つまらないつぶやき⑬ 今回はいつもよりチョット長めです
『私の人生、竹光秀正』(たけみつ ひでまさ)という自叙伝を読んだ。この方は戦前新聞記者から縁あって当時の上海公使重光葵の秘書官となり終戦直後まで重光に仕えた。日出町出身の旧制杵築中学の大先輩である。戦後は帰郷し農民運動に身を投じ、大分県・日本農業の発展・振興に尽力されたことでも有名な方で、旧制中偉人列伝にも登場する方だ。平成10年8月15日没84歳。自叙伝の前半部分は重光葵の正に手足となって働き、重光に随行した昭和の激動期が克明に語られている。主従の関係性から主観的な部分も多いが、記述から重光葵の人物像が伺い知れる。
重光葵(しげみつ まもる)という人、杵築市八坂小学校区の方なら恐らく小さい頃から家庭で、学校で親や教師から偉大なその人のことをよく聞かされたことだろう。私は同じ杵築でも東小学校区だから重光葵という名前は高校になって初めて知った気がする。
杵築高校校舎の前庭の石碑『志四海』にその名前があった。旧制杵築中学の第3期生であり、戦前東大法科を卒業し、外交官、外務大臣、終戦時の全権特使、A級戦犯、外務大臣、改進党党首・・・と数奇な運命を辿った大先輩である。外交官時代上海で或る式典に臨席した折、今でいうテロ爆破事件に見舞われ、右足を太ももから失い以降は鉄の義足と松葉杖という不自由さを強いられたが、昭和のはじめ正に時代が大きく動いた時期に外交の精通者・トップとして国家の方向性に大きな影響を与えたといわれている。彼の国家感とその思想、持ち前の不倒・不屈、強靭な精神と行動やバランス感覚は終戦後も要職に復帰されたことから分かるように、当時の人々の支持や共感を得ていたことが伺える。
終戦時、天皇と政府の全権として重光外相、大本営代表として陸軍の梅津参謀総長(この方も大分県人)の二人が横浜港に入港した敵艦ミズーリ号艦上で無条件降伏文書に調印したことはつとに有名(重光外相が調印に使用した万年筆は秘書官の竹光氏から直前に拝借したもので現在は安岐町の重光記念館に所蔵)である。戦前・戦中一貫してアジアの民族の独立、自主・自立と和平を唱え、開戦・交戦へ傾斜しようとする周囲に対しても敢然と論陣をはり、軍の大東亜共栄圏構想とは一線を画し、昭和天皇からも厚い信認を受ける中、日本のブレーキ役を担ったといわれている。
あまり知られていないが終戦直後、占領軍のサザーランド参謀長を中心に日本に軍政を敷く(主権を認めず天皇制も排斥するということを意味し、ポツダム宣言を逸脱する内容)ことが連合国側で画策されているという情報を聞きつけるや、そのことは日本の領土分割統治を意味するためそれを絶対阻止しようとして、天皇を中心とした文民統制をマッカーサーに直訴しアメリカの利害も関連してかこの訴えが受け入れられ、その結果現在の日本領土の保全が叶ったといわれている。竹光氏は重光のこうした尽力にもっと光をあてるべきだと述べている。
戦争終結は御前会議において天皇の聖断により決定されたがこれに至るにあたり、政府と軍の代表者の舞台裏でのやりとりが述べられている。最終的には14日の御前会議で聖断が下され、玉音放送が収録され翌日15日に無条件降伏を受け入れたとされている。
当時の御前会議出席者6名の内3名が大分県人であった。阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長。この3名は軍のトップであることから無条件降伏受け入れ反対、本土決戦やむなしという立場をとっていたとされている。重光は当時の東郷外相(重光の後任)や米内海軍大臣、木戸内大臣など宣言受諾派とともに説得工作を重ねて終戦に持ち込んだといわれている。終戦は大分県人の手によって執り行われたといういわれはここにある。
実は豊田副武(とよだ そえむ)軍令部総長も旧制杵築中学出身。重光葵の一つ先輩の第2期生である。この方は重光とは対照的に終始軍拡路線を推進する立場をとったそうだ。
重光・豊田より先に紹介すべき人、二人の先輩で海軍大将となった堀悌吉(ほり ていきち 旧制杵築中学第1期生)がいる。時の海軍はエリート集団といわれたが、その海軍きっての秀才・逸材といわれた。山本五十六とは海軍同期で開戦前当時海軍では艦隊を増強すべしという勢力と開戦を回避するためにも英・米が提案する軍備縮小条約を受け入れるべきだとする勢力に二分されていた。堀は条約派の先頭に立って和平を唱えた。結局艦隊派が勝利しこののち堀は予備役にまわされた(失脚)といわれるが、この処置に山本は艦隊ひとつ失う以上の海軍自体の大きな損失であり大いに落胆したといわれている。(文芸春秋8月号より)
重光葵が終戦の日の心境を詠んだ (※意味が分かり解説できる方は教えてください)
