座間コミニティー

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◆このわたしは荒野で、

2014年10月31日 16時20分51秒 | 聖書

かわいた地で、あなたを知っていた。(ホセア一三・五)

しかり、主よ。あなたは私が堕落していた時の様を知っておられました。その時でさえ、あなたは私をあなたのものとして選ばれました。私が汚れ、自分自身を嫌悪するほかなかった時、子どもとして私を受け入れ、私の燃えるような心の要求を満たされました。この自由な、豊かな、あふれるばかりのあわれみよ。このために私はとこしえにあなたの御名をたたえます。
その後も私の内なる経験は、しばしば荒野でした。しかし、なお私を愛する者として所有され、愛と恵みの流れを注いで私を喜ばせ、実り多い者とされました。ああ、外の環境が最悪であり、私がかんばつの地にさまよい出た時にも、あなたの楽しいご臨在は私を慰めました。嘲笑が私を待っていた時、人々はそれを知りませんでしたが、あなたのみ、逆境の中にいる私のたましいを知っておられました。なぜなら、どのような苦難もあなたの愛の輝きを曇らせることはないからです。いと高き恵み深き主よ。試みの中にあった時、いつも誠実であられたあなたをほめたたえます。そして、私はあなたの柔和と愛に一切を負っているのに、あなたを忘れ、心に高ぶりを覚えていたことを嘆き悲しみます。主よ。あなたのしもべをあわれんでください。
私のたましいよ。おまえが卑しかった時、このようにイエスがおまえを顧みられたとすれば、繁栄している今も、主ご自身とそのみこころの支配下にあることを確信せよ。世の成功によって高慢になり、真理を恥じ、属する教会を恥じてはならない。主に従って荒野に行け。迫害の火の手が燃え上がっている時にも、主と共に十字架を負え。おまえが貧乏と恥辱の中にあった時も、主はおまえをご自身のものとして所有された。決して主を恥じて主にそむいてはならない。おお、私の愛する方を恥じるとは、思うだけでも恥辱である。イエス様。私のたましいはあなたにすがります。
 最も輝かしく、麗しき主よ
 私のたましいはあなたにすがります
 心労の夜にも、また光の昼にも

 

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第2サムエル記24章10-14節

2014年10月31日 16時20分08秒 | 聖書

24:10 ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」



 ダビデは、戦える民の総数の報告をヨアブから受けた後、心の内にとがめを感じました。

つまり、神様の前に愚かなことをしたと感じたのです。

それは、神様に頼らずに、自分の力と自分たちの勢力によって戦いの勝利の確認を得ようとした、つまり自分の下にいる人の力によって戦いに出ようとした、愚かさから出た行為であったからです。

ダビデは、主にのみ信頼すべきであったのに、自分に属する力に依存しようとしたのでした。

 このことで良心のとがめを感じたダビデは、すぐ主の前に行って、悔い改めました。

そして同時に、自分はこのためにどのような裁きも受けますと告げたのです。

支配者としてあるまじき行為を取ったことによる、その責任を感じて神の裁きを受けることを申し出たのです。

そのことによって、彼は新たにされることを求めたのでした。


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「主よ。いつまででしょうか。

2014年10月31日 16時16分53秒 | 聖書

あなたはいつまでも身をお隠しになるのでしょうか」(詩篇89:46)

詩篇にしばしば出て来る。「帰って来て下さい。
主よ。いつまでこのようなのですか」神がいないかのように感じられる体験だ。
祈りが聞かれているように感じない。神が遙か遠い。
神の不在感だ。信仰生活の中で経験する。
これには二つの場合がある。
一つは罪を犯した時で、罪は神との間を遮断する。
罪は神との親しい交わりを奪う。
これは必ず悔い改める必要がある。
その時に平安が戻る。
しかし、私達の側に問題が無いのに、不在感を経験する時がある。
それは罪とは関係なく、一段階成長のための神の取り扱いだ。
しばしば動揺し、混乱する。しかし、成長のためのテストだ。
何一つ感じられなくても、神に信頼し、神を愛し、神に従う事の訓練だ。
神が喜ばれるのは信仰だ。感じる事でなく信じる事だ。
今、罪の覚えが無いのに神が遠く感じられるだろうか。
その中で神を信じる事を求めておられる。
あなたが感じようが感じまいが、神は共におられる。
決して離れる事なく、あなたの人生に深く関与しておられる。
この訓練の結果、感情に関係なく、どんな時も神を信頼して歩むようになる。
そして、その信頼が、何か事が起こった時に「なぜ?なぜ?」でなく「これにより神は何を教えておられるのか」に。
視点と態度が変えられて行く。  
-----------------
暖かい喜びや、幸福感、潤いをいつも「感じて」いたいものだ。
しかし、信仰とは何も見えず感じない中で、神を信じて行く事だ。
見えたなら信仰でない。
時に「感じ」を取り去られ、全く何も見えない中で信じるようにされる。 

