村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

ふじわらの さねかた

2015-12-21 23:58:25 | 中古三十六歌仙
鍼治療のあと整形外科でリハビリ
終わるとそろそろお昼
いつもの喫茶店で
サラダとトースト
それに珈琲

帰りは家まで歩いて帰った
足の調子が良いっという事か
この所びっしり治療している
そのお陰で
少しずつ良くなっている
と思いたい


さて
中古三十六歌仙の一人

藤原実方
ふじわら の さねかた
平安時代中期の貴族・歌人
左大臣・藤原師尹の孫、
侍従・藤原定時の子

実方は光源氏のモデルの一人とも言われるそうだ
清少納言とも親しく多数の女性と交際したらしい

百人一首では51番歌
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを


一条天皇の面前で
藤原行成と和歌について口論になり、
怒った実方が
行成の冠を奪って投げ捨てる
天皇の怒りを買い、
「歌枕を見てまいれ」と
左遷を命じられた
とする逸話や
スズメへ転生したというのもある

写真は庭の椿
いろいろな椿が満開だ


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あかぞめえもん

2015-12-07 23:11:11 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙の一人

赤染衛門
あかぞめえもん、
956?~1041以後
平安時代中期の女流歌人。
大隅守・赤染時用の娘。
女房三十六歌仙。

実父は平兼盛との説もある。
藤原道長の正妻である源倫子と
その娘の藤原彰子に仕えており、
紫式部・和泉式部・清少納言・伊勢大輔等とも親交があった。

赤染衛門は
平安時代中期において活躍した女流歌人として、
和泉式部と並び称されている。
その歌風は、
和泉式部の情熱的な歌風と比較して、
穏健且つ典雅なる歌風と評価されている。
《ウィキペディアより》

今日は
茶会を一緒にする松風庵様と
お弟子様がお見えになった
棚の点前だが道具を取り合わせて
薄茶の稽古をした
心配だったので
これで安心したとのこと
何でも準備だんどりが重要
まずはよかった


写真は
昨日の茶事のクマショウさんち
夏ミカンと桜の大きな樹が目印だ
さて
明日も茶事だ



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おおえのまさひら

2015-11-28 22:26:50 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙の一人

大江匡衡オオエノマサヒラ
952~1012
平安時代中期の儒者・歌人。
中納言・大江維時の孫で、
左京大夫・大江重光の子。
妻は赤染衛門(赤染時用の娘)


官位は正四位下・式部大輔。
村上天皇の代である天暦6年(952年)に出生。
大江氏(江家)は大江音人を祖と
し菅原氏(菅家)と並ぶ学問の家柄で、

菅原道真の失脚後に飛躍し、
「聖代」とされている村上朝には
匡衡の祖父にあたる維時や
一族の大江朝綱らが
儒家の中心的存在となる。
父の重光は対策に及第している文人官僚。

寛和元年(985年)襲撃され左手指(どの指かは不明)を切断される。
犯人は藤原保輔とされる。

東宮学士や文章博士を経て、
正四位下・式部大輔に至る。
匡衡は一条天皇期に文人として活躍し、
藤原道長・藤原行成・藤原公任などと交流があり、
時折彼らの表や願文、奏上などの文章を代作し、
名儒と称された。
また地方官としても善政の誉れ高く、
尾張国の国司としての在任中は学校院を設立し、

地域の教育の向上に努めた。
公卿としての地位を望んだが果たせずに終わった。
《ウィキペディアより》




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おおなかとみ の すけちか

2015-11-03 23:11:12 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙の一人

大中臣輔親
おおなかとみ の すけちか
954~1038
平安時代中期の貴族・歌人。
父は三十六歌仙の大中臣能宣。
官位は正三位・祭主・神祇伯。
号は四条または岩出。

妻の蔵命婦は
藤原道長の五男・藤原教通の乳母、
輔親も乳母父として仕えた。
その縁で、娘の伊勢大輔が藤原彰子に
仕えることになったと思われる。
ただし、蔵命婦が伊勢大輔の母親であるか
どうかは不明。
とウィキペディアにあった


