座間コミニティー

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民数記10章33-36節

2012年08月31日 13時35分29秒 | 聖書

10:33 こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。


彼らの旅立ちは、公には主の山ホレブ、すなわちシナイ山の所から始まりました。

そこで彼らが、主の民としての契約と生活のあらゆる意味での指針を、主から与えられたからです。

 幕屋を覆っていた雲が上に上った時、彼らは旅立ちました。

多くの準備の働きが必要であったと思われます。

天幕をたたんだり、またその幕屋の中にある、聖なる器を運ぶための備えもしなければなりませんでした。

ですから、大変だなと思う人もいるかもしれません。

しかし、この働きに携わるレビ人は、その数が、男子だけで2万2千人いたと聖書は記しています。

それらの人々が、順番を決められて奉仕に当たりましたが、こうした多くの人数のために、準備はそれほどの時間がかかることでもなかったのではないかと思います。

レビ人に担がれた契約の箱が、先頭を進みました。

神様が本質的な意味で、彼らの導き主であられたからです。

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民数記10章29-32節

2012年08月31日 13時32分56秒 | 聖書

10:29 さて、モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」


モーセはエジプトから一人で逃れてきた時、ミデアン人のレウエル(別名イテロ)の所に行き、そこで妻をめとりました。

妻の名はチッポラと言いましたが、その兄弟がホバブでした。

彼は、モ-セと一緒に行動をしていたようです。

その彼に、モ-セはシナイ山の所を旅立つ時、同行を願いました。

彼が、荒れ野の道をよく知っていたからです。

彼は初めは断りましたが、後に承諾をしました。

彼の道案内の助けも、大いに役立ったようです。

 神様はご自分の御心をなされる時に、単にご自分から直接に指示や導きをされるのみではなくて、こうした人々をも用いて事をなしてくださいます。

福音を伝える時も、パウロを用いたのと同じです。

主はあらゆるものを用いて、主の約束を実現へと導びいてくださるのです。

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◆善  意  の  人

2012年08月31日 13時17分50秒 | 聖書

善意の人は祝福を受ける。
自分のパンを寄るべのない者に与えるから。(箴言二二9)

さて、「善意の人」が登場しましたが、あなたは、どんな人になりたいでしょうか。人に何と言ってもらいたいでしょうか。
ところで、この聖書のことばは「善意の人」を推奨しています。「利口な人」「アイデアマン」「先が見える人」「実力者」「やる気のある人」「ユーモアのある人」「明るい人」「まじめな人」「親切な人」、皆それぞれいいのですが、「善意の人」とはどんな人でしょうか。「善意の人」の直訳は、「目のよい人」です。それは、神のように人を見ることのできる人なのです。
聖書の言う「善意の人」のすばらしい解説が、コリント人への手紙第一、一三章にあると思います。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(5―7節)。
・ 人の悪を思わない人。
よいほうへよいほうへと善意に解釈し、ひがみっぽくない人です。
・ 人のうわべや過去にこだわらず、差別しないで受け入れる人。
・ 人を信じ期待し忍耐深く待つ人。
つまり、真実の愛のある人ではないでしょうか。そして愛は、惜しみなく与えます。お返しのできない人に与えて、お返しを期待しません。私たちのために、ご自身を十字架の上で与えつくしてくださったイエス・キリストの中に、この愛の完璧な模範を見いだすことができます。
キリストの愛の中にとかされた人こそ、判断力のない愚かなお人よしではなしに、祝福を受ける善意の人になりうるのではないでしょうか。

 

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◆わたしの腕に拠り頼む。

2012年08月31日 13時15分42秒 | 聖書

(イザヤ五一・五)

