座間コミニティー

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◆ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、

2014年06月30日 16時23分37秒 | 聖書

伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。(エレミヤ三二・一七)

カルデヤ人がエルサレムを囲み、剣と飢きんと疫病が国中を荒らしていた時、エレミヤは神によって、畑を買い、封印し署名した合法的な購入証書を作成するように命じられた。このような売買は、思慮のある人にとっては理解しにくいことである。このような売買は、およそ正当とは考えられない。なぜなら、ほとんど利用する可能性のない土地の購入だからである。
しかしエレミヤには、神が命じられたというだけで十分であった。彼は、神がすべての神の子どもたちに対して正しい取り扱いをなされることをよく知っていたからである。彼は次のように考えた。「おお、主なる神。あなたはこの小さな土地を私に使わせることがおできになります。あなたはこの国から、迫害者を取り除くことがおできになります。あなたは私が買った土地のぶどうやいちじくの陰で、私を憩わせることがおできになります。あなたは天地を造られた方であり、あなたにできないことは何一つないからです」と。
昔の聖徒はこのように偉大な考えをもっていた。すなわち彼らは、神のご命令があれば、肉の理性が受けつけないことをさえ、あえてしたのである。ノアは乾いた地面に舟を造り、アブラハムはひとり子をささげ、モーセはエジプトの富を軽んじ、ヨシュアはエリコを七日間包囲し、武器を用いないで雄羊の角笛を吹き鳴らした。これらの人々は、肉の理性が命じるところに反対して、神のご命令に従った。主は、彼らの従順な信仰の結果として、豊かな報いをお与えになった。
今日のキリスト教に欠けているのは、神に対するこの英雄的信仰である。もし私たちが神のお約束に対して、さらに素直な信頼を寄せるならば、私たちはかつて知らなかった驚異の世界に入るのである。エレミヤの信頼を、私たちのものにしようではないか。――天地を創造された神に何一つできないことはないからである。

 

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「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、

2014年06月30日 16時22分41秒 | 聖書

わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ…」(イザヤ55:11)

私達は意志が強ければと思う。
祈り続けられる意志があれば、必ず答えられるのにと。
しかし、人間の意志の力が物事を実現させるのではない。
神の意志が、物事を実現させるのだ。
だから、神の御心が重要だ。
しばしば、自分の望む事、又、主が望んでおられるのではと「自分が思う事」を神の御心と勘違いする。
しかし、成就しないので、いぶかる。
ある人が、これぞ御心と思うが、決してうまく行かなかったと証しした。
後にそれは、神の望む事ではなく、自分が、神のためにし
たいと望む事をしていたと気づかされた。
が、神のためとの大義名分に隠れて、なかなか気づかなかったと。
「自分が望む」神の言葉でなく「神の口から出た」言葉が成就する。
決して虚しく帰らない。どうすればよいのか。
まず自分自身の意志を明け渡す事だ。
自分の意志が妨げる。
私達自身の意志が、神の意志に服し、御旨を選んで行く時、神の力が御旨を実現させて行く。
---------------
自分の口から出る言葉でなく、神の口から出る言葉が成就する。
「神から」発した事だけが神によって成り神に至る。
自分が望む事でなく、神が私に望まれる事に視点を置いて御言葉を聞こう。

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今日の聖人の記念日

2014年06月30日 08時10分31秒 | キリスト教

ローマ教会最初の殉教者たち

64年

 64年7月、皇帝ネロの時代に、ローマの町が大火にみまわれた。ネロは、その原因をキリスト者による放火であるとして、彼らをバチカンの丘で処刑した。使徒ペトロとパウロを祝った次の日、教会は、 皇帝ネロによって虐殺されたローマのキリスト者たちを記念する。歴史家キトゥス(120年没)の年代記によると、キリスト者と呼ばれていた人々はおびただしい数で、彼らはネロの気晴らしのために殺されたという。野獣の毛皮を着せられて犬に引き裂かれたり、夜になると、十字架につけられた者が生きたまま暗闇を照らす松明とされた者もあった。一人の残忍さによって命を絶たれた多くのキリスト者には、多くのローマ市民も同情した。

