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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

後の雨に備える(デビット・カン講演25)

2013年01月21日 | 日記



   ひまわりさんより(1月21日)

子供の頃、母が、自分の一番好きな聖書の言葉として、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、私の証人となるであろう」(使徒行伝1:8)の聖句をあげていました。私は、イエス様の証人になるってどんなことだろうと、ずっと分からないでいました。そうしたら、今日の日課の中に、「神は、キリストの恵みを通して男女がどんな者になり得るか、それを世の前に証明する生きた証人として、わたしたちを発達させておられる」とありました。イエス様の品性を表すことが、証人となることでした。そして、イエス様の証人となるためには、一見もっともらしい自己正当化の理論が、サタンからのものであることを見抜いて、それに従わないようにする訓練が必要なのだと思います。巧妙なサタンの声に従わないためには、心に低さと感謝があるかを基準にして選んでいくことが大切なのだと思いました。

   生ける神の印、安息日(デビット・カン講演25)

神様の戒めを守るということは、思いのうちで経験することなのです。安息日を清く守るということは、心の中で神様のすべての戒めに従っているということを外に出したものなのです。表に現れたものなのです。ですから、最終時代に安息日を守ることは、生ける神の印だと言われているのです。サタンはそれを、ことごとく憎みます。その結果サタンは、日曜休業令を持ってくるわけですね。
この世界の経済は、間もなく破綻します。間もなく、食べ物を買うことが困難になってきます。悩みの時になると、この世界は恐ろしいほどの災害、災難を経験しなくてはならなくなります。獣の刻印の命じることは何でしょう。獣の刻印を受けなくては、売り買いができなくなるということです。自分たちが、畑で最低限の食べ物を得られることができるようになっていなければなりません。





生ける神の印 デビット・カン講演24

2013年01月20日 | 日記


     ひまわりさんより(1月20日)

今日は、ブログを開始してから、ちょうど1年目になりました。昨年の1月21日から、見よう見まねで始めたブログで、最初は、2日か3日おきに出していたものが、10日ぐらいして、毎日続けることにしたものです。毎日、何か書くことが与えられ、これは神様のお助けだと感謝しています。これからも、どうぞ引き続きご覧ください。
 さて、今日は久しぶりに、以前行った近くの美容室へカットに行きました。ここの美容師さんは、私がこうしてほしいなと思うことを、何も言わなくてもその通りにやってくれて、とても気に入り、また行きたいと思っていました。そのあとお昼には、先週の日曜日に、夫と息子と3人で行った、近くのスパゲッティ屋さんへ、夫と二人で出かけました。この店のスパゲッティはとてもおいしく、その上、料理長の奥さんは、私に雰囲気がすごくよく似ていると、職場の人から言われていて、どんな人だろうと思って、先週たまたま時間があったので行ってみました。そうしたら、小まめに動く気さくな人で、私は、自分が人からこういう風に見られていたのだと、少しホッとしました。本当は、もっとごつい気難しい人に見られているのではないかと心配していたのですが・・・。また、料理もすごくおいしくて、また行きたい、他のメニューも食べてみたいと思わせるものだったので、2週連続で行ってみたのです。私は、野菜スパゲッティを頼んだのですが、野菜だけでだしを取り、ケチャップでなく、トマトを煮込んだソースでからめたさっぱり味のもので、とてもおいしくて、また来たいと思わせるものでした。それで思ったのですが、聖書にある、「キリストの香り」と言うのは、もう一度会いたい、と思わせるものではないかと思いました。あの美容室へまた行きたい、またあのお店で食べたいと思うように、あの人にまた会いたいと思われるようになりたいと思いました。

    この世に心を置かない(デビット・カン講演24)

高級住宅街の通りを通ってみると、日本でもありますか、お金持ちだけが住んでいるような区域、東京にありますかね。大きな高級住宅が並び建っている場所、アメリカに行くとそういう地域があって、お城のような建物が並んでいます。15億円ぐらいの家も見たことがあります。巨大な家です。お城のような・・・。そんな場所を通っても、うらやましいと全然思いません。なぜでしょうか。そういった素晴らしい立派な建物を見るとき、私はこのように考えます。「ああ、あの家が燃えるときはものすごい光景だろうな。派手に燃えるんだろうなー」と思うわけです。あのぐらいの家が燃えるのは、ちょっと時間がかかるだろうな-。全く、そんな、家をむさぼる、欲しがるような気持ちにはなりません。なぜなら、私の心は世の中にはないからです。いい家とか、立派な家とか車とか、全然うらやましいと思いません。
何年か前に娘に言われたことがあるんです。「お父さん、私たち、本物の家に住んだことがないねー」。「なに言ってるんだ。これは立派な家じゃないか」。「これは本当の家ではないわよ。トレーラーみたいなものよ」と言われました。その時にあらためて思ったわけですね、まあ自分は1度も、本物の家らしい家を所有したことがないなあと。そんなことは、どうでもいいことです。いい家に住みたい、などという思いは全くありません。






生ける神の印 デビット・カン講演23

2013年01月19日 | 日記



    ひまわりさんより(1月19日)

今日の安息日の礼拝メッセージは、黙示録14章6,7節の「三天使の使命」でした。第一の天使が「永遠の福音」をたずさえてきて、大声で叫ぶのですが、まず、永遠の福音とはどのようなものかということでした。この世界は、最初神様に造られた時には永遠でしたが、罪が入ってきた時から、永遠は失われ、有限なものになってしまいました。ですから、永遠を得るためには、罪がなくならないといけないのです。つまり、永遠の福音とは、まず、罪が消滅する良い知らせなのです。罪がなくなった世界など、私たちには想像もつきませんが、聖書には、「死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」(黙示録21:4)世界としてあらわされています。私たちの心から、世界から、すべての災いの根源である罪がなくなるのです。これこそ、大声で叫びたくなる良い知らせだと思います。