戦破一年回顧新
進乎玉砕退生民
山川焼土採狼迫
聖断巍然泣万人
『竹光君、日本が負けたことを厳粛に受け止めなければいけない。そして、これから新しい国家建設に邁進しなければならないよ』と語りかけたという。
日本には外交がない、政治はアメリカの言いなりだと揶揄され、自暴自棄になった感のある日本。時代が違うとはいえ重光葵が一層輝いて見えるのは何故だろうか。決してあの時代がよかったわけではないが、重光がいう新しい国家の建設ができたであろうか。
戦後重光は英米からはリストに挙げられることはなかったが、名簿締切期限ぎりぎりにソ連からA級戦犯として指名された。これには以前重光が外交官時代今の中ロ国境での紛争処理をめぐりソ連が重光に対して個人的な私怨があったとされる。A級戦犯として服役後釈放され再び外相となり、国際連合に加入する際に日本を代表して演説し、先勝国からも拍手喝采を浴びたといわれる。重光の人物像や戦前・戦中における和平への思いや行動は連合国側も十分に認めており、A級戦犯にしたこと自体も間違っていたとの認識はあったといわれている。
戦後教育を受けた我々世代、歴史教育では明治期までは何となく時系列に日本の歴史を学んだが、この60年前の昭和の激動期については、ほとんど学んだ記憶がない。『戦争は絶対にしてはならないもの』で『原爆に見られるような悲惨さしかもたらさないもの』『憲法で不戦を規定している』と教えられた。
60余年前、旧制中学出身のエリートであった方々が昭和の正に激動期にこの国の舵を右に左に取りながら命がけで生きていた。信念・理念に従い生きていたことは忘れまい。
不戦の誓い 暑い夏がやってきた。
○文中、大先輩の方々の敬称を略させていただいたこと。記述の内容に誤り・史実と異なる場合はお許しいただきたい。
○題字杵築の文字は110周年記念のために作られたものを啓発の意味から掲載させていただいた。関係者の方のご理解をいただきたい。
●おしらせ
8月4日(土)15:30よりNHK総合で『心に響け いのちの授業』が再放送されることが、山田泉さんご本人からこのブログ宛におしらせいただきました。是非ご覧下さい。夏の巻で参加者の方々に感想を伺います。(・・・え?それなら欠席する、それは冗談です。)ご本人からわざわざ書き込みいただいたこと心から感謝いたします。
『私の人生、竹光秀正』(たけみつ ひでまさ)という自叙伝を読んだ。この方は戦前新聞記者から縁あって当時の上海公使重光葵の秘書官となり終戦直後まで重光に仕えた。日出町出身の旧制杵築中学の大先輩である。戦後は帰郷し農民運動に身を投じ、大分県・日本農業の発展・振興に尽力されたことでも有名な方で、旧制中偉人列伝にも登場する方だ。平成10年8月15日没84歳。自叙伝の前半部分は重光葵の正に手足となって働き、重光に随行した昭和の激動期が克明に語られている。主従の関係性から主観的な部分も多いが、記述から重光葵の人物像が伺い知れる。
重光葵(しげみつ まもる)という人、杵築市八坂小学校区の方なら恐らく小さい頃から家庭で、学校で親や教師から偉大なその人のことをよく聞かされたことだろう。私は同じ杵築でも東小学校区だから重光葵という名前は高校になって初めて知った気がする。
杵築高校校舎の前庭の石碑『志四海』にその名前があった。旧制杵築中学の第3期生であり、戦前東大法科を卒業し、外交官、外務大臣、終戦時の全権特使、A級戦犯、外務大臣、改進党党首・・・と数奇な運命を辿った大先輩である。外交官時代上海で或る式典に臨席した折、今でいうテロ爆破事件に見舞われ、右足を太ももから失い以降は鉄の義足と松葉杖という不自由さを強いられたが、昭和のはじめ正に時代が大きく動いた時期に外交の精通者・トップとして国家の方向性に大きな影響を与えたといわれている。彼の国家感とその思想、持ち前の不倒・不屈、強靭な精神と行動やバランス感覚は終戦後も要職に復帰されたことから分かるように、当時の人々の支持や共感を得ていたことが伺える。
終戦時、天皇と政府の全権として重光外相、大本営代表として陸軍の梅津参謀総長(この方も大分県人)の二人が横浜港に入港した敵艦ミズーリ号艦上で無条件降伏文書に調印したことはつとに有名(重光外相が調印に使用した万年筆は秘書官の竹光氏から直前に拝借したもので現在は安岐町の重光記念館に所蔵)である。戦前・戦中一貫してアジアの民族の独立、自主・自立と和平を唱え、開戦・交戦へ傾斜しようとする周囲に対しても敢然と論陣をはり、軍の大東亜共栄圏構想とは一線を画し、昭和天皇からも厚い信認を受ける中、日本のブレーキ役を担ったといわれている。