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◆思慮は宝である

2014年06月30日 08時09分26秒 | 聖書

思慮のあるしもべは、恥知らずの子を治め、
その兄弟たちの間にあって、
資産の分け前を受け継ぐ。      (箴言一七2)

ほんとうの意味で人生で成功する人は、思慮深い人だと思います。思慮深い人は人を生かせる人なので、多くの人が集まってきて、人のリーダーになります。また、生きた物や金の使い方ができるので、物や金が集まってきます。そんな意味でも成功者になります。
思慮深い人とは、アイデアマンとか、単に頭がいい人ではありません。第一に、現在の目の前のことばかりでなく、人の見えない将来が見える人です。第二に、自分の都合・損得・気持ちがいい悪いに損なわれることなく、人の気持ち・立場・全体がよく見える人です。第三に、何が正しいか、何が価値のあることか、何がなすべきことかがはっきり分かる人です。
まとめて言えば、ほんとうの思慮深さとは、自分や人間のレベルの目ではなく神の目を持つことです。神がどう見ておられるかが分かり、神の目をもって自分を見、人を見ます。ですから、自分の弱さや罪深さを十分知りながら、人々をありのままに受け入れ、愛し尊ぶことができます。そこで、いつしか人々を生かすリーダーとなります。また、神の目をもって金や物をも見ます。それは神が与え、神から預けられたものであり、自分は正しい管理者だと心得るので、奪い、自分だけもうけることよりも、与え、よく用いることに心がけます。そこで、金と物を任せられ、成功者となるのです。このように思慮深い人は、人と神との信頼を受けて治める者となります。
ヨセフはしもべでしたが、主人の家を治め、ついにはエジプトの宰相となりました。ソロモンの思慮深いしもべヤロブアムは、ソロモンの恥知らずの子レハブアムと資産を分け、思慮深い少年サムエルは、祭司エリの恥多き子よりも抜きん出て、真の民の指導者となったのです。聖書は、思慮深い人を造りあげます。

 

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◆わたしは、

2014年06月30日 08時08分44秒 | 聖書

あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。(ヨハネ一七・二二)

見よ。主イエスの限りない心の広さを。主は私たちにその所有のすべてを与えられた。主がその所有のごくわずかを与えられるだけでも、天使の世界のすべてを限りなく富ませたことであろう。しかし主は、そのもっておられるすべてを私たちに与え尽くすまでは満足されなかった。もし私たちに、ご自身のあわれみの食卓からパンくずを食することを許されたとするならば、それすらも驚くべき恵みであろう。しかし主は中途半端なことはなさらない。私たちをご自身と共に食卓に着かせ、私たちと共にごちそうを食される。主がその宝庫よりごくわずかを与えられるとしても、それに応えて永遠までも主を愛すべきである。しかし実際は、それどころではなく、主はその花嫁をご自身のように富ませ、栄光と恵みを共に分かとうとされる。私たちを共同相続人とし、私たちがご自身と同じものを所有するようになるまでは満足をされない。
主はその財産のすべてを教会の倉に移し、すべてのものを贖われた民と共有される。主の家には、主がかぎを保管して、その民に任せられない部屋は一つとしてない。ご自分の所有物を民に自由に取らせ、彼らを愛し、その宝を自由に用いさせ、彼らがもち得る限りを自分たちのものとしてもたせられる。キリストは、その愛と恵みに満ちたびんを信者のくちびるに当て、永遠に飲み続けるようにと命ぜられるのである。それを飲みほすことができれば、それでよい。主はそれを望まれる。しかし飲みほすことができないので、主は十分に飲むようにと命ぜられる。それはすべて主にある者の所有だからである。天にも地にも、これにまさる真実な親しい交わりの証拠があるだろうか。
 自分のものではない美をまとい
 御座の前に立つとき
 あなたのありのままの姿を見
 汚れのない心であなたを愛するとき
 主よ。そのとき初めてほんとうに
 いかに多く与えられているかを知ります

