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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

後の雨に備える(デビット・カン講演18)

2012年12月15日 | 日記



     ひまわりさんより(12月15日)

宗教改革のもう一つの教えは、「聖書のみ」という立場です。これも、当時のカトリック教会が、聖書外典(アポクリファー)や教父の教えを聖書と同等かそれ以上に高くして、自分たちに都合の良い考えを人々に信じさせていたことに対する抗議(プロテスト)だと聞いています。ところで、この「聖書のみ」という立場について、私が最近のSDAについて気になることがあります。それは、「聖書のみ」なのだからということで、私たちの教会の霊的リーダーだった、エレン・ホワイトの著作を、他の、ニーバー、などの神学者たちの著作と同じようなものとして見ているのではないかという点です。私は神学書などはほとんど読んだことはありませんが、そのような著作と、エレン・ホワイトの本は、根本的に違っていると思います。神学書は、著者の、真剣な祈りや真理探究の作業から生まれたものなのでしょうが、エレン・ホワイトの著書は、本当に天から示された世界を書いておられるということです。たとえば、『各時代の希望』上巻153ページに、バプテスマのヨハネの記事があります。「エルサレムからの代表団はヨハネに、「なぜバプテスマを授けるのですか」と聞きただしてその返事を待っていた。すると突然、群衆を見渡したヨハネの目が輝き、その顔が明るくなり、彼の全身全霊が深い感動に動かされた。彼は両手をさしのべて叫んだ。「わたしは水でバプテスマを授けるが・・・」(ヨハネ1:26)ここに、バプテスマのヨハネは、「両手をさしのべて叫んだ」とありますが、これは、その光景を見せられた人の言葉だと思います。片手でなく、両手を敬虔に差し伸べたのです。このような記事は、神学者には絶対に書けないことです。全くの空想でないかぎり、このような表現は天からの啓示でなければできないものです(このような表現は、イエス様の葬りの場面など、その場を見せられた人でなければ書けないことがたくさんあります)。エレン・ホワイトの著作は、聖書ではありませんが、聖書と同じ霊感、啓示を受けた、預言者の言葉として、大切にしなければならないと思います。

    永遠に安全な人(デビット・カン講演18)

私たちの調査審判が終わる時に、神様は、私たちの名前を呼ばれます。しかし、なぜ記録が必要なのでしょう。本当は神様には必要ないですね。神様なんですから。何でも知っておられる神様ですから。記録の書など必要ないですね、なぜ神様は、私たちの、あらゆる行為を記録するよう天使たちに命じておられるのでしょう。最後のさばきの時に、神様がそれを見る必要があるからでしょうか。違いますよ。神様にはその必要はありません。ではなぜ必要なのでしょう。宇宙の前で証明したいからですね。
この人物は、本当にゆるされた、罪を犯すことをやめた、私をこよなく愛するから、聖霊を受けたから、心をつくして私を愛してくれるようになったから、もう、神の律法を犯さないように変えられたのだ。この人は信頼に値する、永遠に、天使たちや多世界の住人と一緒に住んでも安全になったと証明するためです。
そのために、神様は私たちの記録を残すよう天使たちに命じておられるわけです。そして、「これを見なさい。彼は、たしかに罪を犯して悪かったけれども、ここで悔い改めて、戦いがあったけれども、福音を通して私の力を受けました。もう、心をつくして、私を愛するようになりました。この人を見てごらんなさい。義人になりました。もう安全ですよ。この人の心から、罪や反逆が起こることは決してありません」。