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6月23日の事

2008-06-27 | Weblog
随分過ぎたからもういいか。ある方からおしえてもらった記事です。
以下引用

6月23日当時、日本軍はほぼ壊滅状態にありましたが、まだ武器を所持した兵は存在していました。その後も戦闘は長いあいだ続きました。たしかに日本軍による組織的な戦闘は縮小こそしましたが、戦争は継続しました。
問題は武器を持たない民間人、とくに沖縄の人びとです。
もしも、最高責任者の牛島司令官が、司令官の役割として、自らの責任で米軍に「降伏」して「戦闘の終結を命令」していたならば、その後の沖縄の悲劇は避けられたかも知れません。しかし、この牛島司令官には民の命を救うという気持ちはなかったのです。闘うための武器もなく、米軍に降伏して「生きる」ことを拒むよう強要され、多くの生命が6月23日以降も奪われ続けたのでした。戦闘を行えない民間人に対しても米軍の組織的な攻撃が終結せず、また「集団自決」という名の虐殺、沖縄の人びとに対する「スパイ」を名目とした虐殺が続きました。
なぜ敗北が明らかになった後で、恐ろしいまでの悲劇がやまなかったかの秘密こそが「慰霊の日」の6月23日にあります。
牛島司令官は「石や木を持って最後の一人になるまで戦え」と命令を発し6月23日午前4時30分、摩文仁の軍司令部壕において、辞世の歌を詠じつつ「日本古武士の礼法に則って」切腹して果てたのでした。
牛島司令官の訣別の辞。
「……最後の決闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国必勝とを衷心より祈念しつつ、全員あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。」
辞世の歌。
「矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らん」
「秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ 」。
6月23日。沖縄県は条例でその日を「慰霊の日」と定め、公休日としています。この日は「命」を尊ぶ平和の日ではなく、玉砕命令が出され降伏が禁じられた「命」を否定された日です。兵はもちろん武器もない民にも白旗を掲げて生きのびることが禁じられた日です。そして沖縄戦の最高責任者が自らの死でそれを示したのでした。
ですから、実際にはいわば「沖縄戦のA級戦犯の慰霊を行っている」日になっています。それが6月23日です。悲しく哀れな一日です。


その後、
8.31日野原岳洞窟司令部で「軍旗」、「御真影」「勅語」を 大本営の指示で焼いています。
10.1.現地招集兵が解除され家に帰されます。
9.7.嘉手納で正式降伏文書調印式を終えます。日本陸軍先島師団長納見敏郎らが調印します。
9.24.米国海兵隊2,000人を乗せたLSTが宮古に進駐し 日本軍の武装解除 

10.20.復員船が動き始め
21年2月まで宮古の将兵が復員するまで宮古では・・・12.13.納見敏郎中将が自決したり・・・します。


でも今でも米軍基地があり、人骨は散在し、不発弾の処理が行われています。

あなた達が訪れたガマの中でもしかしたら骨を踏んでいたかもしれません。

生存された方の多くが、身体にいくつもの戦傷を持ち、
ある方達は、何も語れず
ある方達は、語りにくいことなのに、語れば自分が苦しむ事なのに
それでも伝えようとされている方もいて、

8月どう、向かい合う? 仲間達