アマゾンに頼んだ本が着いた
源氏の茶会をするのだが
何か役立つかと注文した
源氏の茶会などと言ってみたものの
思ったより難しい
平安時代と茶の湯の侘びとは
ちょっと違うのだ
でもどうそれを融合させるか
楽しみでもあるが
難しい

ラインを始めた
ミーさんにスマホを渡して
エイヤーっとラインをつくってもらったのだが
なんと住所録に入ってラインをしている人すべてに
「ラインを始めました」が送られるらしい
知らなかった
無知だった
大丈夫かしらね
大して親しくも無い方にも
送ってしまって
もう遅いけど
まあいいか

でもお陰様でたくさんメールが来た
最近はめっきりご無沙汰のお友達から何通か
すぐ返信が来、年下の親戚からも
連絡がすぐあり
飼い犬の写真も添付され
嬉しくもあるが
どうなることか
まあ やって見よう

ライン始めました




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みちつなきょうはは

2015-11-02 20:49:36 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙のひとり
道綱卿母

藤原道綱母ふじわらのみちつな の はは
936~995
平安時代中期の歌人。
藤原倫寧の娘。
『尊卑分脈』に日本で最も美しい女性三人のうちの一人であると
書かれている
藤原兼家の妻の一人となり
一子道綱を儲けた。

小倉百人一首では
右大将道綱母とされている

小倉百人一首・53番
なげきつつ
ひとりぬる夜の あくるまは
いかに久しき
ものとかはしる






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ふじわらのながとう

2015-10-20 23:32:41 | 中古三十六歌仙
いちおう短歌を詠んでいるので
三十六歌仙、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙は
覚えないと
と思っている 
のだが


心憂き年にもあるかな二十日あまり九日といふに春の暮れぬる  藤原長能

中古三十六歌仙の1人
藤原長能 フジワラノナガトウ ナガヨシ
945~1009
平安時代中期の歌人。
藤原北家長良流、伊勢守・藤原倫寧の子。
母は源認の娘。
姉に藤原道綱母。
子に実正。
姪に菅原孝標女がいる。
官位は従五位上・伊賀守。

花山院歌壇で活躍し、
勅撰和歌集『拾遺和歌集』の撰定に関与したと考えられている。
門弟である能因法師が撰した『玄々集』には
最も多い10首が入集している。
『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に51首が入集。
家集に『長能集』がある。
《ウィキペディアより》

写真は
従姉のガゼータさんからの母のお見舞い
成城アルプスのパイだ
ちょっと前にひどくお腹がすいたが
誘惑されないように
見えないところに隠した
ガゼータさんは以前より痩せたとかで
すっきりしている
食事をいつもの半分の量にしているとのこと
できる かな
無理 無理



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たかとう

2015-09-21 23:41:09 | 中古三十六歌仙
土曜日に帝国ホテルの虎屋に行った
写真はその時撮った



中古三十六歌仙のひとり
藤原高遠
ふじわらのたかとう

949~1013
享年65
平安時代の歌人。
大弐高遠ともいう。
藤原斉敏と播磨守藤原尹文の娘の子。
弟に実資,
従兄弟に佐理,公任がいる。
中古三十六歌仙のひとり。
その伝によると極官は正三位大宰大弐。
笛の名手でもあり
『枕草子』などに
一条天皇の笛の師であったと記されている。
『拾遺集』以下の勅撰集に27首入集。
家集に『大弐高遠集』があり,
花山法皇や公任,宮廷女房との贈答歌はじめ
屏風歌,
月次歌,
『長恨歌』や『上陽白髪人』の詩句を題にした歌,
大宰府往復の折の長歌など,
多種多様な歌が収められている。
菊の宴の折,
10人の女房達が次々と詠みかけたのに対し,
即座に各々に返歌するなど
非凡な歌才を持つ風流士であった。
《朝日日本歴史人物事典より》