激しい試練に直面して、クリスチャンは地上に何一つ頼るべきものをもたないので、ただ神にのみその身をゆだねることになる。彼の船が真横に傾いて危機に瀕し、人の助けが全く及ばなくなった時、彼は単純かつ全面的に、自分を神の摂理と守りにゆだねなければならない。人をこのように岩に打ちあてて難破させるあらしは、実は喜ばしいものである。たましいを神に追いやり、神にのみ吹きつける烈風は幸いである。時に私たちは、友人が多すぎるために神に行かないことがある。しかし、貧しく、友もなく、無力で、どちらを向いても身の置き場がないならば、御父のもとに駆けて行き、その幸いな腕により頼むのである。切迫した特別な困難を負い、神のほかにそれを打ち明けることができないならば、かえってそのことを感謝するであろう。なぜなら、そのような時にこそ主について深く学ぶからである。
あらしに悩む信者よ。あなたを御父のもとに追いやる苦難は、幸いな苦難である。今、神のほかに頼るものはない。だから、神にすべての信頼を置くように努めよ。あなたの主を、卑しむべき疑いや恐れによって辱しめるな。信仰に堅く立って、神に栄光を帰せよ。
あなたにとって神がこの世界を千万集めたほどの価値があることを、世に向かって示せ。主なる神があなたの助け手であられる時、あなたは貧困の中にあっても富める者であることを、世の富める者に示せ。あなたの下に永遠の腕がある時、自分が弱い時にこそ強いことを、世の強い者に向かって示せ。強くかつ雄々しくあれ。そうすればあなたの主である神は、天地を創造されたように確実に、あなたの弱さのうちにご自身の栄光を現し、あなたの患難のうちにご自身の力を示される。もし青空が目に見える一本の柱で支えられていたら、天の荘厳さは損なわれるであろう。あなたの信仰もまた、もし肉眼で見えるものに頼っていたなら、その栄光を失うのである。
この月の最後の日に、どうか聖霊があなたに、イエスにある安息を与えてくださいますように。

 

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●求人広告の内容は労働条件か?●

2012年08月31日 12時47分11秒 | 原発

 職業安定法第5条の3では、労働者の募集に当たっては求職者に対して、「従事すべき業務の内容及び賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない」と規定しています。具体的には、契約期間、就業場所、残業の有無、休憩休日などの明示が必要で、職安法施行規則4条の2に規定されています。
 こうした求人広告など明示された労働条件がそのまま契約内容となるとは限りませんが、求人票などに、確定的に記載されたものについては、原則としてそれが労働条件となると解釈できます。
 もっとも採用内定時までの間で、採用に至る手続の中で、具体的な労働条件などが明示されることになり、そうした内容が労働条件として契約内容を構成することとなります。つまり求人票での賃金額と異なる賃金額を会社から呈示することも可能と言うことです。しかしこの場合には、会社が意図的に求人票での賃金額を実際の賃金とは異なったものを表示したとして、指導される要素となるでしょう。
 また表示された賃金額が、予定額や見込み額であるような場合でも、応募者はその金額が支払われるであろう事を期待しているわけですから、その期待を裏切らないよう配慮すべきで、とくに、大幅に賃金額が異なるようなときには、特段の経営上の重要な理由などがない限り、不法行為として差額分の損害賠償を認める裁判例もあります。
 トラブルを避けるためには、採用に至る過程で、重要な労働条件については、きちんと確認しておくことが重要で、こうした質問に対して誠実な回答ができないような会社は、入社後のトラブルのリスクが高いとも考えられます。
 もっとも採用に当たって、賃金や残業代のことばかり気にしているようでは、やはり会社の心証はよくなりません。この会社で何をしたいのかを熱意を持って話すこととあわせて、それに応じた賃金が払われるのかを確認するというバランスが重要です。

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民数記10章25-28節

2012年08月30日 14時43分30秒 | 聖書

10:25 ダン部族の宿営の旗が、全宿営の後衛としてその軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。
10:26 アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。
10:27 ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。


