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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

人はなぜ苦しむのか 第10回

2014年09月09日 | 日記

  

  人はなぜ苦しむのか 第10回

2、悔い改めを与えるために臨む苦難

人生の苦痛が、悔い改めなかったために、神様の裁きの結果としていろいろな形で臨むことがあります。イエス様が、ピラトによって殺されたガリラヤ人たちのことについて語られたことを思い起こしてみてください。「ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた」(ルカ13:1)。歴史家ヨセフスの記録によると、その当時、ピラトが数多くの人々を神殿で殺した事実を確認することができます。それらの人々は神様に儀式を捧げる途中神殿で殺されたのです。そのために当時の人々は、このようなことが起きたのは、間違いなく彼らが他の人々よりもっと罪深い人間であったからだと思っていました。 

その時、イエス様は言われました。「そこでイエスは答えて言われた、『それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう』」(ルカ13:2、3)。続くイエス様の言葉に耳を傾けて下さい。「また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」(ルカ13:4、5)。ガリラヤ人が神殿で殺されたのも、シロアムの塔が倒れて押し殺された人々も、罪を悔い改めていなかったために刑罰を受けて死んだというのが、イエス・キリストの説明でした。

  絶望から希望へ 第12回

    救いはどこに

愛する皆さん、この人がここで叫んでいる絶叫は、皆さんの叫びではありませんか?この『ローマ人への手紙』7章は皆さんの心の叫びではありませんか。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、全なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ7:18~20)。

常に私たちは倒れてしまいます。常に私たちは罪の奴隷下に置かれてしまいます。やりたいと思わないのにいつの間にかやってしまっている。そのような人は結局、このように思ってしまいます。「私は主のみ心に従って生きたいと願うが、それができない。だけどこれはもうどうしようもない。私は罪を持って生まれてきた者だから・・・」。このように嘆いてあきらめている姿です。そしてローマ7章21節に「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則があるのを見る」とあります。皆さんの心の中には、悪が共にありますか。ありますね。私にもあるでしょうか、ないでしょうか。私はないように見えますか。あります。


人はなぜ苦しむのか 第10回

2014年09月09日 | 日記

  

  人はなぜ苦しむのか 第10回

2、悔い改めを与えるために臨む苦難

人生の苦痛が、悔い改めなかったために、神様の裁きの結果としていろいろな形で臨むことがあります。イエス様が、ピラトによって殺されたガリラヤ人たちのことについて語られたことを思い起こしてみてください。「ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた」(ルカ13:1)。歴史家ヨセフスの記録によると、その当時、ピラトが数多くの人々を神殿で殺した事実を確認することができます。それらの人々は神様に儀式を捧げる途中神殿で殺されたのです。そのために当時の人々は、このようなことが起きたのは、間違いなく彼らが他の人々よりもっと罪深い人間であったからだと思っていました。 

その時、イエス様は言われました。「そこでイエスは答えて言われた、『それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう』」(ルカ13:2、3)。続くイエス様の言葉に耳を傾けて下さい。「また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」(ルカ13:4、5)。ガリラヤ人が神殿で殺されたのも、シロアムの塔が倒れて押し殺された人々も、罪を悔い改めていなかったために刑罰を受けて死んだというのが、イエス・キリストの説明でした。

  絶望から希望へ 第12回

    救いはどこに

愛する皆さん、この人がここで叫んでいる絶叫は、皆さんの叫びではありませんか?この『ローマ人への手紙』7章は皆さんの心の叫びではありませんか。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、全なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ7:18~20)。

常に私たちは倒れてしまいます。常に私たちは罪の奴隷下に置かれてしまいます。やりたいと思わないのにいつの間にかやってしまっている。そのような人は結局、このように思ってしまいます。「私は主のみ心に従って生きたいと願うが、それができない。だけどこれはもうどうしようもない。私は罪を持って生まれてきた者だから・・・」。このように嘆いてあきらめている姿です。そしてローマ7章21節に「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪が入り込んでいるという法則があるのを見る」とあります。皆さんの心の中には、悪が共にありますか。ありますね。私にもあるでしょうか、ないでしょうか。私はないように見えますか。あります。