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すがわらのすけあき

2015-09-20 23:28:35 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙のひとり

菅原輔昭
すがわらのすけあき
平安時代中期の歌人

父は菅原文時で菅原道真の孫
父 文時フミトキ(899~981))
弟 元真(923-1008)
父と弟の生没年はわかるが本人は不明

まだしらぬ古郷人フルサトビトは
けふまでに
来こむとたのめし
我を待つらむ  (新古909)



用事のない日曜日
書かねばと思いつつ日を過ぐる
書きあぐねていた手紙を三通書いた
手紙はタイミングが重要
とは
知っている
知っているが書けない
書きたくない
あと二通残っているので
封筒だけ書いておいた

手紙に限らず
やらねばならぬ のだが
出来ない したくない

着物もおっくう
出かけるのもおっくう
起きるのも 面倒かも
まあ
眠るだけ眠ったら
あとは起きようか

写真は昨日の昼食
出かければ楽しいことがある




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そたん

2015-09-18 23:04:09 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙の一人
曽禰 好忠
そね の よしただ

生没年不詳
平安時代中期の歌人。
出自については未詳。
官位は六位・丹後掾。
長く丹後掾を務めたことから
曾丹後(そたんご)とも
曾丹(そたん)とも称された。

小倉百人一首 46番
由良の門を
渡る舟人
梶を絶え 
行方も知らぬ 
恋の通かな



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あんぽうほうし

2015-09-05 22:43:36 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙の一人。

安法(あんぽう、生没年不詳)は、
平安時代中期の僧・歌人。
俗名は源趁(みなもとのしたごう)。
嵯峨源氏で左大臣・源融とおるの曾孫にあたる。
内蔵頭・源適はじめの六男。
母は大中臣安則の娘。

父の適(はじめ)の頃から家運が衰え、
出家して曾祖父の融が造営した六条河原院に住んだ。
962年(応和2年)「庚申河原院歌合」を催している。
源順・清原元輔・平兼盛・恵慶など多くの歌人と交流した。
980年代天王寺別当を務めたという。

『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に12首が入集[1]。
家集に『安法法師集』がある。
娘(安法法師女)も勅撰歌人

《ウィキペディアより》


今週は忙しかったが
何があっても土曜日はやってくる
気分的にひとやすみしよう

溜まっていたテレビの録画したものを見る
日曜美術館などお堅いものもとってあるが
一番気楽なのは
韓流のドラマ

録画してあるのは
弁護士の条件
星から来たあなた
運命のように君を愛してる
弁護士の条件

Keikoちゃんから教えてもらって良いものだけ録画し
いざ見て面白く無いものは即 削除する
見れば気分転換できる
寝転んで見ていたら眠ってしまった
そこへピンポーンがあり 出ると
森金さんだった
近所の呉服屋さんに用事があったという
茶の用事以外で
お弟子様と会うこともよくあるが

お弟子様は同じ趣味の
長く付き合う友人だ

私めは常日頃から
着るものも緊張感なく
態度も変わらずのつもり
その方が楽ちんだし
楽しいから
一緒に遊んで修行するのだ


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えぎょうほうし

2015-08-31 23:58:41 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙のひとり
恵慶えぎょう法師

小倉百人一首47番
八重むぐら 
しげれる宿の 
さびしきに 
人こそ見えね 
秋は来にけり


平安時代中期の日本の僧、歌人。
生没年不明
出自・経歴は不詳。
播磨国分寺の講師をつとめ、
国分寺へ下向する際に天台座主
尋禅から歌を送られた。
歌人としては『拾遺和歌集』に初出する。
962年(応和2年)ごろより歌合などで活動し、
986年花山院の熊野行幸に供奉した記録がある。
また、大中臣能宣・紀時文・清原元輔など
中級の公家歌人と交流していた。
《ウィキペディアより》