私たちは軍隊が軍旗と共に進む時、それぞれの部隊が自分たちの軍旗を持っていると思います。

ところが、イスラエルにおいては違っていました。

イスラエルの部族は、全部で12の部族からなっていました。

これらの部族は幕屋を中心にして、互いに距離を置いて宿営をしました。

また、宿営の場所も決まっていました。

彼らは皆、会見の幕屋を囲むようにして宿営をしました。

たとえばユダ族は、幕屋の東側に宿営しました。

ところが、そのユダ族の軍旗の下には、他の2部族が共に従いました。

幕屋の1つの側に3つの部族が、1つの軍旗の下で宿営したのです。

旅立つ時にも、その軍旗の下で、順を追って旅立ちました。

ダン族が最後に出て、そのダンの軍旗の下にアシェル族とナフタリ族が属していた、と言われているのです。

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民数記10章21-24節

2012年08月30日 14時38分08秒 | 聖書

10:21 聖なる物を運ぶケハテ人が出発。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられる。


 祭司のアロンの手助けとして、レビ族が召し出されましたが、そのレビ人は、3つの氏族に分かれていました。

それはゲルションとケハテとメラリの氏族でした。

ゲルションの氏族は、天幕や垂れ幕などに関わる働きをしました。

メラリの氏族は、幕屋の板や台座などに関わる働きをしました。

そして、ケハテの氏族が契約の箱や祭壇や燭台など、聖なる器に関わる働きをしました。

アロンの子のエリアザルが、彼らの責任者でした。

彼らが、民が出発する時に、幕屋の運搬の働きを担当しました。

彼ら以外のものがこれらのものに触れると、民のうちから除かれてしまいました。

聖なるものであったからです。

 民の移動の時、ゲルションとメラリの氏族は、先に幕屋に関わるものを運んでいきました。

そしてケハテの氏族の人々は、聖なる器に関わるものを運んでおりましたので、彼らが到着する時には、すぐ幕屋におさめることができるように準備されました。

丁寧に、また大事に幕屋を運ぶ役割を、選ばれた者たちが担ったのでした。

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◆種まきの人生

2012年08月30日 14時32分33秒 | 聖書

不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。
彼の怒りの杖はすたれる。      (箴言二二8)

ここでソロモンは、王座から不正をほしいままにする暴君はその結果、必ずわざわいを刈りとり、その支配の杖はいつか折れてしまうと言っているようです。
しかし、まいたものは刈りとるようになるとは、何という厳粛な事実でしょう。パウロはこう言いました。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ六7―8)。
私たちの人生を、種をまいている人生だと考えたことがおありでしょうか。昔ユダヤ地方では、畑に畝などつくらないで、パアッパアッと種をばらまいたそうです。そこで、イエス・キリストは、「まかれた種のうち、道ばたの種は鳥に食われ、岩地に落ちた種は日に照りつけられて生えても枯れ、いばらの中にまかれた種はひょろひょろ伸びるだけで実を結びませんでした。よく耕された土地にまかれた種だけが、三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです」と話されました。
悪の種をまいても、生えないで無事のことがありましょう。しかし、あなどってはなりません。最後には、滅びの刈りとりをきっとどこかでします。善や愛の種をまいても、踏みにじられて生えないことも多いでしょう。しかし、いつかどこかで、愛の花が咲き、その実がみのるのです。私の家のおばあちゃんは、小さな小さな土地を耕して種をまきます。肥料をやり、水をやります。私たちが忘れたころに、私に「初物だよ」と言ってブロッコリーを食べさせ、「咲きましたよ」と言って、かわいい鉢の花を私の机の上に飾ってくれるのです。
何とかして、私たちは愛の種をまく者となりたいものです。

 

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◆待ち望め。主を。

2012年08月30日 14時29分42秒 | 聖書

(詩篇二七・一四)

待つということはたやすいようであるが、キリストの兵士にとってはきわめて困難なことである。神の戦士には、じっと立ち止まっているよりは、前進や強行軍のほうがほるかにたやすいのである。
熱心に主に仕えようと願うたましいが途方にくれることがある。そのような時にはどうしたらよいか。気落ちしていらだつのか。後ろに逃げ出すのか。単なる推定から、前に突進するのか。否、ただ待つのである。しかし祈りつつ待つのである。神を呼び求め、事の詳細を神の前に広げよ。直面する困難を神に語り、私たちを助けられるとの約束のみことばを握って求めよ。
二つの義務の間にはさまれた時、幼子のように謙遜になり、単純な心で主を待ち望むのは、実に麗しい。私たちが自分の愚かさを知り、みこころのままに導かれることを願うのは、たしかによいことである。
そして信仰をもって待て。あなたの神に対する揺るがない確信を表明せよ。信仰なくして、また信頼なくして待つのは、主を侮ることである。たとえあなたが真夜中まで待って、なお主が来られないとしても、主がよいと思われる時必ず来られることを信ぜよ。ビジョンは来るであろう。決して遅れることはない。
静かに忍耐して待て。苦しみの中にあっても神に逆らうことなく、かえってそのために主をあがめよ。イスラエルの民がモーセにつぶやいたように、決してつぶやいてはならない。古い世界に再び戻ることを願うな。与えられた試練をあるがままの姿で受け入れ、自己中心の思いを退け、単純にしかも全き心をもってそれを神の御手にゆだねよ。そしてこう祈れ。「主よ。私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。私は進退に窮し、どうしたらよいのかわかりません。ただあなたが洪水を裂き、敵を散らしてくださるのを待ちます。たとえ待つ日が何日であろうとも、私はあなたを待ちます。なぜなら、神様。私の心はあなただけに向けられているからです。あなたこそ私の喜び、私の救い、私の避け所、また私の強いやぐらであるとの確信をもってあなたを待ち望みます」と。

