SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

後の雨に備える(デビット・カン講演5)

2012年12月01日 | 日記



    ひまわりさんより(12月1日) 

私は、看護や介護の仕事で、毎日人の足を洗っています。何日もお風呂に入っていない人の足は、かなり汚れていて、これをどうやったらきれいにするか、いろいろ工夫しながら洗っています。そんなわけで、私は教会で行われている洗足式が、謙遜の式だといわれても、今一つピンと来ていませんでした。1か月に何十人もの人の足を洗っても、謙遜になるわけではないなと思っていたのです。今日の安息日は、K教会の礼拝に参加しましたが、そこでの聖書の学びの時間に、牧師先生が、洗足式について、「人の罪は、自分で洗うことができない。イエス様だけが罪を洗うことがおできになる。洗足式は、自分で自分の罪を洗うことのできない人間が、イエス様に罪を洗っていただくことを表している」と教えてくださり、今までは、足を洗う方の謙遜ばかりを考えていたのですが、洗っていただく方の謙遜という面もあるのだということを知り感謝しました。ところで、今日の礼拝の終わりの讃美歌は、「キリストにはかえられません」でしたが、隣に座っていた夫は、パートをとりながら一生懸命賛美していました。すると、礼拝が終わった時、夫の隣に座っていた40代ぐらいのご婦人二人が、夫に、「とてもきれいな賛美をありがとうございました。感動して泣いてしまいました」と言われたのです。本当にその方々は、目に涙を浮かべておられました。帰りの車の中で夫は、「自分が牧師をしていた時に、説教で感動して涙を流した人はいなかったけど、賛美を聞いて涙を流す人がいるなんて驚きだね。心は、言葉でなく、聖霊の感動によって伝わるんだね」と語っていました。

  心を尽くして神様を愛する(デビット・カン講演5)

私たちが神様の戒めに従うとき、私たちがすべての知っている罪に勝利するならば、神様はその人を完全と見なされます。そして、私たちが神様の戒めに従うという時、私たちがそのすべてに従おうが、全然従わなかろうが、その戒めというのは一つです。それは何ですか。神を愛し、隣人を愛するということです。まず神様を愛さなくてはいけません。そうする時に、神様は隣人に対する愛を私たちに供給してくださいます。私たちのうちには、そのような愛はありません。私たちは受けなくてはいけないのです。
『祝福の山』という本を読まれたならば、義と愛について、ホワイト夫人は次のように言っておられます。「義は愛である」と・・・。それを読んだとき、私は理解しました。はっきりとわかりました。私たちが神の愛について理解するとき、神様の愛に深く感銘を受けた時、神様との恋に落ちた時、神様の愛が私たちのうちに流れてきます。私たちが心を尽くして神様を愛すること、これが私たちの義であります。その時から私たちは、今までと違った感じを持ち、違った考えを持つようになります。私たちは新しい心を受けるのです。
(編集者注:昨日のメッセージの中で、カン先生が、「知らないことについては、神様は罪とはみなされません」と述べておられます。たとえば、ルターやカルバンは、安息日の事を知らなかったのですが、彼らの知り得た真理によって義とされたのです。しかしダビデは、「私を隠れたとがから解き放ってください」(詩篇19:12)と祈っています。自分も知らなかった心の奥底にある罪も、それが天国を失うことになるようなものであれば、神様は、罪をあらわにして下さり、その罪に勝利させてくださるのだと思います)