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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

  人はなぜ苦しむのか 第165回

2014年09月06日 | 日記

 

 人はなぜ苦しむのか 第165回

サタンはヨブに拷問の苦しみを加え始めました。「サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました」(ヨブ2:7)。その時「ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」。そのようなヨブの姿を見ていた妻は、彼に言いました。「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ2:8、9)。友人たちもヨブを尋ねて来て、絶望的な言葉ばかり残して立ち去りました。「考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で断ち滅ぼされた者があるか。わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている」(ヨブ4:7、8)。ヨブの友人たちが発する嘲弄やあざ笑いは、ヨブを耐え難い苦しみの中へ追い込みました。

しかしそれでもヨブの高潔な品性は揺らぎませんでした。彼は妻に次のような言葉で反論しました。「しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」(ヨブ2:10)。ヨブの口から出たこの一言によって、サタンは完全に敗北しました。このような理由に基づいて、サタンはこれ以上ヨブ記に登場しなくなります。神様に対して罪を犯すよりかえって死ぬことを選んだヨブに、サタンは打ち勝つことができませんでした。「見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう」。「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」(ヨブ13:15;19:25)。

     絶望から希望へ 第9回

 み言葉通りに生きよう

皆さん、人が聖書を読む時、そこにあるがままの真理を受け入れるなら、「ああ、このように聖書に書いてあるから、私はこのように生きるべきだ」と思い、その言葉に従えるように聖霊を求めて祈り、生きるようになるのではありませんか?そうしないで、「私にはこれは出来そうにないから、そこまで至らないから、自分のレベルに合うように聖書を合わせていこう、そして人にもそのように教えていこう」と思っているのではありませんか?私たちは長年このようにしてきたために、聖書の単純でまっさらな教えを失ってしまったのです。ですから、み言葉通りに生きる人が珍しくなってしまいました。

何が問題なのでしょうか。皆さんはどうでしょうか。皆さんは今どこに留まっているでしょうか。私たちはなぜ罪の足かせを打ち壊さずに、いつもその中に留まっているのでしょうか。その理由は間違った教えのためです。間違って学んできたためです。人は自分の経験以上のことを悟るのは難しいですね。現代の教会では、多くの人が、罪に対する勝利ということについて、一回も耳にしたことがありません。いつも「主よ、主よ」と口にしながら、心が変えられることも、行動が変えられることもなく、あるがままでいいのだと思っている現状のように思えます。「出来ない、不可能だ」という中に完全に留まっているのです。

「ああ、これでいいんだろうか」。良心に咎めを感じる時もあるけれども、しかし、ほとんどの人がそういう姿で生きているから、「クリスチャンとはこういうものだ」と思っている人が大勢います。今日の教会は、まるで盲人が盲人を手引きしている(マタイ15:14)、そういった時代ですね。まことの福音というのはそういうものではありません。まことの自由を与える福音です。まことの幸せを与える福音です。内面の深いところから、賛美と感謝があふれ出す福音、罪の奴隷となっていつまでも罪に引きずられない、そのような福音なのです。

皆さんはそのような信仰を夢見ていませんか。罪の奴隷となって、いつまでも罪に引きずられていかなくてよい福音です。罪を犯しては、「主よ、主よ、お赦し下さい」と言い、そうして起き上がってはまた罪を犯す。「主よ、赦して下さい」。本当にこの言葉は飽き飽きではありませんか。そこから逃れたいと思いませんか。私をこの罪から救い出す福音。私たちはこの福音を経験するべきではありませんか。