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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

後の雨に備える(デビット・カン講演29)

2012年12月26日 | 日記



   ひまわりさんより(12月26日)
私は、ヘルパー業は初心者なので、訪問に行くときには、まず、イメージトレーニングをして、あらかじめ手順を決めてから出かけるようにしています。ところが、今日、急に予定が変更になって、一番気難しい人の所へ、調理支援に行かなければならなくなりました。この人の所へ行くときには、前の晩からシュミレーションしなければ行けないような人でしたので、気が重くなったのですが、消極を言わないで、お祈りしながら出かけました。今日は、大根を圧力釜で煮て、タイ味噌のビン詰があったのでそれを乗せたものと、他に2品おかずを作って出しました。そうしたら、大根を「おいしい、おいしい」と言って,どんぶり一杯全部食べてしまいました。そして、にこにこして今まで見たことのない笑顔になられたのです。おいしいと思うと、人はすごく元気になるのだと、あらためて感じました。その人は「もう、あんたがずーっと来てくれ、・・・というわけにはいかないんだよなー」と言っていました。

   力ある後の雨の注ぎ(デビット・カン講演29)
そのとき、神様は私たちに印を押してくださいます。後の雨の力を注いでくださいます。私たちは、ものすごい力を持って福音を説くようになります。そして、奇跡を行うことができるようになります。驚くべきことが、私たちの前途に起ころうとしています。後の雨を、私たちは祈り求める必要があります。もう、あまり時は残されていません。そのことを私は知っています。
あの臆病者のペテロが、ペンテコステの日に聖霊を受けたとき、あれほどの大胆な者になりました。祈らないといけません。皆さん、どうぞ祈ってください。イエス様に、永遠にわたって献身するための時を費やしてください。





後の雨に備える(デビット・カン講演28)

2012年12月25日 | 日記



    ひまわりさんより(12月25日)

新しく、ヘルパーさんのサービス提供責任者と、ヘルパーをしながら毎日を過ごしていますが、急にヘルパーさんの都合が悪くなって、代わりに出かけたりしていて、最近では、昼食を食べる暇もありませんでした。弁当を、車の中で大急ぎで食べたり、午後の4時過ぎに食べたりと、不規則になっていました。昼食を食べられない日が何日かあったので、思い切ってそのまま食べないで、夕食だけを食べる、1日2食をやってみたら、すごく体調が良くなりました。そういえば、エレン・ホワイトも、肉体労働者でなければ、1日2食のほうがいいと言っていたと思いますが、私にとっては、2食の方がいいのかもしれません。忙しく昼食をかき込むより、むしろ抜かした方が、疲れにくいし、昼食を食べない分、仕事がはかどって一石二鳥となっています。もちろん、その分朝は、玄米に小豆とひよこ豆をいれ、海草とアボガドのサラダ、具だくさんの味噌汁など、野菜を中心に、しっかり食べています。

   今は勝利するとき(デビット・カン講演28)

ではなぜ今だに、後の雨が降り注がれていないのか、ご存じですか。ホワイト夫人によると、もし今、後の雨が降り注がれるとしたら、教会に、さらなる問題と分裂を引き起こすことになるからです。「私の力は、あなたよりすぐれている」とかですね。ですから、まだ教会には用意ができていないのです。
上からの力を受ける用意ができて、品性において安全になっているときに、後の雨が降り注がれます。このときの後の雨は、前の雨とは異なるのです。私たちは、前の雨の時期に住んでいます。成長するときです。真理を学ぶときです。勝利するときです。イエス様のようになるときです。私たちの心は、イエス様の愛、同情、あわれみには、とうてい比べものにはならないわけですけれども、それでもイエス様の心が、自分のものとなっていきます。これが、前の雨の経験です。私たちの用意ができたときに、完全になります






後の雨に備える(デビット・カン講演27)

2012年12月24日 | 日記



     ひまわりさんより(12月24日)

今日は夫のいるデイサービスで、クリスマス会を行いました。私も今日は時間ができたので見学することができました。今日は休日だったので、流山に住んでいる長男、長女も讃美歌を歌いに、教会のグループの人たちと来てくれました。アカペラで5曲歌ってくれましたが、よく声がそろっていてきれいなハーモニーでした。後で、「練習大変だったでしょう」言ったら、一人の青年が、「はい、朝6時から練習しました」ということでした。そして、音をとれない長女は、夕べ一晩練習をしていたのだそうです。今日の利用者様は休みの人もあって、わずか7名でしたが、その人たちのために、一生懸命練習して、すてきな歌を届けてくれて感謝しました。また、童謡の独唱もありましたが、その時には、利用者様の一人が、感動して両手で顔を覆って泣いておられました。もう一人の人も、「涙が出るほど感動した」と、あとで話していました。会の終わりには、最長老の99歳の男性が、「今日は一つ利口になった」と言って、夫が話したサンタクロースの起源についての話を喜んでおられました。そして、「今までサンタクロースの話は聞いたことがなかった。今日はこの後、親戚が集まるから、この話を教えてやる」と言って得意そうでした。心温まるクリスマス会となり、良かったと思いました。


      聖霊の力(デビット・カン講演27)

