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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

火とはなぜ苦しむのか第11回

2014年09月10日 | 日記

   

人はなぜ苦しむのか 第11回

彼らがどのような罪によって刑罰を受けたのか、私たちには分かりません。この話が私たちに与える教訓は、神様の言葉を聞いて悔い改めない者は、誰でも彼らのように最終的には滅ぼされることを、警告することでした。彼らは私たちよりもっとひどい罪人ではなかったのです。しかし彼らは刑罰を受けました。もし私たちも悔い改めなければ、同じようなことが私たちにも臨むのです。目に見える刑罰が私たちの生涯に臨んでいないからといって、私たちが彼らより善人だと錯覚してはなりません。最後の審判の日には必ず、悔い改めていない罪人に対して報復が臨むことになります。なぜなら、聖書は「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)と言っているからです。

シロアムの塔に押し殺された人々も、神殿で宗教的な行為を行っていた人も、同じような刑罰が臨みました。宗教を持っていてもいなくても、悔い改めない者はみな、このように滅びてしまうというのが聖書の教えです。

皆さんに今、試練や苦痛がありますか?もしかして悔い改めていない罪がないかどうか、注意深く心を探ってみて下さい。神様の憐みの期間が終わって、突如として皆さんの上に、神様の裁きが臨むかもしれないのです。聖書は、クリスチャンであってもなくても、悔い改めない罪人に対して、いずれはその報酬である死と刑罰が臨むことを警告しています。

    絶望から希望へ 第13回

新しく生まれた人でもそうでない人でも、悪は誰にでも存在するのです。これは生まれつきの罪の性質を言っているのですね。幼い子を教育せずにほったらかすとどのようになりますか。自分で考えて善に従って歩むよりは、自分勝手に我がままになりますね。善というのは、教えて見せてあげなければ分からないのです。悪はどうしてあんなに、教えなくても全部受け入れて行うのでしょうか。なぜでしょうか。それは私たちの性質が罪あるものだからですね。私たちが聖霊に従って生きなければ、私たちの内にある悪が私たちを支配してしまいます。いくら心には望みがあっても、実行できないと告白する使徒パウロと同じ告白が私たちにもあります。

かつてパウロは熱心なパリサイ人の一人でした。彼は誰よりも主の戒めに従って生きたいと願った者でした。永遠の命を得ようと願い求めていた者でした。主を喜ばせたいという心を持っていました。主のおきてを徹底的に行いたいと願った者でした。しかし、どうしてもできなかったと、ローマ7章に書いています。知識的にはどのように生きるべきか、わかっています。しかし出来ません。それは、人々が御霊に従ってみ言葉に服従しないためですね。私のうちにある悪の性質に、簡単に「どうぞ」と任せてしまうからからです。