「安土城に火を放ったのは誰か? ③」

2013-10-21 23:26:58 | うんちく・小ネタ



「お城に火を放つ」という行為が意味するところは?




さて、「安土城に火を放ったのは誰か?」をテーマにした話もこれで3回目です。

前回までに、
明智秀満は、安土城が炎上した時には、全軍を率いて坂本城に帰っていたからシロ。

織田信雄放火説も、典拠となっているフロイスの報告書が、このあたりの記述については極めて信憑性が低い。
信雄は、何かと問題がある人物だけど、安土城放火容疑についてはシロ。

と考えてみました。

通説で語られていた2大容疑者が、どちらもシロになってしまいました。
これじゃ、もうすっかり迷宮入りですね。

・・・・・と、諦めてしまう前に、

ここで少し視点を変えて、安土城炎上について考えてみましょう。


そもそも
「お城に火を放つ」
という行為は、何を意味するのでしょうか?

それについて、『信長公記』に興味深い記述があります。
「本能寺の変」の翌日、安土城内でこんな問答が交わされていました。


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問答! 安土城を焼く VS 焼かない


「本能寺の変」で信長・信忠父子が自害したという知らせは、変の当日、6月2日・巳の刻(午前10時頃)に安土に伝わりました。
安土はパニック状態になり、信長家臣団の中には、屋敷を棄てて美濃や尾張へ逃れてゆく者まで出るほどでした。

そんな中、安土城の留守居を務めていた蒲生賢秀(がもう かたひで)は沈着冷静でした。
賢秀は、安土城に居た信長の側室や子供たちを、自らの居城・日野音羽城へ避難させると決めました。

そして翌3日・未の刻(午後2時頃)。
人足や牛馬の準備を整えた賢秀は、信長の側室たちへ避難を促します。


その時、信長の側室たちは、賢秀に次のように言いました。


とても安土打ち捨て、のかせられ候間、
御天主にこれある金銀・太刀・刀を取り、
火を懸け、罷り退き候へ


(意訳)

安土城を捨てて撤退するからには、
天主にある金銀・太刀・刀を持ち出して、
それから火をかけて立ち退くようにしてください。




これに対し、賢秀は次のように答えました。


信長公、年来、御心を尽され、金銀をちりばめ、天下無双の御屋形作り、
蒲生覚悟として、焼き払ひ、空く赤土となすべき事、冥加なき次第なり。
其の上、金銀・御名物乱取り致すべき事、都鄙の嘲弄、如何が候なり


(意訳)
信長公が、年来お心を尽して、金銀をちりばめて、天下無双の居城を作られたのに、
私ひとりの考えによって焼き払い、空しく焦土としてしまうのは、恐れ多いことであります。
その上さらに、金銀・名物の品々を取り散らかして行ったとあれば、世間のあざけりもいかがなものでしょうか。




双方、正反対の意見を述べています。
しかし、どちらの考えも、
「信長公の名誉を守るためには、安土城をいかにすべきか」
というところに根を発しています。

側室たちは、
「信長公の安土城を守りきれずに退去するなら、せめて敵に蹂躙させないようにしましょう。
信長公の宝物のうち、持ち出せるものは持ち出して、あとは焼き払いましょう。」

という意見。

一方、賢秀は、
「信長公が心を尽して築いた安土城を焼き払うことはできません。
また、あわてて宝物を持ち出す行為も、信長公の名誉を損ねるものです。
安土城は堂々と、無傷で敵に明け渡しましょう」

という意見。

当時の武士や女性たちが、自らの主君の城をどのように思っていたかが伝わってくるエピソードです。
こうした問答の末、賢秀の意見が採られました。

信長の側室や子供たちが退去した安土城は、木村高重が手勢を率いて警備。
天主に蓄えられていた金銀も、そのまま残されました。
そして2日後の6月5日、安土城は、進軍してきた明智光秀の軍勢に無傷で明け渡されました。


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ひっそりと伝わる、安土城の最後の武士たちの伝承


木村高重ら、最後まで安土城に留まっていた武士たちは、城を無傷で明智勢に明け渡すという大任を果たしました。
その後、彼らがどこへ去ったかは定かではありません。
高重は、安土城の百々橋口で明智勢と戦い、戦死したとも伝えられています。
しかし、明け渡しの後に戦闘があったというのも疑問です。



平成17年(2005)10月、私が蒲生郡一帯の城館跡を踏査していた時のことです。
安土城跡の百々橋口から南西へ1.5キロメートルほど離れた浅小井集落の近くで、田んぼの中にこんもりとした森があるのが目にとまりました。


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直感的に、何か歴史のある場所かと思い、森の中へ入ってみましたが、「今宮大明神 天満宮 御旅所」と刻んだ石碑が建つのみでした。


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森から出たところで、散歩で通りがかったおじいさんから、意外なお話を聞くことができました。
この森は、「本能寺の変後、安土城から落ち延びてきた武士たちが自刃した地」と、この地域で伝えられているそうです。
森の中には、その説明板も建っていると聞いて、再び分け入ってみましたが、朽ちてしまったのか確認することができませんでした。
この伝承が、史実を伝えるものだとすれば、この森で自刃したのは、木村高重の配下で最後まで安土城を守りづづけた武士たちだったのでしょう。


2

(左が武士たちが自刃したと伝わる森。正面奥の山が安土城址)




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