座間コミニティー

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◆それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。

2017年01月25日 17時01分11秒 | 聖書
絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ三・三一)
信者が主の家族として受け入れられる時、ただちに、古いアダム、および律法との関係に終止符が打たれる。しかしその時、新しい律法、すなわち新しい契約の中に入る。信者よ。あなたは神の子どもである。あなたの第一の義務は、あなたの天の父に従うことである。あなたは卑屈な思いとは無関係である。あなたは奴隷でなく、神の子どもなのだから。今や、あなたが神の愛する子である以上、父なる神のみこころのごく些細な点にまで服従しなければならない。
御父は聖礼典を守ることを命ぜられなかったか。それを無視するなら、あなたは危険を冒すのである。御父はあなたにイエスの御姿を求めることを命じておられるか。それをなすことはあなたの喜びではないか。
では律法が命じるからではなく、救い主のご命令のゆえに、聖潔が完成するように努めよ。主は聖徒に互いに愛し合うことを命じられたか。ではそれを行え。律法に「あなたの隣人を愛しなさい」とあるからではなく、イエスが「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と言われたゆえにそうしなさい。あなたは貧しい人に施しをするように命じられているか。施しが逃れることのできない重荷であるからではなく、「求める者には与えなさい」と教えられているゆえにそうしなさい。聖書には「心を尽くして神を愛せよ」とあるか。その戒めを見つめて、次のように答えよ。「おお、戒めよ。キリストはすでに戒めを成就された。だから私は、救いのために戒めを実行する必要はない。しかし、神に逆らうことを望まないので、喜んで戒めに従う」と。
聖霊があなたの心を、迫ってくるキリストの愛の力に従順なものにしてくださるように。あなたの祈りが、「私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから」となるように。恵みは聖潔の母であり、罪の弁解者ではない。
 
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「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて・・

2017年01月25日 17時00分11秒 | 聖書

全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創世記22:2)

アブラハムにとり、25年も待って与えられたイサクは大きな喜びであり、希望であり、命そのものであった。
すべての望みはイサクにかかっていた。

イサクにより、子孫が増し加えられ、繁栄し、神の約束が成就して行く。
イサクはアブラハムにとってすべてのすべてであった。
いつしか、アブラハムはイサクを手の中に握りしめていた。

神はアブラハムに、命そのものであるイサクを献げるようにと言われた。
アブラハムの苦悩はどんなものだったろう。最愛のイサクを殺さねばならないとは。

イサクが死んだなら、神の契約はどうなるのか。何もかもがイサクにかかっている。
神は真実であり、絶対に約束を破られない。

しかし、いけにえにと言われる。アブラハムの心中はいかばかりであったろう。
はっきりと「試練に会わせられた」とあり、試練とはテストだ。
これは厳しい試練であり、イサクより神を愛するかのテストでもあった。

深く愛するものは、気づかぬ内に偶像となる。握りしめてしまう。
彼は決断しイサクを献げた。まさに自分を献げ、自分の人生を、何もかもを「断ち切った」のだ。
命そのものを手放した。イサクを明け渡した。

アブラハムの苦悩、痛み、壮絶な信仰の姿を見る時、「あなたの愛しているひとり子を」御父が御子を私たちのために殺して下さった、壮絶な愛を見る。
その愛で、あなたは愛されている。
------------
イサクを献げる極みまでの痛みを通して、御父の痛み、それほどまでの私たちへの愛を垣間見る。
何という痛みの愛だろう。そして、自分のイサクって何なのだろう。
神は、イサクというより、アブラハムの愛を求められた。


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おはようございます。

2017年01月25日 07時38分06秒 | 日記

今日も素敵な朝に恵まれました。

今日も隣人の倖せのために役に立てます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年01月25日 07時36分22秒 | キリスト教

 聖パウロの回心

37年ごろ

 パウロは、タルソ(現在のトルコ南東)でベニヤミン族のイスラエル人として生まれた。本名をサウロといい、若いころは有名な律法学者ガマリエルの弟子となった。(使徒言行録 22参照)

