座間コミニティー

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◆しかしマリヤは、

2017年01月27日 17時02分05秒 | 聖書
これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(ルカ二・一九)
ここに、この祝福された女性の人格の三つの働きが記されている。彼女の記憶、彼女はこれらすべてのことを覚えていた。彼女の愛情、彼女はそれらのことを心に納めていた。彼女の知性、彼女はそれらのことを思い巡らしていた。このように、彼女の記憶、愛情、知性のすべてが、彼女が聞いたことのために働いた。
愛する友よ。あなたの主について聞いたことを覚えよ。また主があなたのためになされたことを覚えよ。あなたの心をマナを入れる金のつぼにし、過ぎ去った日々に食した天来のパンの思い出をそこに蓄えよ。キリストについて感じたこと、知ること、あるいは信じていることの一切を、あなたの記憶の中に蓄え、深い愛情をもってとこしえに主を抱け。あなたの主のご人格を愛せよ。あなたの心の石膏のつぼを、たとい壊れていてももって来い。そしてあなたの愛情の貴重な香油を御足に注げ。主についてあなたの知性を働かせよ。あなたの読んだものを黙想せよ。表面だけの意味を考えるところにとどまらず、深みに入れ。水面を翼でかすめるつばめのようではなく、海底の最も深い所にもぐる魚のようであれ。あなたの主と共にいよ。主を、一夜の宿を共にする旅人のように扱うのではなく、しいて引き止めて、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と告げよ。主にすがれ。そして放してはならない。
冒頭の聖句の「思い巡らす」の語源は、「重さを量る」との意味である。判断のはかりを用意せよ。おお、しかし主イエスを量ることのできるはかりがどこにあろうか。「見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。」だれが主を取り上げることができようか。「(主は)山をてんびんで量り……。」私たちはどのようなはかりで主を量るのであろうか。
ともあれ、もしあなたの知性で悟り得なければ、あなたの愛情によって自らのものとせよ。そしてもしあなたの霊が理性の手で主イエスをとらえることができなければ、愛情の両腕で主を抱きかかえよ。
 
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「金銭を愛する生活をしてはいけません。

2017年01月27日 17時01分09秒 | 聖書


いま、持っているもので満足しなさい『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」(ヘブル13:5)

人は欲望を満たそうとすると、ますます欲深くなり、どこまでも底無しだ。
富を持つ人ほど満足しない。
更に求め、幾ら得ても、もうこれで良しという事がない。

これは貪欲という罪だ。決して満たされる事がない。
そして、貪欲は、無いものばかりを数えるようになる。
無いものに目を向け、ますます不平不満に陥る。

あれが無いこれも無い。あれもこれも思うようにならない。
惨めで欲求不満、口を開くと愚痴と不平で、心荒んでいる。
こうなると祝福のかけらも見えない。自分で恵みを閉め出している。暗闇の中だ。

目を転じて上を見上げ、今現在、その場所で、神を認めることだ。
与えられているものに目を留め、恵みを数えて、感謝を献げよう。

悪循環が断ち切られる。不平不満から恵みの中に入れられる。視点が変えられる。
何の感謝もなく、当り前に思っているが、それらは決して当然ではない。

神からの尊い賜物だ。
感謝を始める時、当り前の一つ一つのものが、実は神からの愛の素晴らしい贈り物である事に、目が開かれて来る。

そして神が見えて、溢れる恵みが見えて来る。恵みは十分であることがわかる。
神がどんなに良くして下さっているかが見えて来る。

状況と自分を見ている目を、神を見上げることに転じてみよう。
必ず恵みが見えて来る。
----------------------
自分が頼っているものに依存して行く。お金、体力、名誉だろうか。
私達はすぐに虚しい偶像に目を留め、ひかれて行く者だ。
だからこそ、神様からの恵みをいつも忘れてはいけない。