あまり知られていないが終戦直後、占領軍のサザーランド参謀長を中心に日本に軍政を敷く(主権を認めず天皇制も排斥するということを意味し、ポツダム宣言を逸脱する内容)ことが連合国側で画策されているという情報を聞きつけるや、そのことは日本の領土分割統治を意味するためそれを絶対阻止しようとして、天皇を中心とした文民統制をマッカーサーに直訴しアメリカの利害も関連してかこの訴えが受け入れられ、その結果現在の日本領土の保全が叶ったといわれている。竹光氏は重光のこうした尽力にもっと光をあてるべきだと述べている。
戦争終結は御前会議において天皇の聖断により決定されたがこれに至るにあたり、政府と軍の代表者の舞台裏でのやりとりが述べられている。最終的には14日の御前会議で聖断が下され、玉音放送が収録され翌日15日に無条件降伏を受け入れたとされている。
当時の御前会議出席者6名の内3名が大分県人であった。阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長。この3名は軍のトップであることから無条件降伏受け入れ反対、本土決戦やむなしという立場をとっていたとされている。重光は当時の東郷外相(重光の後任)や米内海軍大臣、木戸内大臣など宣言受諾派とともに説得工作を重ねて終戦に持ち込んだといわれている。終戦は大分県人の手によって執り行われたといういわれはここにある。
実は豊田副武(とよだ そえむ)軍令部総長も旧制杵築中学出身。重光葵の一つ先輩の第2期生である。この方は重光とは対照的に終始軍拡路線を推進する立場をとったそうだ。
重光・豊田より先に紹介すべき人、二人の先輩で海軍大将となった堀悌吉(ほり ていきち 旧制杵築中学第1期生)がいる。時の海軍はエリート集団といわれたが、その海軍きっての秀才・逸材といわれた。山本五十六とは海軍同期で開戦前当時海軍では艦隊を増強すべしという勢力と開戦を回避するためにも英・米が提案する軍備縮小条約を受け入れるべきだとする勢力に二分されていた。堀は条約派の先頭に立って和平を唱えた。結局艦隊派が勝利しこののち堀は予備役にまわされた(失脚)といわれるが、この処置に山本は艦隊ひとつ失う以上の海軍自体の大きな損失であり大いに落胆したといわれている。(文芸春秋8月号より)
重光葵が終戦の日の心境を詠んだ (※意味が分かり解説できる方は教えてください)
戦破一年回顧新
進乎玉砕退生民
山川焼土採狼迫
聖断巍然泣万人
『竹光君、日本が負けたことを厳粛に受け止めなければいけない。そして、これから新しい国家建設に邁進しなければならないよ』と語りかけたという。
日本には外交がない、政治はアメリカの言いなりだと揶揄され、自暴自棄になった感のある日本。時代が違うとはいえ重光葵が一層輝いて見えるのは何故だろうか。決してあの時代がよかったわけではないが、重光がいう新しい国家の建設ができたであろうか。
戦後重光は英米からはリストに挙げられることはなかったが、名簿締切期限ぎりぎりにソ連からA級戦犯として指名された。これには以前重光が外交官時代今の中ロ国境での紛争処理をめぐりソ連が重光に対して個人的な私怨があったとされる。A級戦犯として服役後釈放され再び外相となり、国際連合に加入する際に日本を代表して演説し、先勝国からも拍手喝采を浴びたといわれる。重光の人物像や戦前・戦中における和平への思いや行動は連合国側も十分に認めており、A級戦犯にしたこと自体も間違っていたとの認識はあったといわれている。
戦後教育を受けた我々世代、歴史教育では明治期までは何となく時系列に日本の歴史を学んだが、この60年前の昭和の激動期については、ほとんど学んだ記憶がない。『戦争は絶対にしてはならないもの』で『原爆に見られるような悲惨さしかもたらさないもの』『憲法で不戦を規定している』と教えられた。
60余年前、旧制中学出身のエリートであった方々が昭和の正に激動期にこの国の舵を右に左に取りながら命がけで生きていた。信念・理念に従い生きていたことは忘れまい。
不戦の誓い 暑い夏がやってきた。
○文中、大先輩の方々の敬称を略させていただいたこと。記述の内容に誤り・史実と異なる場合はお許しいただきたい。
○題字杵築の文字は110周年記念のために作られたものを啓発の意味から掲載させていただいた。関係者の方のご理解をいただきたい。
●おしらせ
8月4日(土)15:30よりNHK総合で『心に響け いのちの授業』が再放送されることが、山田泉さんご本人からこのブログ宛におしらせいただきました。是非ご覧下さい。夏の巻で参加者の方々に感想を伺います。(・・・え?それなら欠席する、それは冗談です。)ご本人からわざわざ書き込みいただいたこと心から感謝いたします。