 彼は熱心なユダヤ教徒であり、それに反するキリスト教を徹底的に排除しようとした。聖ステファノの死刑にも賛同し、エルサレムの教会を荒し、キリスト教徒を迫害した。(使徒言行録7章 参照)。しかしキリスト信者たちを逮捕するためにシリアのダマスコへ向かう途上で、突然光を受け、「なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの声を聞き、地面に投げ出された。そのときにパウロは一時的に盲目となり、自らの闇と出会い、回心した。「主よどうすることをお望みですか」と尋ね、キリストに従い、その望みを完全に果たしていくということを悟った。そして自分が出会ったキリストの体験と神の愛を語るためにその宣教に生涯をささげた。

 パウロの3回にわたる宣教旅行は有名である。彼は、キリスト教をユダヤ人以外の人々に広めた使徒として、「異邦人の使徒」とも呼ばれ、聖ペトロと並び使徒である。彼が残した書簡は、新約聖書に14あり、キリストの愛と教えが、体験をもって語られている。

 パウロの回心については、使徒言行録22.6-16、9.1-19、26.12-18を参照。また聖人カレンダー「使徒聖パウロ(6月29日)」参照。

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◆骨に元気をつける

2017年01月25日 07時35分16秒 | 聖書

自分を知恵のある者と思うな。
主を恐れて、悪から離れよ。
それはあなたのからだを健康にし、
あなたの骨に元気をつける。         (箴言三7―8)
「骨まで愛して」という奇妙な歌がありました。ところが聖書は、「骨に元気をつける」と言います。面白いことばです。
実はユダヤ人にとって、骨イコール心です。英語では心臓イコール心になっていることも、考えてみれば奇妙です。ともかく、心が元気はつらつなら、私たちはあらゆる面で健康な生活ができます。
東京の丸の内近辺で、一番売れるものは何だと思いますか。それは、胃の薬と痛み止めだそうです。サラリーマンはみんな疲れています。労働省の調査によると、サラリーマンの七〇%は常に疲れていると訴え、勤めを休みたいと考えているとのことです。
現代社会では、次から次へとさまざまの出来事が起こります。毎日毎日、失敗を恐れて緊張しています。他人に理解してもらえない悩みもあります。感情の浮き沈みにいちいち影響されます。疲れるのは当たり前です。ある人は、サラリーマンが早朝マラソンするのも、この疲れと不安から逃れるためだと言っています。みな、骨まで疲れているのです。
聖書は言います。「主を恐れよ」と。神を知り、神の権威を認め、神を恐れ、従い、そして何よりも、神が愛であることを心いっぱいに受け止めるその時、骨が元気になるのです。第一に、不安がなくなります。いつも神が守り、導いてくださると分かります。失敗しても、また立ちあがります。苦しいことがあっても、これは神からの教育訓練なのだと分かります。ですから、いつも上を向いて前進できるのです。これこそ、スタミナのある生き方です。
 
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◆私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。

2017年01月25日 07時34分29秒 | 聖書
主が私たちに報いてくださったすべての事について……。(イザヤ六三・七)
あなたにはこのことができないのか。あなたには今までに経験した恵みがないと言うのか。あなたは今ふさぎ込んでいるが、かつてイエスがあなたに会って「わたしのところに来なさい」と言われたあの喜ばしい時を忘れているのか。あなたは、イエスがあなたの足かせを切り、くさりを地面に投げ捨てて「わたしはあなたの縄目を解いて自由を得させるために来たのである」と言われた歓喜の時を思い出すことができないのか。あなたの配偶者の愛が忘れられても、人生の路傍には尊い道標があって、そこにあなたに対する神のあわれみの楽しい記憶が、こけに覆われもせず、なお読むことができるはずではないか。
あなたは、あなたが今かかっているようなひどい病気には、今までかかったことがないと言うのか。イエスがあなたの病気をいやされなかったことがあるか。あなたは今ほど貧乏になったことはないと言うのか。イエスがあなたの欠乏を満たされなかったことがあるか。あなたは今ほどの困難に出会ったことはないと言うのか。イエスがあなたを助けられなかったことがあるだろうか。立ち上がってあなたの経験の川岸に行き、そこで、草を手折ってかごを編め。あなたの幼い信仰は、その中にあって無事に流れるであろう。神があなたのためになさったことを忘れるな。あなたの記憶の本のページをめくって、昔の事を考えよ。
あなたは、ミツァルの山を思い起こすことができないのか。主はへルモンであなたに会われなかったか。あなたは喜びの山々に登ったことはなかったか。たしかに助けられたはずである。それなら、昨日の深い恵みにまで少し後戻りして、たとい今は暗くても過去のともしびをともせ。それがやみのうちに輝くので、あなたは、夜が明け、暗い影が逃げ去るまで、主に頼ることができるだろう。
「主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。」
 
