哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

計画しない計画行動

2007年09月08日 | x欲望はなぜあるのか

Bouguereau_after_the_bath 計画行動をする人は、いかにも理知的に見えて印象が強い。特に成功した場合、鮮やかな印象を残す。自分が成功した場合、特にそうです。それで、他人の場合も自分の場合も、そういう理詰めの行動が目立ち、印象深く記憶する。すると私たちはこればかりをしているように思える。しかし実際、計画行動は人間のいろいろな活動の中のほんの一部です。

行動を計画する場合、人間は、脳内で予測シミュレーションを運転してそれを評価して目的を作る場合が多い。しかしいったん目的を立ててしまうと、そのさきははっきりした仮想運動が作られずに、目の前の出来事に影響されながら過去の学習などで習熟した習慣的な行動が実行されて事態が進んでいくことがふつうです。

たとえば、計画行動をしている途中で、目の前の出来事に影響されてすこしずつ気が変わっていく。カレーライスを食べにレストランに入っても、メニューを見てスペシャルチキンライスにしてしまう。そのうえ、店員に「大盛りにしますか?」と聞かれると、どうしても大盛りを食べたくなってしまう。店に入る前に、本当に、大盛りスペシャルチキンライスを食べたいという欲望があったのか? とてもあやしい。それなのに、人間は、自分は大盛りスペシャルチキンライスを食べたいという欲望をはっきり持って、レストランに行ってそれを食べたのだ、と記憶するのですね。現代哲学でも、このような言語化により欲望、信念が形成される、という理論があります(一九八七年  ダニエル・デネット『ブレーンストーム』)。

拝読ブログ:イチジク、植樹

拝読ブログ:チキンライス

コメント

報酬の構造を設定

2007年09月07日 | x欲望はなぜあるのか

私たち人間の場合、自分の運動の結果予想を脳内でシミュレーションすることで運動の計画が可能になる。過去の経験の記憶を参照して、類推し、想像し、いろいろな行動のシミュレーションを行って、行動の結果を想像する。他人の目に見える客観的な自分の行動の結果を予想できる。私たちは、いつも、想定の運動を実行した場合の自分の身体の状態変化から社会的立場の変化まで、さまざまな観点から結果を予想しています。

その場合の自分の感情の変化も想像する。その行動をしたくなる衝動はどれほど強いだろうか? 幸福感があるだろうか? 敗北感に傷ついているだろうか? その衝動の予測、幸福感、勝利感、不幸感、敗北感などの想像を比較して、種々のシミュレーションを評価する。なりたい自分、というシミュレーションが選ばれる。それが自分の「欲望」であり、自分の「目的」になるわけです。

それからその目的を達成できそうな行動を実行する。目的を追求する計画行動です。自分の欲望、期待、目的、という錯覚を作り出して、それを達成するために行動する自分、というシミュレーションを脳の報酬回路に結び付けて自分を駆り立てるための報酬の構造を設定する。そこからさきは、脳内に設定された報酬構造にしたがって、ドーパミンアドレナリンなど神経伝達物質が分泌され、反射が起こり、学習されたシミュレーションに沿って連鎖的自動的に運動が進んでいく。

動物は、脳の中で自動的に運動形成をして、それを筋肉で実行する。それだけです。しかし人間の場合は、自分の脳内の仮想運動を感じて、それを自分の衝動と感じ、それがある目的から計画された自分の行動計画であることを思い出して、それを自分の意図と感じます。また、形成された仮想運動に沿った筋肉の運動が起こることを感じて、私たちは、自分という人間がそう動きたかったのだ、それが自分を動かす衝動だ、と思う。そして、自分はそう動こうと思ってそう動いた、という記憶を作って保存する。この仕組みを使って、私たち人間は自分が計画行動をした、つまり欲望を満たすために目的を定めて行動の意思を持ったから身体が動いた、と思い込んでいるわけです。

拝読ブログ:セロトニンと衝動性、線条体を通る長期短期報酬予測システムとの関係

拝読ブログ:なぜドーパミンが出ない所で仕事を探すんだろ?

コメント

猿は人生設計できない

2007年09月06日 | x欲望はなぜあるのか

Bouguereau__a_young_girl_defending_herse 「人間というものは、何かこうなったらいいな、という欲望ないし意図を持って、それを目的として実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」という人間の理論モデルが作れる。他人を眺めて「あいつは何が欲しいのだろうか? 金か、名誉か?」と憶測する。それで、彼がこれからどう出てくるかを予測できる。それで、たいていは成功する。実生活では、それでよいのです。

ここで、大事なことは、力や欲望や意思、という他人の行動の内部要因を感知する錯覚は、言葉で言い表される以前に、私たちは直感で感じる、ということです。私たちはいつも、言葉を使って、力や欲望や意思、について語り合いますが、言葉は直感にもとづいて使われている。そこで直感を無視して、言葉だけにとらわれて哲学を進めると混乱が起きる。力や欲望や意思、というものは言葉以前の直感に根付いている錯覚だということを、忘れてはいけません。

このことは、言語以前の幼児の行動実験でも明らかにされています。たとえば、生後五ヶ月の幼児は、繰り返し何度も、おもちゃのクマさんを選んで掴み取る人の手をみると、その次にも、その手は、おもちゃのトラックなどではなくクマさんを掴み取ると期待していることが観察される(二〇〇七年 スペアペン、スペルク『どの人形でも?十二ヵ月児の目標物理解)。

