「主はご自分に属する者を知っておられる」ことは、放蕩息子にも、食卓に着く子どもたちにも与えられている。しかし、ああ、私たちはなんと王である兄について知らないことだろう。この無知が無数の罪を生む。私たちは主に対して心を閉ざし、主が心の中に入られるのを拒否する。主を疑い、主のことばを信じないのである。私たちは主に背き、喜んで服従することをしなかった。義の太陽は輝いている。しかし、私たちはそれを見ることができなかった。天は地に下った。しかし地はそれを知らなかった。だが、神はほむべきかな。私たちにとってこのような時は過ぎ去ったのだ。しかし今も、主の私たちに関する知識に比べれば、私たちがイエスを知る知識はきわめて少なく、ごくわずかを知り始めたにすぎない。けれども、主は私たちを知り尽くしておられる。主の側に無知がなかったことは幸いである。主に無知があったとすれば、私たちに望みはなかった。主は私たちに「わたしはあなたがたを全然知らない」と言われない。
主は、再びおいでになる日に、私たちの名を公表される。しかし、それまでにもご自身を世に対しては現されず、私たちに現してくださるのである。