イエス様は言われました。「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである」(マタイ5:11)。また、「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」(イザヤ53:4)と言われています。

  絶望から希望へ 第20回

  罪に勝利されたキリスト

ローマ8章3節を見ると、「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を」とあります。これは何のことでしょうか。これは、私たちの堕落した性質、習慣的に私たちが積み上げてきた私たちの精神、これを持って、なんとか勝利して主のみ心に従ってやり遂げようとしたけれども出来なかったといいうことです。しかし、その次に何と言っていますか。「神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである」。この言葉は何でしょうか。イエス様がこの世に来られた時、私たちのような堕落した肉体、皆さんの聖書にも「罪ある肉」と書いてありますか?日本語でもそうなっていますか?「罪ある肉」、これは何でしょうか。私たちのような体と言うことですね。子供が生まれた時、その体がその肉です。堕落したこの本質、それをイエス様はこの世にこられた時、そのまま持ってこられました。私たちと同じ立場で生きられました。しかしイエス様は、罪の肉に従われなかったのです。

イエス様は誘惑を受けられたでしょうか。試みにあわれたでしょうか。イエス様は私たちと同じ「罪の肉の様」で来られましたから、それらをすべて受けられました。しかしイエス様は罪の誘惑が来た時、それを罪と知ってその罪に従われなかったのです。誘惑を拒否されました。皆さん、イエス様は堕落した罪の性質を持っていながら、罪に勝利されました。

サタンはイエス様に罪を犯させようと、激しく試みました。荒野の試みだけではありません。幼い時から十字架の上で亡くなるまで、サタンはイエス様に何とか罪を犯させて彼を罪に定めようとしたのです。しかしイエス様は、罪を拒否し、罪を寄せ付けられませんでした。そのようにしてイエス様は、私たちも同じように罪に勝利できる道を備えて、私たちに提供して下さったのですね。


人ななぜ苦しむのか 第17回

2014年09月18日 | 日記

 

   人はなぜ苦しむのか 第17回

クリスチャンは試みにあった時、その理由を探リ調べてみなければなりません。ところが、何年も過ぎているのに試練に対する満足できる答えが見いだせない場合もあります。そのような時にも、私たちは神様に対する信頼心を見失わないようにしましょう。パウロは彼が生きている間に、肉体のとげが除去されない理由を知ることが出来ましたが、私たちは、イエス様が再臨されるその日まで、私たちが直面している苦痛の理由を、知ることが出来ない場合もあります。ある人は、再臨の日まで、お祈りを通して、自分たちの苦痛や悲しみをすべて理解し、同情して下さるイエス様の慰めを受けることにより耐えなければなりません。イエス様は私たちと同じ肉体をお取りになって、この地上で過ごされる間、私たちと同じような試練や苦痛を経験し、神様だけが与えて下さる慰めと励ましを受けられたので、私たちの祈りに答え、私たちにも同じ慰めと励ましをお与えになることが出来るのです。人として様々な苦難と試みにあわれた方こそ、試みの中にいる者に、真実の慰めと希望を語ることがお出来になります。

皆さんは今まさに、苦痛のトンネルの中を通っておられるかもしれません。それは皆さんをもっと謙遜で柔和なキリスト者として創り変えるために、苦難という訓練学校に入学されたことなのかものかもしれません。もう一度心を低くして、なぜそのような苦痛が取り除かれないのか祈ってみてください。

やがて必ず、このように言う日がやって来ることでしょう。

「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります。・・・苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(詩篇119:67、71)。

   絶望から希望へ 第19回

皆さん、イエス様が十字架につけられて死なれたことによって、私たちが救われるための道は完全に備えられました。しかしそれだけでは、まだみんなが救われたのではありません。イエス様が十字架で示して下さった愛の力によって、私たちは聖書の教えることに従って生きる力が得られるのです。そのように生きる時、私たちは、ローマ8章2節の言葉を体験することが出来ます。「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」。これこそが、新しく生まれた経験です。罪から開放されたことですね。罪というのは死の法則です。聖霊、み霊は命の法則です。み霊の力を受けて生きる時、私たちはこの罪を犯し続ける生活から、私たちの心を苦しめる罪から、落胆させる罪の法則から逃れて、これ以上その法則にとらわれて生きなくてよいのです。なぜでしょうか。なぜなら、み霊が私たちを罪の法則から解放して下さったからです。

口先だけ「私は罪から解放された。ハレルヤ!」と叫ぶのではなく、実際的に罪と死の法則から解放され、罪に勝利して生きるようになることです。誰がそのようにしてくれるのでしょうか。聖霊様です。私たちではありません。私たちがみ言葉に従って生きようとする時、聖霊様がそれを行わせて下さるのです。


 人はなぜ苦しむのか 第16回

2014年09月17日 | 日記

 

  人はなぜ苦しむのか 第16回

それゆえ苦痛は、私たちに益を与えるためにやって来るものと言えます。高慢は私たちの魂に深い傷をもたらします。多くの場合において、高慢を治療するために神様が用いられる方法は、私たちの肉体にとげをお許しになることです。もちろんそうは言っても、肉体にとげが与えられることは、人にとって有益になることもあれば、そうでない場合もあります。ある人は、そのような経験を通して本当に謙遜な人格を築きますが、ある人は、肉体のとげをお許しになった神様のみ心を受け入れないまま、不平不満の歳月を送ってしまうこともあります。益となるかどうかは、その人の選択にかかっています。しかし、結果がどうであれ、神様は、私たちにとげをお許しになることによって、私たちが天のみ国に入るために必要な、最高のことをして下さったのです。

 絶望から希望へ  第18回

ローマ8章1節。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」。日本語の聖書では、この後の『彼らは肉によらず、み霊によって歩むからである』(欽定訳)という言葉が抜けています。ここで、「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない」と言われていますが、なぜ罪に定められないのでしょうか。その理由は肉に従って生きるのではなく、み霊に従って生きるからだと言っているのですね。これこそが救いの経験そのものです。

私たちの救いとは、イエス様が十字架の上で死んで下さったことによって全部終わったのではなく、その血潮が私の中に適応されて初めて、そのことが成し遂げられるのです。その適応はどのようにしてなされるのでしょうか。それはただ信じればいいというようなものではありません。私たちが、生まれつきの肉の性質に従って生きるのではなく、私のあるがままの感情や衝動に支配されるのではなく、み霊に従って、つまり聖書のみ言葉に従っている時こそ、私たちは罪から救われたということが出来るのです。