人はなぜ苦しむのか 第9回

2014年09月08日 | 日記

  

 人はなぜ苦しむのか 第9回

苦難の中におられる兄弟姉妹の皆さん、ヨブの模範に従って下さい。ヨブは、自分の何かの罪が原因でこれらの悩みが降りかかっているのではないかということを深く思いました。しかし、自分自身が当面している災難の理由と原因を理解することはできませんでした。皆さんの苦難の原因が、皆さん自身の罪や欠点によるものではないか、深く探ってみて下さい。そしてもし、何かの特別な理由もなく苦痛や災難が降りかかっているとするならば、皆さんもヨブのように、「彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう」(ヨブ13:15)と告白することによって、皆さんを試みて、神様に対する疑いや不満を起こさせようとしているサタンの挑戦を退けてください。

   絶望から希望へ 第11回

彼らは福音を知っているのでしょうか。もちろん分かっています。戒めを知っていますか。もちろん知っています。戒めに従わなければいけないことを知っていますか。はい、知っています。彼らは主の御旨に従って生きなければいけないことを分かっています。ではその可能性はありますか?それが出来ないこと、これが問題なのです。その人の姿が『ローマ人への手紙』7章の姿です。戒めに従うことを願うけれども実行できないので、そこに留まっている人の姿です。

ではここに、イエス様と出会いたいと思わない人いますか?イエス様が再び来られる時、その栄光のみ姿に出会いたくないと思う人はいますか?天のみ国に行きたくないという人いますか。神様の戒めをすべて守り、やがて来られる主から「忠誠を尽くした者よ、よくやった」、というみ声を聞きたくない人いますか。

しかし私たちの大きな問題は、しようとしてもできないことなのです。善を願っているのに悪を行っています。上手にしようと一生懸命努力していても、それがうまくいきません。心を尽くして努力していながら、肉が弱いから出来ないとあきらめています。心は戒めに従っていきたいと、その願いを持って毎日、毎回、力を絞りますが、毎日倒れて、毎回失敗が重なります。


  人はなぜ苦しむのか 第8回

2014年09月07日 | 日記

 

 人はなぜ苦しむのか 第8回

ヨブは、天でサタンが神様に挑戦していた事実を全く知りませんでした。彼は、自分が試練と悩みに対してどのような態度を取るかということで、神様が勝利されるか、サタンが勝つのかという、宇宙の秩序をかけた戦いが行われていることなどいっさい知りませんでした。また、天で行われた神様とサタンとの争いを知った御使いたちが、ヨブの一つひとつの言動を見つめていたことも知りませんでした。彼が知っていたことといえば、訳もわからず次々と災難が自分に降りかかってきたという事実だけでした。

しかし彼は、自分の良心に照らして、最善を尽くした信仰の態度を示しました。彼自身に起きたことは、全く理解できないことばかりでしたが、彼は、自分が知る限りの真理の光に従って、それでもなお神様の愛を疑わず、神様を信頼して歩み、最終的に神様ご自身から、ヨブの正しさが証明されたのです。「あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかった」(ヨブ42:8)

   絶望から希望へ 第10回

  従えない人間

『ローマ人への手紙』7章を見ますと、この人は「罪の下に売られ」(7:14)ていると言っています。この人は新しく生まれた人ですか。そうではない人ですか?新しく生まれていない人です。今日の多くの人は、この姿は、新しく生まれたけれども罪に対して勝利できず、罪を犯し続けながら生きるしかない人だと思っているのですね。なぜでしょうか。そのように教えられているために、次の『ローマ人への手紙』8章が語っている、聖霊に従って罪に勝利するその信仰にまでつながっていかなかったからです。そのため自分の経験に合わせて、聖書のレベルを引き下げたのですね。