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おはようございます。

2017年01月27日 07時20分36秒 | 日記

今日も1日、感謝感動の一日と隣人の平和と愛がある一日ありがとうございます。

合掌 大西

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今日の聖人の記念日

2017年01月27日 07時19分40秒 | キリスト教

聖アンジェラ・メリチおとめ

1474年-1540年

 アンジェラは、北イタリアの信仰深い家庭に生まれた。幼いころから、祈りと黙想に熱心に励んだ。聖フランシスコの第3会に入り、普通の生活をしながら内面的には修道者のような生き方を続けた。彼女は、ブレシア市の子どもたちの信仰教育の低さを痛切に感じ、同志を集めて彼らを教育する会の計画を立てた。彼女の活動は多くの人々に影響を与え、貴族や神学者の霊的支えともなった。

 1535年に子女の信仰および道徳生活の教育を目的とする会を創立した。アンジェラは会の保護者として、ドイツのケルンで有名であった聖ウルスラを選び、その会を 「ウルスラ会」 とした。そのころまでの女子修道会は観想生活が主だったが、アンジェラが考えた会は、外に出るという革命的なものであり、女子教育のための最初の修道会となった。

 彼女の死後、会はミラノ司教 カロロ・ボロメオ(11月4日 参照) によって正式に組織化され、アンジェラ会とウルスラ会に分かれた。聖ウルスラ修道会は1936年に来日し、仙台市、東京などで、学校教育や福祉活動などを行ない、社会に貢献している。

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◆健康な苦しみ方

2017年01月27日 07時18分07秒 | 聖書

わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。
その叱責をいとうな。
父がかわいがる子をしかるように、
主は愛する者をしかる。       (箴言三11―12)
健康な体は、痛みを知っています。私の友人のハンセン病の方は、五寸くぎを踏んだのに病のために痛くなかったのです。それで、とうとう足を失いました。
現代は、親も子どもの願色をうかがって叱りません。先生も生徒を恐れてこらしめません。何でもまあまあと許容してしまいます。そこで、涙も苦しみも痛みも知らない子が増えています。無感覚でわがままで、精神的霊的に死んだ子が成長し、彼らは流されていくのです。
昔、木曾川の激流を大きな丸太ん棒がゴロンゴロン流されていくのに、小さなハヤやアユがスイッスイッと流れをさかのぼっていくのを見ました。叱られること・苦しむこと・痛むことのきらいな人は、そのように流されていきます。丸太のように大きくても死んでいるなら、世の中の悪の力・みにくい肉欲の力・悪魔の力に流されてしまいます。
ゲーテは、「涙と共にパンを食べたことのない人は、いっしょに話し合う値打ちがない」と言いました。そして聖書は、「神が、祝福も与えるが、こらしめも下さる」ことを教えています。
私たちがわざわいを受け試練に会う時、これを切実に感じて神のご訓練だと受け止めるところに、満たされた力強い健康な生き方があるのです。
第一、苦しみは偶然ではなく、神はご存じです。
第二、神は、あなたに苦しみののみを当てて、あなたの中から神の傑作を造り出そうとしていらっしゃいます。神にはちゃんと目的があるのです。
第三、神からのこらしめ・訓練・教えとして苦しみを受けるなら、必ず脱出の道があります。それは、神と共に抜け出る栄光の道であり、逆流をさかのぼるスタミナを与えるいのちの道でもあります。
 
