SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

後の雨に備える(デビット・カン講演24)

2012年12月21日 | 日記



    ひまわりさんより(12月21日)

今日は、私にとってすごくショックなことがありました。いつも仕事帰りに、近くのスーパーの中の豆腐屋さんに豆乳を買いに行くのですが、今日3日ぶりに、豆乳の入れ物を下げて店に行ったら、「12月20日をもちまして閉店となりました」、と書いてあったのです。前にも書きましたが(12月6日)、私にとっては貴重な水分補給、たんぱく質、カルシウム補給の豆乳だったので、ガーンという感じでした。昨日の帰りに,明日買いに行けばいいと思っていたら、明日はなかったのです。今日と同じように明日が続くと思ってはならないとつくづく思いました。明日になったら、脳こうそくになっているかもしれないし、目が見えなくなっているかもしれません。今日のこの恵みを精一杯感謝する生き方をしたいし、もし、明日、再臨を迎えることになったとしても、心の平安が取り去られることがないようにしたいと思いました。

     完全な愛が回復されるとき(デビット・カン講演24)

黙示録21章を見ると、神様は、私たちの目から涙をぬぐい取ってくださると書かれています。それ以後は、もはや、悲しみはなくなります。調査審判とはどのようなものですか? 今現在、恩恵期間が終了するまで、義人たちの調査審判が天で行われているわけです。そして、天国へ連れていかれてから、1000年の間、私たちは別の形でこの調査審判にたずさわるようになります。その目的は何ですか。『なぜこの人が、天国に入ることができなかったのか』を知るためなのです。そのことを私たちが見ることができるようになるために、天国には書物があるわけです。神様に対して、永遠にわたって、何の疑惑も疑念も起こることがないようにするためなんです。神様に対して、完全な愛、完全な信頼が回復されます。



後の雨に備える(デビット・カン講演23)

2012年12月20日 | 日記



     ひまわりさんより(12月20日)

イエス様は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:28、29)と言われました。くびきを負うってどういうことなのだろうなと、分かったような分からないような気持ちでした。でも、柔和とへりくだった心があれば、重荷がずいぶん軽くなります。結局、重荷の大部分は、自分が作りだしているもので、捨てられていない自我に基づくものだと思います。その自分の醜い自我を、イエス様の思いと交換してくださるというのが、この聖句なのではないかと思うようになりました。イエス様に目を向け、み言葉に心を向けるなら、荒れ狂う自我の嵐も、すぐにおさまり重荷も軽くされるのです。

   完全な愛が回復されるとき(デビット・カン講演23)

黙示録21章を見ると、神様は、私たちの目から涙をぬぐい取ってくださると書かれています。それ以後は、もはや、悲しみはなくなります。調査審判とはどのようなものですか? 今現在、恩恵期間が終了するまで、義人たちの調査審判が天で行われているわけです。そして、天国へ連れていかれてから、1000年の間、私たちは別の形でこの調査審判にたずさわるようになります。その目的は何ですか。『なぜこの人が、天国に入ることができなかったのか』を知るためなのです。そのことを私たちが見ることができるようになるために、天国には書物があるわけです。神様に対して、永遠にわたって、何の疑惑も疑念も起こることがないようにするためなんです。神様に対して、完全な愛、完全な信頼が回復されます。





後の雨に備える(デビット・カン講演22)

2012年12月19日 | 日記


      ひまわりさんより(12月19日)

我が家のジョイは、気ままに飛び跳ねるのが好きで、散歩のときも相当制しないと、自分の行きたい方へぐいぐい引っ張っていきます(夫に言わせると、しつけが全然なっていないのだそうです)。そんな時、「ジョイ」と呼んで、しっかりアイコンタクトを取り、「いい子ね」というと、急にいい子になっておとなしく私の横を歩くのですが、30秒ぐらいすると、また、ビューッと走り出してしまいます。人間と神様との関係もこういうものではないかと思いました。人間は、何かのことで神様と共に歩むようになるのですが、すぐに神様を忘れ、自分の道を進んでしまうのです。そこで、また、神様が導きを与え、神様のもとへ帰るのですが、また飛び出していってしまいます。これまでの私の歩みは、まさにそのようなことの繰り返しでした。自分の勝手な道というのは破壊しかないのですから、今は、自分の好きな道を行きたいとは思いません。でも、肉の要素として、イライラしたり、つぶやきたくなる心が起きてくることがあります。そのような時、「この思いに従ってはいけないのだ」、という、自分を別の自分が監視しているような思いがあります。また、このような思いはイエス様だったらどうされるだろうと考えると、イライラの思いより、イエス様に従いたいという思いが強くなります。
 
   反逆者の滅亡(デビット・カン講演22)

そういった光景を目撃するのは、非常に困難なものです。そのとき、全宇宙に対して、私たちに対して、イエス様が質問されます。「この人たちをどうしましょうか。彼らをどうしてほしいですか」と。義人たちは言うでしょう。「愛の神様、彼らを死なせてください。あの状態で、彼らが永遠に生きるとすれば、それこそ地獄です。彼らに憐れみを注いでください。彼らを滅ぼしてください。彼らの反逆を、これ以上見るに耐えません」。
それで、神様は命じられて、天から火を降らせられるわけです。その火の炎は、彼らを焼きつくします。彼らが焼きつくされるとき、イエス様は泣かれます。サタンは、かつては、聖なる天使ルシファーでした。悪天使たちも、かつては聖天使でした。そういった、サタン、悪天使、私たちの親戚や、教会員だった人たちをそこに見ることになるでしょう。そのとき私たちも、イエス様と一緒に、彼らのために泣きます。