 

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●年次有給休暇について●

2012年08月30日 14時26分04秒 | 労働法

 労基法39条では、「使用者は、その雇入れの日から起算して6ヶ月間継続勤務し全労働日の8割以上出勤した労働者に対して、継続し又は分割した十労働日の有給休暇を与えなければならない」と規定しています。
 8割出勤が要件ですが、欠勤が2割を超えるためには週1日以上の欠勤ですから、かなりゆるい要件です。しかし年休を取得するためには、会社に希望する時季を指定しなければなりません。これが年休の請求になるわけですが、この請求をしなければ会社は年休を与えなくても違法とはなりません。
 この年休の請求に対して、会社から拒否されることがあります。これは年休の取得を拒否されたのではなく、法的には年休取得時季の変更を求められたことになります。年休は、会社の都合で与えないとすることはできない、労基法上の会社の義務規定だからです。万が一就業規則に年休規定がなかったとしても、年休を請求することができるのです。
 もし会社から年休の取得を拒否された場合には、時季をずらすための調整をした上で、年休の時季を確定させてください。この変更後の年休の時季は、労使双方ともに、再変更はできません。
 年休の請求時に、年休取得の理由を聞かれる場合があります。あるいは自発的に、理由を伝えることもあるでしょう。しかし年休は当然に与えられる休暇ですから、取得に理由は必要ありません。会社から聞かれた場合には、もっともらしい理由を適当に答えておけばいいのです。それが後でうそだとわかったとしても、そもそも理由に答える必要はないのですから、問題となる余地はありません。
 ですから、自分からあえて理由を告げる必要ありませんし、むしろ不用意に理由を告げることで、余計な詮索をされる可能性もあります。
 もし離職の際に、年休が残っているようであれば、まとめて請求しても、会社は拒否することはできません。時季の変更ができないからです。と言っても、離職時の引継ぎは労働契約上の義務となっていますから、もし年休を取得したとしても、引継ぎをしっかり行わなければ、懲戒処分などのペナルティーも考えられますので注意が必要です。

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民数記10章18-20節

2012年08月29日 12時24分05秒 | 聖書

10:18 ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。
10:19 シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。
10:20 ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。


旅立ちは、無秩序になされたのではありません。

秩序の下になされました。

初めは、ユダ族の旗が立ちました。

そして、軍団長の下に、ユダ族が従いました。

次に進みましたのは、イッサカル族でした。

こうして、今日の箇所に記されているルベン族、また、シメオン族そしてガド族が進みました。

順序が示され、その順序に従って進んでいったのです。

神様は無秩序な方ではないと言われています。

そして、秩序があるということは、物事がちゃんと進行するということでもあります。

礼拝にも順序があり、また秩序があります。

これを壊して勝手なことをしたら、心を1つにして主を礼拝するというあり方が失われてしまいます。

 神様が進軍の順序について指示を与え、秩序を持って事を運ばせたということは、主の前で、秩序は大事なことなのだと教えてくれているのです。

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民数記10章11-17節

2012年08月29日 12時21分08秒 | 聖書

10:11 第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。

10:12 それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ったが、雲はパランの荒野でとどまった。


エジプトを出て2年目の第2の月の20日、民がシナイの荒れ野に滞在している時に、雲があかしの幕屋の上から離れました。

 このシナイ山の麓に滞在している時には、民はモ-セを通して戒めを与えられました。

それは、十戒に代表される道徳律法や、犠牲のことに関わる祭儀律法、生活に関わる司法律法などでした。

こうした戒めが与えられて、民が神の民としての歩み方を示された後、いよいよ出発とされたのです。

 その出発のことは、幕屋を覆っていた雲が幕屋の上から離れていくことによって、神から示されました。

幕屋を覆っている雲が幕屋を離れると、彼らは旅立ちの準備をして、旅立ちました。

今が、その時であったのです。

 私たちも主を信じて洗礼を受けてから、主の民としての歩みを始めますが、それと同じようです。

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◆借金人生のいましめ

2012年08月29日 12時15分54秒 | 聖書

富む者は貧しい者を支配する。
借りる者は貸す者のしもべとなる。  (箴言二二7)

