座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆ヨセフには、兄弟たちだとわかったが、

2017年01月04日 17時08分18秒 | 聖書
彼らにはヨセフだとはわからなかった。(創世四二・八)
感謝なことに、私たちが主をわずか知るよりはるか前に、主の私たちを知る知識は、すでに完全なものであった。「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」この世に生まれる以前に、私たちは主の心の中に生きていた。私たちが主に敵対していた時に、主は私たちを知り、私たちの悲惨と狂暴と邪悪を知っておられた。私たちが失望し、悔い改めの涙をさめざめと流し、主をさばき主、支配者として見た時に、主は私たちを愛する兄弟としてご覧になり、みこころを動かされた。主はご自分がお選びになった者を決して忘れず、いつもご自分の無限の愛の対象としてご覧になる。
「主はご自分に属する者を知っておられる」ことは、放蕩息子にも、食卓に着く子どもたちにも与えられている。しかし、ああ、私たちはなんと王である兄について知らないことだろう。この無知が無数の罪を生む。私たちは主に対して心を閉ざし、主が心の中に入られるのを拒否する。主を疑い、主のことばを信じないのである。私たちは主に背き、喜んで服従することをしなかった。義の太陽は輝いている。しかし、私たちはそれを見ることができなかった。天は地に下った。しかし地はそれを知らなかった。だが、神はほむべきかな。私たちにとってこのような時は過ぎ去ったのだ。しかし今も、主の私たちに関する知識に比べれば、私たちがイエスを知る知識はきわめて少なく、ごくわずかを知り始めたにすぎない。けれども、主は私たちを知り尽くしておられる。主の側に無知がなかったことは幸いである。主に無知があったとすれば、私たちに望みはなかった。主は私たちに「わたしはあなたがたを全然知らない」と言われない。
主は、再びおいでになる日に、私たちの名を公表される。しかし、それまでにもご自身を世に対しては現されず、私たちに現してくださるのである。
 

『主の使いは彼に言った。「・・敵対して出て来たのはわたしだったのだ。

2017年01月04日 17時07分33秒 | 聖書


あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ」(民数記22:32)

私たちは誰しも、痛い目に会う事、苦しみ、問題は回避したい。苦しい目には会いたくない。

又、思い通りにならない事が生じると、順調な歩みを阻止される。
問題に阻まれて、先に進めなくなってしまう。
苦しみや悩みが、好きな人などいない。
そこで、痛くて辛い事態を、避けて通りたいと思ってしまう。

何とか逃れたいと思う。
しかし、神は、私たちが間違った方向へ進まないために、行く手に障害物を置かれる場合がある。
私たちを立ち止まらせるためだ。

運が悪かったのではなく、たまたまそうなったのではなく、神の取り扱いだ。
不運なのではない、又、そこに関わっている相手を責めるのではなく、そこに神の取り扱いを認めることだ。
人のせいでも、環境のせいでもなく、そこに神を認めよう。

その状況の中で、神のメッセージを受け取ろう。何を教えたいのか、何に気づかせたいのか。
何を言っておられるのか。

今、あなたの行く手が阻まれているなら、状況がどうのでなく、まずそこに神を認めよう。
神が立ちはだかっておられる。その道はもしかしたら、違うのかも知れない。

神はバラムに「彼らと一緒に行ってはならない。その民を呪ってもいけない。
祝福されているからだ」と言われたに関わらず、出て行くバラムに、主の使いが立ちはだかった。

目の前の状況に神を認め、自分の思いでなく、神の御心を尋ね求めよう。
そうするなら必ず正しい道に導いて下さる。  

--------------
時に、自分では御心と思っているが、反対方向に向かっている事がある。神が立ちはだかって止めて下さる。
もし神の介入が無ければ、間違った方へ進んでいただろう。ストップがかかれば、よくよく祈ってみよう。
御心が別の方向にあるのかも知れない。


今日の聖人の記念日

2017年01月04日 08時00分47秒 | キリスト教

聖エリザベス・アン・シートン

1774年-1820年

 エリザベスは、ニューヨーク市のプロテスタントの医者の家庭で生まれ育った。20歳のときに結婚し、5人の子どもに恵まれたエリザベスは、父の影響もあって慈善事業に力を尽くし、1797年に貧しい寡婦たちを援助するための会を創設した。
 1803年に夫に先立たれ、カトリックの家族の援助を受けたことから、2年後にカトリックに改宗した。しかし改宗に反対する周囲の無理解から、ある司祭の招きでボールティモアに移り、学校経営に従事した。これはアメリカにおけるカトリック組織の学校経営の始まりとなった。