後の雨に備える(デビット・カン講演21)

2012年12月18日 | 日記



    ひまわりさんより(12月18日)

今日でブログの開設からちょうど333日目を迎えました。足りないメッセージと思いますが多くの方々が見ていて下さり、励まされながら書いています、さて、昨日は、朝6時半に家を出て、昼食も食べる時間がなく訪問の合間にビスケットを3枚食べただけでした。帰ってきたのが8時過ぎで、さすがに、口をきく元気もなくボーッとした状態で家に帰りました。そんな私の姿を見て、夫は、ふくらはぎのマッサージをしてくれ、それでずいぶん元気が回復しました。その後、知り合いと電話していた夫は、相手の方から、来年、デビット・カン先生の講演会があることを教えられ、すぐ、サンライズ・ミニストリーのホームページを開きました。すると、カン先生の講演会が、埼玉の国立女性教育会館で、3月29日から31日まで行われることが分かりました。私は、ほんとうにうれしくなって、さっそく家族5人分の宿泊申し込みをしました。本来は、今年の4月にカン先生の講演会がおこなわれる予定で、私たちは、参加する予定でしたが、カン先生の体調不良で中止になり、がっかりしていました。今回お会いでき、直接メッセージを聞けることを本当にうれしく思います。なお、カン先生の講演会の詳細は、グーグルの検索「サンライズ・ミニストリー」で知ることができます。興味のあられる方は、ご覧下さい。

     悪人の本性が明らかになる(デビット・カン講演21)

そのとき、悪人たちは、サタンと再び結託して、新エルサレムを攻撃しようとします。「あれは本来、我々のものだ。あれを攻撃して乗っ取ろう」と言います。「自分たちの数の方がはるかに多いではないか」と。そのとき武器を作って攻撃しようとするわけです。
そうすると、皆さんの中に、こう思う人がいるかもしれません。「私のおばあさんはいいクリスチャンだった、でもなぜ彼女は中にいないで、外にいるのだろうか?」 
その時に、神様は示さなくてはいけないわけです。「ほら、あなたのおばあさんを見てごらん。この新エルサレムの城壁を、打ち壊さんばかりの勢いでやってきます」。そのときに、そのおばあさんの本当の姿、本性が明らかになるのです。そのとき、あらゆる悪人たちが、サタンと悪天使たちと一緒にいることになります。
突然イエス様が、彼らの攻撃を止められます。そして、彼らの前で、イエス様の生涯をパノラマでお見せになります。イエス様の誕生から十字架に至るまでの生涯を、彼らの前で見せられます。その映画化されたものを、悪人たちは見ることになるわけです。すべての人を救うために、神様がどれほどのことをしてくださったかを見ることになります。それでも彼らは、変わることがなかったのです。彼らの品性は、印されて固まっているわけです。彼らは、私たちに向かって怒鳴りつけます。悪魔と同じようになるわけですね。





後の雨に備える(デビット・カン講演20)

2012年12月17日 | 日記



 ひまわりさんより(12月17日)

息子の行っている神学校では、2015年より、神学部の大幅な改組が行われるという連絡とそのための募金の依頼がきました。これまで短大以上を卒業した人を神学生として受け入れ、3年で卒業としていたのを、高卒から受け入れ、4年制と通常の大学のカリキュラムになるのだそうです。また、神学部教員の博士号取得のためなどの資金援助のお願いもありました。私は、高等教育を受けることは、大切なことだと思いますが、それ以上に、神学部の先生方は、高潔な品性と、真理に対する情熱を持った、信仰と祈りの人であって欲しいと思います。神学生たちが、20代の頃に受けた教育は、その後の牧師としての働きを大きく形作っていくのですから、単に、聖書の知識や情報を伝えるのではなく、聖書の生き方、人を愛し許し救う力を、身をもって実践する人であって欲しいと願っています。私の願いは、間違っているでしょうか。

    悪人の第2の復活(デビット・カン講演20)

1844年に、天の至聖所で調査審判が始まりました。まず、すでに死んだ人たちの審判が始まりました。彼らの運命はもう決まっています。彼らが救われるか、滅びるかはもう決まっているんです。彼らが死んで、なぜ1844年から、記録の書の調査が開始されたのでしょうか。過去の人たちが死んで、長い時間がたってから、1844年にこの書が開かれたのは、神様の裁きについて、天使たちが知るためです。
第2の復活において、なぜ神様は、悪人たちをもう一度甦らされるのでしょうか。もうすでに、死んでいますよ。なぜ、あえて甦らせるのでしょうか。そしてまた、火によって焼きつくされて死ぬわけですよね。残酷ではないでしょうか。死んでいなくなっているのに、なぜ悪人たちを再び甦らされなければならないのでしょうか。
それは、全宇宙に質問を投げかけるためです。千年期ののちに、神様は悪人たちを甦らされます。新エルサレムがあって、その中に義人たちがいます。悪人たちはエルサレムの外にいます。そのとき、その同じ場所に、地上歴史始まって以来生存したすべての人が、義人であれ、悪人であれ、その場にいることになります。私たちの家族の幾人かや、教会の幾人かは、外にいることでしょう。そして彼らを、外に見ることができます。それはひどい、悲しいことですね。