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◆私たちはみな、

2017年01月27日 07時17分29秒 | 聖書
この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ一・一六)
ここにキリストの満ち満ちた豊かさがある。神性と完全な人性が満ちている。なぜなら、肉体をとったキリストの中に、その神性が現されているからである。ここにキリストの血による贖いの力が満ちている。なぜなら「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」とあるからである。ここに主のいのちによるあふれるばかりの義認がある。なぜなら「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と記されているからである。なおここに「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」という、神の救いの遍在がある。主の死による勝利が満ちている。なぜなら、死によって主は死の力をもった者、すなわちサタンを滅ぼされたからである。ここに主の復活の力が満ちている。「私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」と記されているからである。ここに主の昇天の勝利が満ちている。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」と記されているからである。ここにはあらゆる種類と形式の祝福、すなわち罪を赦す恵み、生まれ変わらせる恵み、救いを持続させる恵み、また救いを完成させる恵みが満ちている。またすべての時に応じた満たしがある。悩みの時には慰めが満ち、繁栄の時には導きの満たしがある。これは知恵や力や愛といった神のすべてのご性質の満たしであり、人間が洞察したり、また探究したりすることのできないものである。私たちすべてがそれを受けるとは、どんなに豊かにあることだろう。泉は不断に、自由に、豊富にわき出ている。
主にある友よ。来て、あなたの欠乏を満たせ。大いに求めるなら、大いに受けるだろう。この「豊かさ」は無尽蔵であり、イエスすなわちインマヌエルの中にあって、彼に来る者のために蓄えられているから。
 
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詩篇9篇10-12節

2017年01月27日 07時15分57秒 | 聖書


9:10 御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。



 御名を知る者、つまり真の生ける神様を知る者は、そのお方であるあなたに寄り頼みます、と言っています。

なぜならその人は、神が唯一の方であり、また生きておられ、すべてのことを知り、支配しておられるお方であると知っているからです。

また、そのようなお方でありながら、誠に私たちを愛してくださっている、愛の豊かな方であると知るからです。

ですから、この地のいかなる人に寄り頼むよりも、このお方に寄り頼むというのです。

この方から、真の知識と希望と勇気とを与えられるからです。

 では、この御名を知る者になるには、どうしたらよいのでしょう。

それは聖書の御言葉を通して、天と地を造られた創造主であられる神様を知り、私たちの罪の贖いのために遣わしてくださったイエス・キリストを自分の救い主と信じて、受け入れることによるのです。



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マルコの福音書9章 23節

2017年01月27日 07時13分45秒 | 聖書


★するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

■O:今日のコラム
イエス様は「信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われましたが、しかし何故、信仰を持って歩んでいる私達の人生に御言葉の約束が実を持って現れないのでしょうか?それは、御言葉が信仰に結び付けられていないが故です。ヘブル人への手紙にはこう書いてあります。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」(ヘブル4:2)

御言葉を「知り、理解している」事と、「信じている」事には大きな違いがあります。御言葉は信仰に結び付けられた時にこそ、私達の人生に実として、実体として現れるようになるのです。ではどうすれば、御言葉が私達の信仰に結び付けられるのでしょうか。一つは、口に出して音読し、繰り返し朗読する事によって可能となります。繰り返し、御言葉を口ずさむ内に、御言葉が私達の告白となり、宣言となり、考えとなり、信仰となり、生き方となって行きます。その人は御言葉の実を豊かに見る事となります。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:2~3)

また御言葉が私達の信仰と結び付けられる為にもう一つ重要な事は、御言葉を朗読して、その御言葉によって祈る事です。たとえば、今日の短い1節「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」という御言葉を口に出して朗読します。そして、この御言葉により「主よ。私の内にある不信仰を赦し、その不信仰の思いを取り除いて下さい。イエス様。あなたは私の罪を背負い、死をも打ち破った、全能のお方である事を信じます。あなたが私の内に生きておられるので、信じるものにはどんなことでもできる。という約束を信じます。私の目の前にある障壁よ。打ち破られよ。」という風に一節の御言葉からも、悔い改め、主を賛美し、信仰の告白をし、祈る事が出来ます。
御言葉を祈る時に、御言葉に聖霊の息吹が吹き込まれ、書かれたロゴスの言葉から、生きたレーマの言葉となるのです。イエス様も祈りの重要さについて同じマルコの9章でこう言われています。

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコの福音書9:29)

日々、御言葉を朗読し、また御言葉を宣言して祈る事を続ける時、必ず驚くべき信仰の力が私達の人生に働く事となります。


■A:考えてみよう
日夜、御言葉を口ずさみ、御言葉を私達の告白とし、祈りとしましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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1月26日(木)のつぶやき

2017年01月27日 01時28分17秒 | キリスト教
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