 

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第1サムエル記1章11-16節

2014年06月30日 08時07分21秒 | 聖書

1:16 そのとき、ダビデは彼に言った。「おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、『私は主に油そそがれた方を殺した』と言って証言したからである。」
 


 ダビデは彼からの報告で、サウルが死んだこと、またヨナタンが死んだことを聞きました。

そこでダビデは若者の意に反して、喜ぶどころか、非常に悲しみました。

そして夕方まで断食をしました。

その後、彼はその若者に尋ねて、おまえはどこの者かと聞きました。

彼はアマレク人だと答えました。

つまり戦闘に参加した人物ではなかったのです。

それにもかかわらず、彼は自分が王を殺したと言っていたのですから、ダビデは「この若者を捕らえて殺せ」と命じて殺させました。

神がた立てた者を殺害したということの責任を取らせたのです。

しかも、サウルを殺したということが事実でなかったとしても、彼が自分の口でそのように語ったのだから、自分で責任を取れといったのです。

彼は自らダビデの心を読み違え、また自分の思い違いによってダビデを怒らせ、ついに殺されてしまいました。

まさに、欲がはらんで罪と死を産んだのでした。

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コリント人への手紙 第一5章2,6節(申命記21章)

2014年06月30日 08時05分05秒 | 聖書

★  それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。
あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。

■O:今日のコラム

教会の中で、兄弟の不正が明らかになるとき、私たちの取るべき反応は、どのようなものであろうか?

『いいんだよ。しょうがない。人間だから。』と言って受け入れることでしょうか?
コリント教会は、そのようにしていたようです。そして『私たちは、なんて寛容なのだろう』、と高ぶっていたようです。

それは、神のみこころでしょうか?
いいえ、違います。

神のみこころは、教会がきよめられることです。傷もシミもしわもない、純真なキリストの花嫁となった教会をイエス様は、待ち望んでおられます。主は、私たちに対して、そのようなときに悲しんで欲しいと言っておられます。この悲しみとは、主の前に悲しんでとりなすことを指します。

ある韓国の牧師から、聞いたのですが、韓国には『恨』(ハン)という国民性があると言っていました。『恨』とは、日本語でいうなら、嘆き悲しむことに近い意味の言葉だそうです。

韓国は、どの世代も戦争を体験し、その度に韓国はどん底のような生活に陥ったそうです。だから、韓国の民は、大声で嘆き悲しむ民となりました。

その韓国の嘆き悲しむマイナスの国民性は、福音の訪れとともに、十字架の力によって、いまだかつてどの国にもなかったほど、主の前に嘆き悲しんでとりなして祈る国民性という大きなプラスに変えられたのです!

その祈りによって、韓国は、世界一のキリスト教国となりました!
十字架は、マイナスをプラスに変える神の力です!

兄弟の不正、陰口、を知ったなら、まず、悲しんでとりなすのです。そして、悲しみ(とりなしの祈り)によって、深い悔い改めが与えられるようになるのです。

『神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。』(コリント人への手紙 第二 7章10節)

兄弟の不正に対する行うべき対応は、その不正の種類などによって、対応が変わってきます。

しかし、誰しもがすべき対応は、とりなしの祈りを捧げることです。

反対に『いいよ。しょうがない。人間だもの。』と悔い改めに至らせることなく、ただ何でも受容するならば、教会は主に捧げられるのに、ふさわしいものとはなりません。

教会がきよくあることを願おうという事を、8節では、「パン種のない、純粋で真実なパンで祭りをしよう!」と言っています。

私たち教会は、収穫され、砕かれて練られた、小麦の粉の塊とも言えるからです。

■A:考えてみよう

教会が純真できよい、パンの塊となっていけるように願おう!
まずは、自分がきよめられることから始めよう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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6月29日(日)のつぶやき