 1809年に聖ヨセフ修道女会を設立し、その後メリーランド州エミツバーグに貧しい子どもたちのための学校を建てた。1812年に、この共同体は「聖ヨセフ愛徳修道女会」という名称で正式な修道会として承認され、アメリカ人によって初めて設立されたカトリック修道女会となった。エリザベスは、初代総長として会員を導き、会は急速に発展していった。

 現在この修道会は、医療・教育をはじめ多くの社会活動に貢献している。
 エリザベスは、アメリカ合衆国の福祉事業、教育活動の先駆者となった。アメリカ人として初めて聖人の位にあげられた人である。


◆美しい飾り物

2017年01月04日 07時59分33秒 | 聖書

それらは、あなたの頭の麗しい花輪、
あなたの首飾りである。           (箴言一9)
南の国では結婚式とかおめでたい時、よく花の輪を冠につくって頭にかぶせてくれるようです。私もハワイで、レイの花輪を十も十五もかけられて花にうずまり、花の香に囲まれた覚えがあります。それは人々の好意と愛にうずまって、うっとりとした思い出です。聖書の国ユダヤでも、そんなことがあったようです。聖書によれば、よい親子関係とは、花輪のある風景なのです。
ユダヤでは、神のことばである聖書のことばを、親が子どもにはっきりと教えました。そのやり方は、子どものおでこに、みことばを書いて結びつけておくほど徹底したものでした。そのようにして、きよく正しく愛に満ちた、神のことばで子を育てるように努めたのです。そして子どもは、親の与えた理想と教えを守り、親を尊敬して従いました。こんなうるわしい姿を実際に、ロスアンジェルスのあるユダヤ人クリスチャンの家庭で私も見たことがあります。
しかし、多くの現代の親たちは、何を子どもに教えていいかと悩んでいるのではありませんか。精魂こめて、教えるもの・額に刻みこんでまで伝えるものを、何も持っていないからです。しかし聖書は、それは神のことばだ、聖書だと言うのです。
口はばったいことを言うようですが、私の家庭のことをお話ししましょう。妻と私は、毎朝早く起きて、聖書を読み、子どもたちのために祈ります。毎晩、大学生も高校生も小学生もおばあちゃんも集まって、家中で聖書を読み、賛美の歌をうたいます。昔、私の家は、ほんとうに寂しい冷たい家庭でした。しかし今は、神の恵みによって、花輪のある家庭となったと思うのです。
 

◆私たちの主であり救い主である

2017年01月04日 07時58分46秒 | 聖書
イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。(Ⅱペテロ三・一八)
「恵みにおいて成長しなさい。」――一つの恵みだけでなく、すべての恵みにおいて成長せよ。これまでよりはっきりと約束を信ぜよ。信仰を十分に、永続的に、単純に進めさせよ。また愛において成長せよ。あなたの愛が拡大され、さらに強くされ、さらに実践的になり、あらゆる思いとことばと行いに影響を及ぼすことを願え。謙遜においても成長せよ。謙遜を求め、自分の無価値を知れ。謙遜によってさらに神に近づき、イエスとのさらに深い交わりに入れ。
聖霊なる神があなたを「私たちの主であり救い主である方の知識において成長」させてくださるように。イエスの知識において進歩しない者は、祝福を拒む者である。イエスを知ることは「永遠のいのち」であり、イエスの知識において成長するのは、幸福を加える道である。キリストをさらに知ろうと願わない者は、キリストについて何も知らない者である。キリストのぶどう酒を味わった者は、さらに渇きを覚える。キリストは満足を与えられるが、それは食欲を満たすものではなく、かえって食欲を刺激し、ますます渇きを覚えさせるものだからである。もしあなたがイエスの愛を知るなら、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、イエスのさらに深い愛に満たされることを望むであろう。
もしあなたがイエスをさらに深く知ることを願わないなら、あなたはイエスを愛しているとは言えない。なぜなら、愛はいつも「近く、もっと近く」と叫ぶからである。キリストのおられない所は地獄である。しかしキリストのおられる所は天国である。だから、イエスとのさらに深い交わりを求めないで満足してはいけない。キリストの神性、人性、完成されたみわざ、死、復活、現在の栄光あるとりなし、将来の再臨などについて、もっとよく知ることを求めよ。十字架に近くいて、その御傷の奥義を極めよ。イエスに対する愛が増し加わり、私たちに対するイエスの愛をさらに完全に理解することこそ、恵みの中に成長している最大の証拠である。
 