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今日の聖人の記念日

2014年10月31日 07時52分00秒 | キリスト教

聖ウォルフガング司教

920年-994年

 ウォルフガングは、ドイツ南部スウェーベンの貴族の家に生まれた。少年時代はベネディクト会修道院で学び、ヴュルツブルクの神学校に入り、司祭となった。956年に、友人のヘンリーがトリーアの大司教に任命されると、その教区の神学校校長に招かれた。ヘンリーが964年に亡くなると、スイスのアインジーデルンで隠修士となり、ハンガリーへ宣教に行った。しかし972年に皇帝オットー2世からレーゲンスブルクの司教に任命され、司祭や修道士の生活を指導する一方、皇帝のよき相談相手となった。彼自身は質素で厳しい生活を続け、貧しい人びとや病人の援助に力を尽くした。
 レーゲンスブルクの守護の聖人とされている。

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◆人をのろわば穴二つ

2014年10月31日 07時50分35秒 | 聖書

穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、
石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。(箴言二六27)

小さい時、私たちはよく落とし穴を掘って遊びました。原っぱに穴を掘り、その上を木の枝や草でおおって擬装し、人が落ちるのを楽しみにしていたものです。でも次の日に、自分のしかけた落とし穴を忘れて、自分で落ちてしまったということなども、確かあったようです。こんなことは遊びです。しかし、「人をのろわば穴二つ。」――これは、深刻な現実です。
聖書の中に、いくつか顕著な実例があります。ハマンという高官は、憎いユダヤ人のモルデカイを王にざん言し、彼をはりつけにするために、柱を立てておきました。しかし、そのハマンの悪だくみが王妃エステルによってあばかれた時、ハマンは、自分が立てたはりつけ柱にかけられてしまいました。エステル記に出ていることです(五―七章参照)。
ユダヤ人の預言者ダニエルを憎み、彼を落とし入れようとした大臣たちは、ダニエルを投げこもうと計画した獅子の穴に、自分たちが投げこまれる破目になってしまいました。旧約聖書ダニエル書に書かれています(六章参照)。のろいや悪だくみは、必ず、自分自身へののろい・わざわいとなって返ってきます。
そして愛もまた、必ず、勝利と祝福を持って返ってくるのではないでしょうか。聖書は言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。……いつまでも残るものは……愛です」(Ⅰコリント一三4―813)。

 

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◆ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

2014年10月31日 07時49分40秒 | 聖書

(詩篇五一・一〇)

信仰後退者が、もしその内にわずかでも残りの火をとどめているならば、回復を求めてうめくであろう。彼が再び新たにされるには、回心と同様の恵みの働きが必要である。私たちは回心の時、悔い改めが必要であった。今もたしかに悔い改めが必要である。私たちは最初キリストのもとに来るため、信仰を求めた。今もこれと同じ恵みのみが私たちをイエスのもとに行かせる。私たちはその時、私たちの恐れに終止符を打つため、いと高き方のみことば、愛する者のくちびるより出るみことばを必要とした。私たちは現在罪の意識の下にある時、なおそれを要することを発見するだろう。だれでも、初めに感じたような聖霊の力の真の顕現がなければ、新たにされることは不可能である。なぜなら、それは難事業であり、血肉は今も変わることなく行く手をふさいでいるからである。
クリスチャンよ。あなたの弱いことを、神に熱心に助けを求める理由とせよ。ダビデが自らの無力を感じた時、手をこまねくことなく、くちびるを閉じることなく、恵みの座に駆けつけて、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈ったことを覚えよ。あなたが一人では何事もなし得ないという教えを、怠惰の理由とせず、イスラエルの保護者に熱心に駆けつける理由とせよ。あなたが命をかけて「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と神に嘆願する恵みを得られるように。神に向かって真剣にこのように祈る者は、神の働かれる手段を用いることによって、自分が誠実であることを証明するであろう。
多く祈れ。神のみことばに生きよ。あなたから主を追い出した肉欲を殺せ。罪が再び頭をもたげないように警戒せよ。主はご自身の定められた方法を用意される。道のかたわらに座せ。主がお通りになる時、あなたは備えができていよう。あなたの恵みを養い育てる信仰の務めを続けよ。そして、すべての力が主から来なければならないことを知り、「ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」と叫ぶことをやめるな。