他人の行動に対してこういう見方をしているうちに、人間は自分のことも同じような理論モデルで見るようになった。つまり、他人に乗り移った気持ちで、他人の視線で自分の身体を外から眺めると、自分が他の人間を見る場合と同じように見えるはずだ、と思う。実際、鏡で見る自分の身体は、他人が見る場合と同じだと感じます。自分の行動に関しても、私たちは、こう見ている。「自分というものは、何かこうなったらいいな、という目的を持って、それを実現する行動を計画して実行するシステムなのだ」と、自分を決め付ける。

「自分というものは、お金持ちになりたい、という欲望を持っているはずだ」とか、「自分というものは、お金より、出世して人に尊敬されたい、と思っているのだ」とか「心豊かに平凡な人生を送りたい、と思っているのだ」とか決め付けて、自分というモデルを作っていくわけです。

この自分モデルを使うと、計画行動、つまり、目的を思い描いてその実現のための行動を計画する、という行為ができるようになる。これは人間の特徴です。サルなどは、他人から見た自分、というモデルがうまく作れないので、しっかりした計画行動も人生設計(猿生設計?)もできません。

拝読ブログ:腕時計を買った。

拝読ブログ:結婚

コメント

世の中の理論モデル

2007年09月05日 | x欲望はなぜあるのか

実用的ということと、基本原理が説明できるということとは、違う。だれもが日常的に使っている世の中の実用的な知識というものは、適当によく当る推測を作れればよいのであって、なにも基本原理が説明できる必要はない。たとえば、潮の満ち引きの時間と量の関係は、ニュートン力学以前の時代から正確に予測できていて、河川管理や港湾作業などに使われていました。ニュートン力学が見事にその基本原理(月の引力の影響)を説明した後でも、予測精度はすこしも上がらなかった(二〇〇〇年 ロバート・クミンズ{どう働くか?}対{法則は何か?}』)。私たち生活人が知りたいのは、実用的な精度の良い予測方法であって、基本原理の説明ではない。そのため、実用的な程度に予測精度がよい理論モデルを手に入れると、それが錯覚にもとづく間違ったものであっても、私たちはもうそれで、基本原理が分かっているような気になってしまうのです。

物事の動きや変化に関するこういう錯覚は、人間の生存に有利です。運動変化する物体の内部に力や欲望や意思がある、という理論モデルを作ってそれを使うと、世の中の物質や動物や他人の行動を、だいたいはうまく予測できます。それらの大雑把な法則を学習すれば、実用的な立ち居振る舞い、人付き合い、処世術、政治、経済から、民間療法、実用工学、実用物理学や実用心理学、実用社会学、など生活に必要なすべてがつくれる。自分の周りの人間がこれからどう動いていくか、の予測モデルが作れるわけです。

拝読ブログ:進化心理学の本、目からウコロ()

拝読ブログ:民間療法で病気が「治る」、本当の理由

コメント

脳のベイズネットワーク

2007年09月04日 | x欲望はなぜあるのか

Bougereauvenus この世界は物質の法則(自然法則)で動いている。物質の法則は、まず、物理学の研究対象です。物質現象の単位となる一つ一つの現象は、ニュートン力学量子力学相対性原理など、比較的に簡単な方程式で表現できます。しかし、私たちが日常的に感知する物質は、生物、鉱物、気象などの巨視的な現象です。これらは無数の微視的な粒子の相互作用によってできている現象ばかりですから、個々の粒子間の作用を逐一、詳細に記述していくと、あっという間に、数億、数兆の変数を持った連立方程式になる。とても「Aが起こるとBが起こる」というような単純な法則の羅列では表現できない。超巨大なスーパーコンピュータでも、一分後の変化を予測する計算に何時間もかかってしまう。しかし、人間が,身の回りの現象を効率よく記憶しそれを想起して、これからの変化をすばやく予測するには、正確でなくても良いから現実的に感じることができる錯覚の法則があれば良いのです。

「頬に傷跡がある男は強暴だ」とか「傘を持って歩いている人が多いときは、もうすぐ雨が降る」というように世界の法則を覚えておけば、うまくいく。どれも確定的な法則ではなくて、確率的な法則です。まあ、よく当たる、という程度の法則です。実人生では、「だいたいはそうなるだろう」と、錯覚でもよいから、いつも感知できるような覚えやすい単純な法則として捉えることが実用的です。実際、子供は五歳くらいから、「こういう場合、こうなる」といういわゆる因果法則(実用理論)の形で知識をためていくようになる。発達心理学の研究でこの過程を記録していったところ、条件付確率の法則(ベイズネットワーク)の通りに学習していくことが分かりました(二〇〇四年 アリソン・ゴプニック、ローラ・シュルツ『幼児期における理論形成のメカニズム』)。つまり、人間の脳には、経験から法則を推定する最適推算機構が、生まれつきインストールされているらしい。人間の脳は、実用に最適な設計に進化しているわけです。

拝読ブログ:不確実性の中での意思決定 - ベイズ推定

拝読ブログ:突然の雨

コメント