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詩篇9篇1-2節

2017年01月25日 07時33分04秒 | 聖書


9:1 私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。
9:2 私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。




 ダビデは「心を尽くして」主に感謝します、と語っています。

心を尽くしてというのは、全人格的にということです。

理性と意思と感情を用いて、神様への感謝を献げますというのです。

賛美でもって神様を褒め称える若い人たちはいます。

ところが、人が知識や意思を用いてすることは、自分たちの知識や知恵を誇ることです。

それらを与えてくださった神様を称える人は、あまりいません。

ましてや自分の意思を用いて、神様の御心に聞き、それに従っていこうという人、これは更に少ないことです。

多くの人は、自分の栄光のために動いていて、神の栄光を表すために生きようとは、なかなかしません。

 しかし、ダビデは言うのです。

私は頭も口も手もみな使って、神様にお仕えし、また、褒め称えましょうと。

このお方にこそ、自分のすべてがあるからだ、というのです。

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詩篇126篇5節

2017年01月25日 07時30分48秒 | 聖書


★涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。

■O: 今日のコラム
収穫の時は家族にとって教会にとって本当に大きな喜びです。
今日の御言葉に「涙とともに種を蒔く者は…」と書かれています。私たちは喜びの収穫を期待します。しかし、その刈取りの前には必ず種を蒔く事が必要なのです。

福音の種、御言葉の種、祈りの種、愛の種など御霊に属する種があります。
ガラテヤ6章では自分の肉のために蒔く者と御霊のために蒔く者とが記されています。

私たちは日々の生活の中で自分の肉のために種を蒔く事、御霊のために蒔く事、どちらも選択する事ができます。

そしてどちらを選択しても必ず刈取りがある事を覚えておく必要があります。

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈取るのです。」(ガラテヤ6:8)

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

神様に与えられている一日を私たちはどのように過ごしているでしょうか。 どのような事に時間を捧げているでしょうか。

一時の快楽のために、肉の欲のために種を蒔くのか、永遠の報いを見て大きな実りを期待して御霊に従うのかは選択する事ができます。

私たちは朝起きた瞬間からやらなければいけない事に溢れています。
また私たちの周りにはあまりにも沢山のメディアからの情報なども溢れています。
気がついたらあっという間に時間が奪われていた事はないでしょうか。
絶えず聖霊様に霊の目、霊の耳を守っていただく必要があります。聖霊様の助けが毎日必要です。そして聖霊様は私たちを正しい道へと導いてくださるお方です。

一日の始まりにまず聖霊様の助けを頂いて、霊の糧である御言葉の種を選び取っていきましょう。
聖霊様は御霊に従うことを選択する力を与えてくださるお方です。
その一歩によって必ず人生に大きな勝利と豊かな実りを見ることができるでしょう。

■:A 考えてみよう
私たちの生活、人生に御霊に属する種を蒔きましょう。小さな事に感じるかもしれませんが、実らせてくださるのは主ご自身です。種を蒔く事が大切なのです。
豊かに蒔く者には豊かな刈取りが用意されている事を信じます。

■:P 祈り
愛するイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

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1月24日(火)のつぶやき

2017年01月25日 01時29分39秒 | キリスト教
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