 

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第2サムエル記24章1-9節

2014年10月31日 07時48分25秒 | 聖書

24:3 すると、ヨアブは王に言った。「あなたの神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。王さまが、親しくこれをご覧になりますように。ところで、王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。」



 ダビデは軍隊が整えられ、自分の持つ力が頼りがいのあるものと見られてきた時、心の内に誇りを持つようになったようです。

そこで主は、そうした心を怒られて、彼に主の御心に反するような行動に出るようにされました。

それは、ダビデの高慢さがでた結果でありました。

その行為とは、ダビデをして、イスラエルとユダの民の全体の兵士の数を数えさせるということでした。

 ダビデは自分の思いから、将軍のヨアブと彼の下にいる将軍達に、民の数を数えるように命令をしました。

しかしヨアブには、なぜそれを行うのかという理由がわかりませんでした。

ですから、そのようなことをなぜ行うのですかとダビデに尋ねました。

ダビデはその理由を伝えないで、ただ命令を実行するように告げました。

その数は130万人でした。

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ヨハネの福音書11章35節(詩篇75篇)

2014年10月31日 07時45分53秒 | 聖書

★イエスは涙を流された。


■O:今日のコラム

今日のみことばはとても短いですが、その中に多くの真理が隠されています。イエス様が涙を流された。なぜ、イエス様は涙を流されたのでしょうか。
一般的に考えるなら、大切な人であるラザロの死を悲しんで涙を流されたと考えられます。しかし、このヨハネの11章全体を見るなら、そのことが主な原因ではないことが考えられます。
まず、このラザロの復活という一連の出来事のベースは、イエス様の愛であったことがわかります。
「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」(5節)
イエス様は、マルタとマリヤ、そしてラザロを愛しておられました。イエス様の動機がいつも愛であることを覚えておく必要があります。
続いて、イエス様は大変なリスクを犯していたことがわかります。
「そのようなわけで、 イエスは、 ラザロが病んでいることを聞かれたときも、 そのおられた所になお二日とどまられた。その後、 イエスは、 「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。 「先生。 たった今ユダヤ人たちが、 あなたを石打ちにしようとしていたのに、 またそこにおいでになるのですか。 」」(6-8節)
イエス様は、先に進もうと思えば進むこともできました。しかし、自分が石打で殺されそうになった人たちがたくさんいるところに、あえて戻っていったのです。ここでとどまられた二日間は、もしかしたらイエス様も悩まれていたのかもしれません。しかし、リスクを犯してまでも、愛するラザロをよみがえらせたいという愛がイエス様をラザロのところに引き戻したのではないかと思います。
そしてイエス様がベタニヤに戻って来られた時、最初にお迎えに行ったのはマルタでした。さすがもてなしの賜物を持ったマルタです。そして、イエス様にこのように言います。「マルタはイエスに向かって言った。 「主よ。 もしここにいてくださったなら、 私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)
姉の心中を考えたら、当然のことでしょう。それに対してイエス様はこのように答えられます。
「イエスは言われた。 「わたしは、 よみがえりです。 いのちです。 わたしを信じる者は、 死んでも生きるのです。また、 生きていてわたしを信じる者は、 決して死ぬことがありません。 このことを信じますか。 」」(25-26節)
とても励まされるみことばです。この答えに対して、マルタは信じますと告白し、家に戻ります。イエス様がマルタにされたことはここまででした。
しかし、その後、マルタはイエス様がベタニヤに戻って来られたことをマリヤに伝えると、マリヤは急いで出ていき、イエス様にこのように言われます。
「マリヤは、 イエスのおられた所に来て、 お目にかかると、 その足もとにひれ伏して言った。 「主よ。 もしここにいてくださったなら、 私の兄弟は死ななかったでしょうに。 」 」(32節)
気づきましたか?マルタとマリヤは、全く同じ事をイエス様に言ったのです。しかし、マリアがこの事を言った後、イエス様はどのように答えられたでしょうか。それが今日のみことばです。「イエスは涙を流された」(35節)
姉妹が全く同じ言葉を言ったのに、どうしてこのような違いが起こったのでしょうか。それは、それぞれの心の態度の違いがあったのではないかと思います。
マルタは、「イエスに向かって言った。」と書かれています。向かってということは、恐らくマルタのことですので、イエス様の顔を見ながら、怒り混じりに言ったのではないかと思います。
一方マリヤはどのように言ったかというと、「その足もとにひれ伏して言った。」と書かれています。マリヤはイエス様の顔を見ることもできず、ただ主の足もとにひれ伏して涙ながらに訴えたのではないかと思います。この涙ながらの訴えがイエス様の心を動かしたのだと思います。33節には、このように書かれています。
「そこでイエスは、 彼女が泣き、 彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、 霊の憤りを覚え、 心の動揺を感じて、」
霊の憤りとは「エンブリマオマイ」というギリシャ語で、激しく攻め立てるという意味があります。また、心の動揺とは、「タラソー」というギリシャ語で、かき乱すという意味があります。ベテスダの池をかき混ぜるというところでも同じ言葉が使われています。つまり、マリヤの訴えがイエス様に激しい霊の攻め立てを起こし、そのことによってイエス様の心はかき乱されてしまったのです。
マリヤの訴えはイエス様の心を動かしました。結果、ラザロは死後4日もたっていたにも関わらず、イエス様の「ラザロよ、出てきなさい!」という御言葉で生き返りました。イエス様の心をかき乱し、ラザロに向かわせたのはマリヤの砕かれた礼拝者としての姿勢でした。
もし、私たちが高ぶった心を持ったまま、マルタのようにイエス様に訴えるなら、イエス様からの諭しをいただけるかもしれません。しかし、私たちが日々悔い改めを持って、真の礼拝者の心を持って主の足もとにひれ伏し、願い求めるなら、主はその姿に心動かされ、涙を流して訴えを聞いてくださいます。
「あなたがたがわたしにとどまり、 わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、 何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。 そうすれば、 あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネの福音書15:7)
何かをしてほしいからという心を持ってイエス様のところに行くのではなく、イエス様を愛するがゆえに御もとに行き、そこにとどまり続けるなら、主はその訴えを聞いてくださいます。皆さんに真の礼拝者であるマリヤの心が与えられることを祈ります。


