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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

人はなぜ苦しむのか 第19回

2014年09月20日 | 日記

  

  人はなぜ苦しむのか 第19回

イエス様の苦痛は代理的な苦痛でした。その苦痛は、自分の利益のためではなく、ましてや罪の結果によるものでもなく、全面的に他のためのものでした。イエス様が十字架の肉体的、精神的な苦痛に耐え、あらゆる侮辱や非難を受けられたことも、全て私たちの幸福と救いのためでした。イエス様の全生涯が、他を祝福し天国へ導くためのものだったのです。そしてクリスチャンとは、まさにそのようなお方の足跡につき従う者たちです。

それでは私たちは、どのようにして他人の益のための苦しみにあずかるのでしょうか?他人のために苦しむということなど可能なことでしょうか。パウロは福音を説明しながら、まさしくこの点を強調しました。

「ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。 その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである」(コロサイ1:23~29)。

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このことは重要なことですので、ぜひ理解していただきたいと思います。「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、命と平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである」(ローマ8:4~10)。

これこそが新しく生まれた姿です。先ほどのローマ7章では、まだ肉にあるものの姿でしたね。ここを見ると、肉は何だといっていますか。肉は死だと言っていますね。イエス様は「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」(ヨハネ3:5)と言われました。皆さん、このように、単純な言葉を見てください。この経験を持つことが、新しく生まれることなのです。

8章11節「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう」。この言葉はどういう意味でしょうか。墓場で眠っておられたエス様を復活させた聖霊の力が、死の力を破った聖霊の力が、肉に負けて死ななければならないこの私を、新たな者として、復活させて下さるという約束です。罪と死の法則から、私たちを解放して下さるという意味です。