『ローマ人への手紙』7章15節、「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」。

この人は真理を知っている人でしょうか、知らない人でしょうか。この人は真理を知っている人でした。戒めに従って何とかそれを守ろうと力を尽くす人でした。戒めに従いたいという願いがいっぱいある人ですね。誰よりもこの願いを強く持っていた人でした。『ローマ人への手紙』7章は、現在の教会に通っている大部分の人々を示しています。熱心に教会に通っている信者たちのことを言っているのです。そして大部分の信者が、『ローマ人への手紙』7章の所にとどまっているわけです。


  人はなぜ苦しむのか 第165回

2014年09月06日 | 日記

 

 人はなぜ苦しむのか 第165回

サタンはヨブに拷問の苦しみを加え始めました。「サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました」(ヨブ2:7)。その時「ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」。そのようなヨブの姿を見ていた妻は、彼に言いました。「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」(ヨブ2:8、9)。友人たちもヨブを尋ねて来て、絶望的な言葉ばかり残して立ち去りました。「考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で断ち滅ぼされた者があるか。わたしの見た所によれば、不義を耕し、害悪をまく者は、それを刈り取っている」(ヨブ4:7、8)。ヨブの友人たちが発する嘲弄やあざ笑いは、ヨブを耐え難い苦しみの中へ追い込みました。

しかしそれでもヨブの高潔な品性は揺らぎませんでした。彼は妻に次のような言葉で反論しました。「しかしヨブは彼女に言った、『あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」(ヨブ2:10)。ヨブの口から出たこの一言によって、サタンは完全に敗北しました。このような理由に基づいて、サタンはこれ以上ヨブ記に登場しなくなります。神様に対して罪を犯すよりかえって死ぬことを選んだヨブに、サタンは打ち勝つことができませんでした。「見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう」。「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」(ヨブ13:15;19:25)。

     絶望から希望へ 第9回

 み言葉通りに生きよう

皆さん、人が聖書を読む時、そこにあるがままの真理を受け入れるなら、「ああ、このように聖書に書いてあるから、私はこのように生きるべきだ」と思い、その言葉に従えるように聖霊を求めて祈り、生きるようになるのではありませんか?そうしないで、「私にはこれは出来そうにないから、そこまで至らないから、自分のレベルに合うように聖書を合わせていこう、そして人にもそのように教えていこう」と思っているのではありませんか?私たちは長年このようにしてきたために、聖書の単純でまっさらな教えを失ってしまったのです。ですから、み言葉通りに生きる人が珍しくなってしまいました。

何が問題なのでしょうか。皆さんはどうでしょうか。皆さんは今どこに留まっているでしょうか。私たちはなぜ罪の足かせを打ち壊さずに、いつもその中に留まっているのでしょうか。その理由は間違った教えのためです。間違って学んできたためです。人は自分の経験以上のことを悟るのは難しいですね。現代の教会では、多くの人が、罪に対する勝利ということについて、一回も耳にしたことがありません。いつも「主よ、主よ」と口にしながら、心が変えられることも、行動が変えられることもなく、あるがままでいいのだと思っている現状のように思えます。「出来ない、不可能だ」という中に完全に留まっているのです。

「ああ、これでいいんだろうか」。良心に咎めを感じる時もあるけれども、しかし、ほとんどの人がそういう姿で生きているから、「クリスチャンとはこういうものだ」と思っている人が大勢います。今日の教会は、まるで盲人が盲人を手引きしている(マタイ15:14)、そういった時代ですね。まことの福音というのはそういうものではありません。まことの自由を与える福音です。まことの幸せを与える福音です。内面の深いところから、賛美と感謝があふれ出す福音、罪の奴隷となっていつまでも罪に引きずられない、そのような福音なのです。

皆さんはそのような信仰を夢見ていませんか。罪の奴隷となって、いつまでも罪に引きずられていかなくてよい福音です。罪を犯しては、「主よ、主よ、お赦し下さい」と言い、そうして起き上がってはまた罪を犯す。「主よ、赦して下さい」。本当にこの言葉は飽き飽きではありませんか。そこから逃れたいと思いませんか。私をこの罪から救い出す福音。私たちはこの福音を経験するべきではありませんか。