■A:考えてみよう

私たちは上辺だけでイエス様に訴えをしていないだろうか。自分の働きを中心にしてしまっていないだろうか。どんなことでも、自分を中心にしてしまうと、それは的外れ(ハマルティア=罪)な生き方となってしまいます。
私たちは一瞬たりとも、イエス様の側を離れて生きていくことはできません。私たちの中心はイエス様です。私たちが本当に心砕かれて、イエス様の側に行くなら、イエス様も私たちに寄り添って、涙を流して私たちに答えてくださいます。
そのためにも、自分の必要なときにだけイエス様の側に行くようなご利益信仰的な生き方をやめ、どんな時もイエス様の側にとどまり続ける生き方に変えられていきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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10月30日(木)のつぶやき

2014年10月31日 01時35分01秒 | キリスト教
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◆庭の中に住む仲間たちは、

2014年10月30日 16時11分13秒 | 聖書

あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。(雅歌八・一三)

主イエスは、ゲツセマネの園を去り、今主の教会の園の中に住んでおられるが、あの園のことをよく覚えておられる。そして今住んでおられる教会の園においても、主の幸いな仲間に加わっている者に、御心を打ち明けてお語りになる。その御声には、すべての人間の音楽も及ばない愛のメロディーがある。
地上における何万の人々、天上における何百万の人々が、その調和のある音楽を楽しんでいる。私がよく知り、うらやましく思っていた人々は、今なつかしい御声に耳を傾けている。おお、私もその喜びにあずかることができたなら! これらの人々のうち、ある者は貧しく、他の者は長く病床にあり、さらにある者は死の門に近づいている。しかし、おお、私の主よ。あなたの御声さえ聞くことができるならば、私は喜んで彼らと共に飢え、やせ衰え、共に死にたい。
かつて私は、しばしばあなたの御声を聞いていました。しかし、あなたの御霊を悲しませました。私をあわれみ、私のところに帰ってください。再び「わたしがあなたの救いだ」と御声をかけてください。他のどのような声も私を満足させません。私はあなたの御声を知っています。私に御声を聞かせてください。あなたが何と言われるかは知りません。そして、条件をつけることをしません。愛する主よ。ただあなたの御声を聞かせてください。それが叱責ならば、そのためにあなたをあがめます。私の鈍い耳をきよめるために、肉にとって非常な苦痛である手術を要するかもしれません。しかし、どんな犠牲が必要でも、ただ、御声を聞くことができない者とはしないでください。
今夜、あなたの卑しいしもべの、この願いを許してください。私はあなたの血で贖われ、あなたのものなのですから。あなたが私の目を開き、あなたを見ることを得させてくださったために、私は救われました。主よ。私の耳を開いてください。私はあなたの御心を読みました。今、あなたのくちびるの御声に耳を傾けさせてください。