2014年06月30日 01時51分23秒 | キリスト教

申命記20章16節(コリント人への手紙 第一 4章) goo.gl/QmNKXt


「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、 goo.gl/1csa8U


◆バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、 goo.gl/mrLyoA


◆ When the princes of Babylon sent a lawyer to him, goo.gl/OkIs1E


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◆ When the princes of Babylon sent a lawyer to him,

2014年06月29日 16時03分00秒 | 聖書

and sought clarification about the sign shown in this land, and abandoned him to God in an attempt to him, to know all that is in its heart placed. (Thirty-two-thirty-one Ⅱ Chronicles)

Hezekiah was growing impudent in one's heart, became so proud to have the grace of God, mind to justify itself takes place, and began to rely on the safety of meat. As a result, the grace of God that was working actively has been removed time. This is intended to illustrate the folly against his Babironiya people. If there is anything the grace of God is like away from the best Christian, sin that is in their hearts, because alter even nefarious criminals him. If you are thrown away if, eager to Christ your cooled quickly, it will be of Laodicea Church "Namanuru is". You that the sight of the Lord now, have come to have a good chastity and virtue, so shall it be in the lurch devious think.
As of the month, our light is one borrowed. when grace shines on us, we shine. But the sun of righteousness if sink, we become dark. So, so that they will not that God never abandoned us, so you shout toward God.
"Lord. Please do not remove from us the Spirit of you." I, the Lord, those who watch it. Water was poured into the this constantly, no one, so as not to spoil it, you night and day It was said to be "are watching this also. so, Lord. Please protects us constantly no matter where you are. when the passion is too strong and young, please protect us. wisdom of yourself by old when it would otherwise have exposed that it goes up I think to be arrogant stupid than that because young people, please protect us. When we face death, please protect us. it is at the last moment Te, while the. we are alive as you do not have of refusing you, when you are going to die, when you work, when you are suffering, when you are fighting, when you are at rest, and protects us , please. Please observe even when where you are.. God. Because we will not require you everywhere "

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◆バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、

2014年06月29日 15時45分09秒 | 聖書

この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。(Ⅱ歴代三二・三一)

ヒゼキヤは心ひそかに増長し、神の恵みをもって高慢になったので、自らを義とする心が起こり、肉の安全に頼るようになった。その結果、活発に働いていた神の恵みが一時取り去られた。これは、彼のバビロニヤ人に対する愚行を説明するものである。神の恵みが最高のクリスチャンから離れるようなことがあるなら、その心にある罪は、彼を極悪な犯罪者にさえ変えてしまうからだ。あなたがもし捨てられるならば、あなたのキリストに対する熱心はたちまち冷却し、ラオデキヤ教会の「なまぬるさ」となるであろう。今主の御前に、立派な徳と節操をもって歩んでいるあなたが、よこしまな思いによろめくようになるであろう。
月のように、私たちの光は借りものである。恵みが私たちを照らす時、私たちは輝く。しかし義の太陽が沈むなら、私たちは暗黒になる。だから、神が私たちを決して見捨てられることのないように、神に向かって叫ぼう。
「主よ。あなたの御霊を私たちから取り去らないでください。あなたは『わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている』と言われました。それで、主よ。どこにいても絶えず私たちを守ってください。若くて熱情が強くなりすぎる時、私たちを守ってください。年老いて自分の知恵に思いあがり、それゆえ若者よりも愚かで尊大であることを露呈してしまうような時、私たちを守ってください。私たちが死に臨む時、私たちを守ってください。最後の瞬間になって、あなたを拒むことのありませんように。私たちが生きている間、死のうとする時、働いている時、苦しんでいる時、戦っている時、休息している時、私たちを守ってください。どこにいる時にもお守りください。神様。私たちはどこにおいてもあなたを必要としていますから。」

 

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「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、

2014年06月29日 15時43分59秒 | 聖書

主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)