  
  戒めはまず心で守る(デビット・カン講演23)
 
では、安息日を清く守るというのは、どういう意味なのでしょうか。それは、安息日を守る人が、十の戒め全部を守っているということを表しています。誰かを殺していながら、安息日を清く守ることはできませんね。姦淫を犯していながら、安息日を清く守ることなんかできません。思いにおいて一瞬姦淫の思いが起きたとしても、もし信仰によって安息日を清く守るならば、それが神様の律法すべてに従っているというしるしになるわけです。サインなのです。多くのセブンスデー・アドベンチストが、この安息日を守るということがどういうことなのかわからないでいます。
十戒の第10条は何でしょうか。最後の戒め、「むさぼってはならない」という戒めですね。その振る舞いにおいてこの戒めに従おうとします。どうやってこの戒めを守りますか。「むさぼらない」とは、どうやって守るのでしょうか。心で守るのですよね。なぜこの「むさぼるな」という戒めを、最後に持ってきたのでしょうか。それは本来、神様の戒めは、まず心で守るものだということを教えるためでした。心の体験なのです。





生ける神の印 デビット・カン講演22

2013年01月18日 | 日記


     ひまわりさんより(1月18日)

今日は、お昼御飯も食べないで仕事をして、午後3時には仕事を終わり、家の近くのスーパーに買い物に行きました。おなかがぺこぺこだったので、何か食べたいと思いました。こんな時、私はだいたい、体に悪いスナック菓子がむしょうに食べたくなります。スーパーの棚から、あっという間に、「○○スナック・バーベキュー味」というのを取ってかごに入れていました。その瞬間、私の頭に、「飲むにも食べるにも主の栄光のためにすべきである」という言葉が浮かびました。私は思わず、「ハハーッ」という感じで、スナックの袋をもとに戻していました。でも、おなかはすいているし、家には食べるものは何もないし、どうしようと思って、スーパーの中を歩いていたら、ノンオイルで無塩のミックスナッツを売っていました。私にとっては、一番欲しい、必要なものが備えられていたのです。神様がダメと言われるときには、もっと良いものを用意してくださるのだということを感じました。そして、イエス様が心のうちに住んでくださるというのは、み言葉を心のうちに蓄えておくことではないかと思いました。


    安息日は救いのしるし(デビット・カン講演22)

なぜ終末において、安息日を守ることが神の印となるのか、わかっていないのです。なぜ世のすべての人のテストとなるのか、安息日を守るということがわかっていないのです。安息日を守るということは、外見上のしるしで、それは、内部の経験が外に現れたものです。割礼のようなものですね。神様は、アブラハムの子孫に、割礼を受けるようにと指示されました。割礼を受けていなければ、天使たちによって殺されたのです。割礼というのは外側のしるしに過ぎなかったのに、なぜそのように大事にされたのでしょう。
なぜならそれは、福音の内部の経験を外に表したものだったからなのです。つまり、心に割礼を受けるということを表したものだったです。魂から罪を切り落とすということを意味していたのです。
世俗的なもの、偶像を心から切り出すこと、しめ出すことを表していたのです。そういったことを象徴していたのですね。そのために、生まれた男の子は、全員割礼を受けなければなりませんでした。割礼は痛みを伴うものです。本来、あまり好ましくはないものですね。安息日もそのようなものなのです。安息日を清く守るということには、痛みと苦しみを伴います。犠牲も伴います。あまり好ましいものではないのです。本来は心の経験が外に現れた、外見上のしるしですね。




生ける神の印 デビット・カン講演21

2013年01月17日 | 日記


    ひまわりさんより(1月17日)

今日は、夢の中で、「この思いは、神様の思いではない。黙れ、出て行け、下がれ」と何度も叫んでいました。そうしたら目が覚めて、夢の中でも、サタンとの戦いをしていたことに気づきました。私にとっては,起きていても、眠っていても常にサタンとの戦いで、それは、イエス様の思いに自分の思いを従わせる戦いなのだと思いました。そのようなサタンとの戦いの中で、イエス様の思いは、赦しと、理解と、励ましなのですが、サタンの思いは,仕返し、批判、破壊なので、はっきりと違うものです。以前は、やすやすとこのサタンの思いに身をゆだねていたのですが、今はそれがサタンの思いだということが分かるので、それに従わないように戦うことができるのだと思います。

    十字架のしるし(デビット・カン講演21)

イスラエルの歴史を通じて、神様は十字架の印をつけることを、イスラエル人に教えられました。なぜ神様は、天使たちにこのカルバリーの十字架のしるしを額に付けるようにと指示されるのでしょうか。これは「生ける神の印」ですね。なぜそのようなしるしなんでしょうか。
先ほど読んだところに、「神の律法に違反した罪は取り除かれている」とあります。どういう意味でしょうか。本当の意味で許された人たちのことですね。神様の恵みによって、彼らの魂において、罪の問題がすべて解決されているわけです。神の律法を完全に守っているわけです。もはや、神の律法に違反することはないわけです。イエス様をこよなく愛するからですね。ゆえに、イエス様を傷つけたくないと思うわけです。罪が除かれた状態ですね。罪の除去なのです。そういう人たちに十字架のしるしがつけられます。日曜休業令がやってくる前に、私たちはそれを持たなくてはいけません。多くのセブンスデー・アドベンチストは、そのことについて全く知らず、世の人達たちと同じように生きているだけです。ただ、土曜日に教会に行って、午後にはやりたい事をやっています。ある人は土曜日の午後買い物に行って、レストランで食べたりします。安息日を守るとはどういうことかわかっていないんです。