人生の成功者とは、このような人だと定義した人がありました。
・ 金を支配できる人。金に使われず、金を支配できる。
・ 人を支配できる人。人の奴隷とならず、人を指導できる。
・ 自分を支配できる人。自分のきたない、みにくい欲望にふりまわされないで、自分をコントロールできる。
確かに、うなずける一つ一つだと思います。
借金の経験のある人は多いと思います。借金を返す当てのない人が借金すると、借金の奴隷となり、破たんを招く例も、非常に多いと思います。高利貸しから百万円を借りて競馬でもうけようとしたが大損し、ついに、親や兄弟の身代まですってしまった人のことを聞きました。
自分のできること以上に借りてやっていこうとするのは、しょせん無理ではないでしょうか。自分自身の心の中に、エネルギーというか、わきあがる力を持たない者が、他人のものをたよりにして生きる人生は、借金で身を破滅に追いこむ生き方に似ています。
イエス・キリストは、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。……わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四13―14)と言われました。ヤコブも、こう語りました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」(ヤコブ一5)。
神から与えられたいのちの水を飲んで、それに従って生きる時、ほんとうの人生の成功者となるのではないでしょうか。

 

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◆神よ。御恵みによって、私に情けをかけ……。

2012年08月29日 12時14分20秒 | 聖書

(詩篇五一・一)

ケアリ博士が重病の床にあった時、「もしこの病が致命的なものならば、あなたの葬式の時の説教にはどの箇所を読みましょう」という質問がなされた。博士は、「私のような罪深い者は、話してもらう値打ちもありませんが、どうしても葬式の説教をしなければならないのでしたら、『神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください』の所をお願いします」と答えた。さらに博士は、これと同じ謙遜な心をもって、自分の墓石に次のように書くように遺言し、これ以外のことは記してはならないと言った。
 ウィリアム・ケアリ
 一七六一年八月十七日 生
 ………………………… 没
「みじめにして貧しく、力のない虫のような私
は、あなたの優しい御手によって眠る。」
最も経験の深い、最も尊敬に値する聖徒は、ただ無代価の恵みという足場によってのみ神に近づく。人間の中で最高の部類に属する人たちは、自分たちが単なる人間にすぎないことを知っている。積荷のない船は、水上に高く浮き上がるが、多くの荷を積んだ船は、水中に船体を沈めている。口先のみの信者は大言壮語するが、真の神の子は自分がふつつかなしもべであることを認め、神の恵みを求めて叫ぶ。
私たち自身の良き働き、祈り、説教、施し、そして最も神聖な物事の上にも主のあわれみを求めなければならない。血はイスラエル人の家の入口の柱だけではなく、聖所にも、恵みの御座にも、祭壇にも注がれていた。罪は私たちの最も神聖視するものの中にも侵入するからである。そこにも汚れをきよめるためにイエスの血潮を必要とするのである。もし私たちの義務にも恵みを求めなければならないとしたら、まして罪に対してはどれほどであろう。
尽きることのないあわれみが、私たちを祝福し、信仰の後退を回復させ、私たちの砕かれた骨を喜ばせようとして待機しているとは、なんと快いことだろう。

 

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●労基法上の休憩規定●

2012年08月29日 12時11分49秒 | 労働法

 労基法で規定されている休憩時間は、労働時間が6時間を超えた場合に45分以上、8時間を超えた場合に1時間以上、となっています。つまり労働時間が6時間の場合には労基法上休憩時間はいらないことになります。
 労働時間が8時間を超えた場合ですが、それ以上の労働時間については1時間の休憩を与えるだけで足りることになります。
 休憩時間は、労働時間の途中に与えることとされていますが、時間の具体的な指定はありません。ですからお昼に休みを与えなくても違法となるものではありません。
 休憩は職場で一斉に与えなければならないという「一斉付与」の原則があります。しかしこれには例外があって、労使協定による場合と、サービス業などの業種による例外があります。所定の業種に該当しない場合には、労使協定によらなければ、一斉休憩の原則の例外扱いにはなりません。
 特に重要なのは「自由利用の原則」です。休憩時間中は労働から100%解放されている必要があり、それが確保されないときには、休憩とはみなされません。ただし自由利用が原則とはいっても、休憩終了後に業務に支障が出るような休憩時間の活用に対しては、会社はそれに制限を加えることができます。
 例えば社外への外出ですが、許可制も容認されています。つまり職場内で自由に休憩ができる状態であれば構わないとしています。

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