 

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「それは、肉に従って歩まず、

2014年10月30日 16時10分04秒 | 聖書

御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」(ローマ8:4)

「肉の思いは神に対して反抗するもの」とはっきり御言葉に言われているように、それは律法に服従しないし、できない。
神の言葉を聞くと敵対し、反発する心が私達の内にあるのだ。
だから、神の言葉を受け入れない、受け入れたくない心が働く。
肉とはそういうものだ。救われた私達には御霊の内住がある。
それゆえ御霊と肉、二つの生き方が内にある。
これが葛藤する。
どちらかに従い、それは必ず結実する。ある時は朝から気分良く聖書を読み祈りで始める。
親切で良い人だ。しかし、何か事が起きると、怒り、敵対感情むき出しになる。
別人に思うほどに異なる。肉によって歩む私達はハチャメチャだ。
例えば人と問題が生じた時、御霊は「赦せ」と言われる。
しかし、肉は言う「言い返せ。スッとするぞ。図に乗らせるな。
ピシッ!と言った方が今後のためだ」そして肉に従うと、相手にも周囲にも害毒を流し、証しはぶち壊しになり、平安も失せ、何の良い事もない。
経験あるだろう。常に二つの性質が葛藤している。
自分に信仰生活は出来ない事を認めて、自らを明け渡し、御霊に従って歩むことだ。
すると、御霊の助けにより、肉には出来なかった事が、不思議にできるようにされる。
御霊の力だ。「御霊に従って歩む中に律法の要求が全うされる」からだ。
-----------------
自分の力では何一つ出来ない。仮に外側出来ても内実が何も無い。
しかし自分の無力をとことん知り、自分に失望し絶望した時に、神のみわざと愛を経験する。
何一つ要求しておられない。
「出来ません。助けて」だけを求めておられる。 

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今日の聖人の記念日

2014年10月30日 07時00分21秒 | キリスト教

聖アルフォンソ・ロドリゲス

1531年-1617年

 アルフォンソは、スペイン、セゴビアの裕福な商人の家に生まれ、14歳のときに父を亡くして後を継いだ。26歳のとき結婚し、子どもにも恵まれたが、幸福な家庭生活も束の間、妻や子どもたちが次々と亡くなり、商売も不況という試練に見舞われた。アルフォンソはすべてを神に委ね、これからの人生を神に仕えたいと司祭になることを決心し、イエズス会への入会を望んだ。しかし、34歳という年齢の高さや、体力、学力などの理由で、6年間入会を断わられ続けた。しかし、とうとう管区長は、アルフォンソの熱心さとその徳の高さを認め、修道士として入会を許可した。翌年マジョルカ島のパルマに派遣され、その日から46年間イエズス会の学校の受付として仕事に励んだ。

 学校を訪れる客は、アルフォンソの優しく、礼儀正しい態度に感動し、彼が聖人だという評判が広まり、あらゆる階層の人びとが彼に助言や指導を求めに訪れた。その中に、当時神学生であり、のちに黒人奴隷の使徒となった聖ペトロ・クラヴェル司祭(9.9参照)もいた。

 「神のために忍んだ災難と繁栄の違いは、金と鉛の違いよりも大きい。」
               (聖アルフォンソ・ロドリゲス)

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◆巧言令色すくなし仁

2014年10月30日 06時59分02秒 | 聖書

声を和らげて語りかけても、それを信じるな。
その心には
七つの忌みきらわれるものがあるから。(箴言二六25)