『聖書』と『証の書』は、単純にこのように言っています。父なる神は、み子と、聖霊の神を無限に与えて下さいます。イエス様は、聖霊のバプテスマを受けられました。私たちは、そのように聖霊を受ける必要があります。聖霊のバプテスマを受けるならば、聖霊の力を備える者となっていくわけです。
バビロンの諸教会に、癒しの力を持った人がいて、奇跡的に目の見えない人を癒したりしているのを見たことありますか。あれ、偽物ですよ。あれは、悪霊によるものです。
しかし、私たちが後の雨を受けたときに、福音を宣布する力を帯びるようになります。人々を説得する力を帯びるようになります。エルサレムの門でペテロが立った時、彼の言葉は、その発する言葉は、率直で力がありました。1日に3千人が改心しました。これが聖霊の力です。彼らは、死人を甦らせることもしました。
兄弟姉妹の皆様、私たちも死人を甦らせるようになります。どうしてですか? 私たちの説いていることが、天から来た真理であるという事を人々に知らせるためです。奇跡というのは、神の力の証拠です。




後の雨に備える(デビット・カン講演26)

2012年12月23日 | 日記


   ひまわりさんより(12月23日)

今日、デビット・カン先生のCDを聞いていて、すごく明確になったことがあります。それは、聖所の務めの事についてですが、聖所の働きの中で、外庭は、罪を憎んで義を愛する心になること、聖所の第一の部屋の務めは、イエス様の方法を学ぶこと、つまり、イエス様がみ言葉のパンを食べて罪に勝利されたように、私たちもイエス様の信仰を体験すること、至聖所の働きは、印されること、それは、み言葉の原則が固定されて、不動のものになることだということが、はっきりわかり、とても感謝しました。『各時代の大争闘』下巻144,145頁には、「彼らは、主の働きをよく理解し、彼が神の前に出られるのに信仰によって従っていかねばならない。この意味において、彼らは、婚宴(婚姻)のへやに入ったと言われているのである」「これらの人々は、天の聖所に関する真理と、救い主の務めの変化とを認め、信仰によって、天の聖所における彼の働きに従っていった」。イエス様の再臨を待つ人々は、信仰によって、天の聖所に入るよう招かれているのですが、この聖所に入るという経験を、カン先生は、ご自分の体験から、上のように教えておられるのだと思いました。
    
   見失われている後の雨の備え(デビット・カン講演26)

この点を、多くのアドベンチストが見失っています。どのようにして後の雨に備えるのかということを・・・。「もう、完全にならなくちゃいけないんだ。親切にしなくちゃいけないんだ。愛をもたなくてはいけない。ああ、節制しなくてはいけない。ああ、あなた白米食べてたでしょう。罪だよ。ああ、牛乳飲んだでしょう。あ、牛乳に白砂糖入れて飲んだでしょう」。そういう態度のアドベンチストが大勢いるわけですね。
保守的な人たちの中に、そういう人たちが大勢います。完全というのは、神様の愛を心にいただいて、もう罪を犯さなくなることなんです。健康メッセージ、健康改革、たしかに大事です。私たちが完全になる手助けをしてくれます。私たちが、明晰な頭脳を持って神様の言葉を、み心を理解できるように助けてくれます。私たちの、体、思考、感情を正しく保つ手助けをしてくれます。しかし、健康メッセージを受け入れたからといって、それが、私たちを義とする功績となるわけではありません。







後の雨に備える(デビット・カン講演25)

2012年12月22日 | 日記



ひまわりさんより(12月22日)
SDA教会では、安息日には、『聖書研究ガイド』の勉強をしますが、今日の学びのテーマは「最後の出来事―イエスと救われた者たち」というテーマでした。暗証聖句は、私の信仰の一つのきっかけとなった聖句で、この聖句の意味が聖所の研究を通して、自分なりに理解できたと思っています。「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわしてくださるためである」(使徒行伝3:19)。まずここで、「悔い改めて」は、聖所の経験では外庭の経験、ここを通って、「本心に立ちかえる」これは、聖所の清めの経験、そして、「自分の罪をぬぐい去っていただく」のは、至聖所の罪の除去の経験、それからイエス様による万物更新、つまり再臨となるのです。今までよく分からなかった聖句が、聖所に当てはめるとよく理解できるように思いますが、いかがでしょうか。なおガイドでは、「天の聖所におけるキリストの務めを非常に重要視していることは、だれが見てもあきらかです」(82頁)と言いながら、肝心のキリストの務めについては触れていなかったので、そこをもっと知りたいと思いました。

不平、不満のない人生(デビット・カン講演25)
なぜ人は不信をいだくか、わかりますか? なぜ人は罪を犯し続けるか、わかりますか? なぜ人は神様に対して不信感をいだき、神様を信じようとしないのか、ご存知ですか?
神様に対して、疑いを持っているからなのです。神様に問題を感じているからなのです。
私たちが神様のみ言葉を学ぶときに、私たちは、ヨブのような人間になります。何が起ころうと、神様に対して不平をいだかなくなります。不平、不満、文句を言わなくなります。誰かに、どんなにひどい扱いをうけても、不平を言わなくなるわけです。これがイエス様のご生涯です。これが神様のお心なのです。神様の、そのお心を、私たちは学び、身につけなければならないのです。私たちに、罪の言い訳を与えてくれるようなものは何もありません。私の言わんとしていることがおわかりでしょうか?これは難しすぎますか?