お陰様で今日
無事に母が退院した
病院の中にも社会がある
患者同士と看護師さんや先生との
気持ちの交流は
大きな意味で茶の心だ
母と同室の方たちとお友達になった
お互い優しい気持ちで会話する
相手を思いやって
行動する
それも茶だ
和敬清寂だ
いつも堂々としていたいものだが
病気に関してはおどおどヒヤヒヤ
わからない事ばかり
不安の塊になる
でもそれが普通だ
そのうち慣れる
なんでも慣れるから



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ぞうきほうし

2015-08-18 22:30:09 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙の一人
増基(ぞうき、生没年不詳)

平安時代の僧・歌人。
増基法師と
称されることもある。
号は
庵主若しくは廬主。

1.『大和物語』比叡にすむ、院の殿上もする法師になむありける」
延喜~延長(901 - 931)年間の人とする説

2.10世紀後半、天暦(947 - 957年)から長徳(995 - 999年)の間を生き、
比叡山にて草庵生活を送っていた、
一条天皇の時代頃の人物とする説

3.能因法師らと同じころ、
11世紀前半の人とする説

がそれぞれそうであるが、判然としない。
とのこと

初めて知ったが
名前だけでも覚えようか

120余首の和歌を載せる自撰家集『増基法師集』は
別名を「庵主(いほぬし)」といい、
熊野や遠江国を旅したことが記されている。
旅の風物を無常観とともに描いた詞書は
後世の紀行文の先駆をなす。《ウィキペディア》

これは
「百代の過客」にも
「いほぬし」としてのっていた











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ふじわらの さだより

2015-08-15 21:07:35 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙の一人
藤原定頼

藤原 定頼(995-1045)
(ふじわら の さだより)
藤原公任の長男
小倉百人一首では権中納言定頼。
64番 朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木

ウィキペディアには
少し軽薄な性格であったようで、
小式部内侍にやり込められた逸話が残っている。
相模や大弐三位などと関係を持った。
音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたという。

また
一条天皇の大堰川行幸の
お供で和歌を詠んだときのこと、
父の公任も同行していて
定頼の歌の出来映えを心配していた。
すると定頼の番になり
読み手が上の句を
「水もなく見え渡るかな大堰川」と読み始めた。
満々たる大堰川を前にして
「水もなく」とはどういうつもりだ、
何という不調法な、
と公任が思っていると
「峰の紅葉は雨と降れども」と
朗々と下の句を詠み上げた。
そのあまりの見事さに、
公任もうれしさをこらえきれず、
思わず会心の笑みを漏らしたという
(『西行上人談抄』)。







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きよはらのふかやぶ

2015-08-09 22:49:12 | 中古三十六歌仙
中古三十六歌仙の一人。
清原深養父
きよはら の ふかやぶ

生没年不詳
父は豊前介・清原房則
孫に清原元輔
曾孫に清少納言
藤原兼輔・紀貫之・凡河内躬恒などの歌人と交流があった
晩年は洛北・岩倉に補陀落寺を建立し、隠棲した
琴の名手

百人一首36番 
夏の夜は 
まだ宵ながら 
明けぬるを 
雲のいづくに 
月宿るらむ   (『古今和歌集』夏166)

今の季節にふさわしい歌だ
母の入院の同じ部屋に
肺がんの女性がいる
抗がん剤と放射線で治療している最中だが
自分の病気をまだ受け入れられず
副作用で食事がとれない事を
悲しがっていた
一週間も顔を合わせているので
今日はそっとお話しをした
「頑張らなくともよいですよ
それから
泣きたいときに泣きなさい
きっと楽になるから」

同じことを
自分にも言ってみよう
きっと 楽になる



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ありわらの もとかた

2015-08-08 22:23:29 | 中古三十六歌仙

中古三十六歌仙の一人
在原 元方
ありわらのもとかた
生没年不詳
在原業平の孫
筑前守・在原棟梁の子。
大納言・藤原国経の養子
官位は正五位下・美作守。

口ずさむ古今集
春の元方の有名な歌に


ふるとしに春たちける日よめる

年のうちに春は来にけり
ひととせを
去年コゾとや言はむ
今年とや言はむ   








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