「人を見たらどろぼうと思え」ということばがあります。
人間をそのことばどおり信じるな。人のことばは表面上のもので、「その心の中には七つもの忌まわしい思い・悪い心がひそんでいる」というのです。悲しいことです。しかし、悲しい現実ではないでしょうか。
ソロモンは、ことばがじょうずで、心が悪い人の姿を「銀の上薬を塗った土の器のようだ」(箴言二六23)と言いました。銀むくだと人に思わせますが、中味が違うのです。中国でも、「巧言令色すくなし仁」といって、ことば巧みな人は警戒せよ。真実の人は少ない、必ずといっていいほど裏があると警告しています。私たち人間には裏表がある、口と心の不一致がある。――このことは、人を判断するためによく知っておくべきでしょう。しかし、何よりもこれを自らに当てはめてみて、反省材料にすべきではないかと思います。
いったいどんな、いやな心・みにくい心・神に忌みきらわれる心が、私たちのうちにあるのでしょうか。
イエス・キリストは、こう言われました。「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。……内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ七15―23)。
イエス・キリストは、またこう言われました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)。忌まわしい、人をけがすものではなく、こんな新しい泉を心の中に持ちたいものです。

 

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◆私は心を尽くして主に感謝します。

2014年10月30日 06時58分08秒 | 聖書

(詩篇九・一)

祈りが答えられた時、いつでも感謝がなされなければならない。それはちょうど天上の愛の太陽が地を暖める時、地の感謝の霧が立ち上るようである。主はあなたにあわれみ深く、あなたの訴えに耳を傾けられたか。それならあなたは生きている限り主に感謝せよ。熟した果物を、それにいのちを与えた源である肥えた地の上に落とせ。あなたの祈りに答え、あなたの心の願いをかなえられた方に歌をささげることを拒んではならない。神のあわれみに対して沈黙を守ることは、忘恩の罪を犯すことになる。それは、病をいやされたのに、いやし主に感謝をしに帰らなかった九人と同様、卑しいことである。
神に対する感謝を忘れるのは、私たち自身を益することを拒むことである。なぜなら感謝は、祈りと同様、私たちの霊的生活の成長を促進する有力な手段だからである。感謝は私たちの重荷を去り、希望を盛んにし、信仰を増進させることを助ける。それは、信者の活力を盛んにし、主の御用のため新しいことを企てる勇気を与える、健全な、また活気ある活動である。
神に対し、受けた恵みを感謝することは、私たちの友をも益する道である。「貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。」もし私たちが「私とともに主をほめよ、共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった」と言うことができれば、私たちと同様な事情の下にある者は慰められるであろう。私たちの「救いの歌」を聞いて、心の弱い者は強められ、うなだれた聖徒は力づけられるだろう。私たちが詩と賛美と霊の歌とにより、互いに教え、互いに戒めるならば、彼らの疑いや恐れは消え去るであろう。私たちが、主の聖なる御名をあがめるのを彼らが聞く時、彼らもまた「主の道について歌う」であろう。
クリスチャンの義務の中で最もすばらしいのは感謝である。天使は祈ることはしないが、昼も夜も感謝をやめない。贖われた者は白い衣を着、しゅろの枝を手に、うむことなく「小羊はふさわしい」とたたえる新しい歌を歌う。

 

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第2サムエル記23章24-39節

2014年10月30日 06時56分50秒 | 聖書

23:24 あの三十人の中には次の者がいた。ヨアブの兄弟アサエル。ベツレヘムの出のドドの子エルハナン。
23:39 ヘテ人ウリヤ。全部で三十七人である。



 ダビデの下にいた、先の30名がどのような人々であったのかということが、その名前を告げられることによって語られています。

そこには、ハドデ人やペレテ人、アナトテ人など、いろいろな民族から出身の人の名前が出てきます。

こうした人々は、それぞれのいろいろな民族の中から出てきたというのです。

その結果として、総数が37名であったというのです。 

先に30名と言っていたのに、その名をあげたあと総数は37名と言っているのはどういうことでしょう。

それは、先の3名の勇士とその下にいる3名の勇士と、1歴代誌11章に書かれている、アフライの子ザバデを加えて、合計37名となったようです。

つまり、このことは、こうしたあり方で組織をを作り上げていったと語っているのです。

組織は、組織のためのものではありません。

秩序を持たせるために組織を作ることによって、主に仕える働きを共にするためであるのです。


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