詩篇2篇10-12節

2017年01月04日 07時57分11秒 | 聖書


2:10 それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。
2:11 恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。
2:12 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。



 この地の支配者達、また王達が、この世の真の支配者ではない。

来たるべき神の御子こそ真の王であり、また支配者であられる。

そのことを覚えて、このお方に口づけをして歓迎をし、受け入れなさい、そして、あなた方は謹んで、そのお方に仕えなさい、と言われるのです。

 なぜなら、もしあなた方が、このお方を自分たちの真の支配者、王として受け入れようとしないならば、主の怒りがあなた方の上に燃えさかり、あなた方は滅びの道に歩むことになるからだ、と言われるのです。

 従って、一番幸いなことは、この来たるべき主に身を置き、その方に寄り頼むことだと言われるのです。

なぜなら、このお方こそ、王の王、主の主であられるからです。



サムエル記第一1章

2017年01月04日 07時54分35秒 | 聖書


★5 しかし、ハンナには特別の受け分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。
7 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。
18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。
19 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留めておられた。

2章6~9節
★ 主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!1月3日の朝です。今年一年も主の御言葉を求めていきましょう。御言葉によって、僕らは、主からの特別に受ける祝福を受け取る事ができるからです。主が聖徒たちの足を守られます。

今日は、サムエル記第一1章から、ハンナという夫から愛されている妻が、悩み苦しみながら、特別な祝福を受け取ることを見ていきたいと思います。

「愛されている妻が、なかなか子供に恵まれないこと」を思った時に、主が愛している日本が、なかなか子供(救われる魂)に恵まれなかったことをあらわしているのではと思いました。

日本には特別な受ける分があります。しかし、今までの時代には、自分で食事(御言葉)を取るのではなく、周りの国々を見て羨ましがっていた時代がありました。周りを見て、自分に与えられている祝福や食事を見ていませんでした。そして、僕らの心は痛み、主に祈って、激しく泣く時がきました。そして、主の宮で祈る中で、食事をとる力を回復し、食事をするようになりました。僕らの顔は、もはや以前のようではなくなるのです。そして、主をさらに深く知り、リバイバルへと導かれていくのです。僕らは、僕ら自身がサムエルとなり、サムエルを産み出していく者となっていきます。サムエルとは、「彼の名は神、神様の子供、神様の声を聴く者」です。

今までもずっと、祈りと御言葉の生活を守ってくださっていた先輩たちが居てくださったことを感謝します。そして、これからは、さらにさらに祈りと御言葉の生活が、クリスチャンの一人一人に祝福されていくことを感謝します。御言葉の食事によって、僕らは、力強くなっていくことができます。

僕らは、主を知る前は、霊的に死んでいた者でしたが、今は、生きている者となりました。主が共に居てくださらないのならば、罪の奴隷でした。悪魔の前で、弱々しい者でした。主が居てくださらないのならば、何もできない貧しい者でした。しかし、「主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。」のです。

僕らは、イエス様の十字架の血潮によって、天のお父さんの子供となりました。この事実を、たくさんの御言葉の食事によって力強く宣言していきましょう。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(コリント人への手紙第一1章27節)主は、弱い者をちりから起こされました。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイの福音書5章3節)主は、主を求める貧しい者に、御国を与えてくださいます。

そして、僕らは、イエス様の十字架の血潮によって、王であり祭司となりました。
僕らは、「 まことに人は、おのれの力によっては勝てません。」が、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ人への手紙4章13節)

だから、今年も主の御言葉を求めていきましょう。御言葉によって、僕らは、主からの特別に受ける祝福を受け取り、主の栄光の位を継ぐ一人一人となっていきましょう。


■A:考えてみよう
自分に与えられている御言葉を宣言していきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


1月3日(火)のつぶやき

2017年01月04日 01時30分47秒 | キリスト教