サタンの誘惑は巧妙だ。ギャンブルや泥酔、妬み、憎悪なら、誰でもすぐわかる。
しかし、サタンは光の天使に、神に偽装する。
光の天使の正義の仮面をつけて来る。よくある事だ。
自分の思う正しい理想を、家庭や職場、教会で実現させようと、やっきになる。
正しい事なので、サタンの誘惑だと気づかない。
理想は良いものだが、間違うと理想は偶像となり、自分を縛りつける。
現状がそうでないと、落ち込み、幻滅し、周囲を責め裁く。
正反対の方向へ向かわせるサタンの誘惑だ。
そこに、すべての権威と主権を持ち状況を支配しておられる主を認める時、サタンが見えて来る。
又、御言葉を持って来て、神殿から飛び降りる事を試みさせる。
これは神と御言葉で、自分を正当化する事だ。
サタンは御言葉もどきを持って来て、自分の欲望を、あたかも神の御心のごとくに欺く。
要注意だ。今も誘惑されていないか。戦う相手をしっかり見極めよう。
---------------------
御言葉によって、常に行く道を照らされていなければ、私達は自分の感情に翻弄されサタンに足場を与えて行く。
今の思考、行動の動機はどこから来ているのか、よく見極めて行けます様に。

 

"Not against flesh and blood, also rulers, the world's sovereignty, power, of this darkness, our fighting is for all sorts of evil spirits in Heaven" (Ephesians 6:12)

Temptation of Satan's clever. Gambling and drunkenness, envy, if hatred, it can be seen immediately by anyone.
However, the angel of light, Satan is disguised as God.
Come with a mask of justice of the angel of light. As is often.
In an effort to realize the home and workplace, the church, the correct ideal oneself, get heated.
Since such right thing, you do not notice that it is temptation of Satan.
Ideal is a good thing, but the ideal becomes the idol is a mistake, you tie yourself.
Current situation is not the case, depression, and disillusionment, to judge blame around.
It is a temptation of Satan to direct to the opposite direction.
When you allow the Lord to be woven in there, you can dominate the situation has sovereignty and authority of all, Satan comes into view.
Also, bring the Word, causing tried to jump off the temple.
In His Word and God, this thing to justify yourself.
To come with a mock Word, Satan deceive as to the will of God, as if their desires.
Watch out. Do not be tempted even now. Let Mikiwameyo firmly opponent to fight.
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By God's Word, if it is not lit the way to go at all times, we go give a foothold to Satan at the mercy of their emotions.
Where thinking of now, motivation of behavior what's coming to you like you go to assess well.

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今日の聖人の記念日

2014年06月29日 08時11分24秒 | キリスト教

聖ペトロ使徒

1世紀

 ペトロは、ゲネサレト湖畔のベトサイダの貧しい漁師ヨナとヨハンナの子として生まれ、弟アンドレと共に漁をしながら信心深い生活を送っていたといわれる。ペトロは、漁をしているとき、イエスから「人をすなどる者にしよう」と言われ、イエスの後に従った。彼の名は、初めはシモンであったが、イエスが「岩」を意味する「ペトロ」という名前をつけられた。のちにイエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなくことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16.18-19)と約束された。復活されたイエスからは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、ローマ教会を導いた。

 67年、皇帝ネロによってキリスト教迫害が始まったとき、信者たちの勧めでローマを脱出しようとしたが、そのとき、十字架を背負ったイエスに出会った。ペトロが「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、どこに行かれるのですか)と尋ねると、イエスは「わたしは、ふたたび十字架につけられるためにローマに行くところだ」と答えられたという。ペトロは、それを聞いて自分の使命を悟り、ローマにすぐに引き返し、進んで十字架に逆さまにつけられて殉教した。ペトロが処刑された場所に、サン・ピエトロ大聖堂が建てられている。

 ペトロは、ローマの司教として33年勤め、その最期をまっとうしたといわれる。後に、ローマの司教は全教会の司教団の頭、つまり教皇としてペトロの使命を受け継いでいくことになった。そのため教皇職は、ペトロの座とも呼ばれている。

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◆貧しくても平和

2014年06月29日 08時10分06秒 | 聖書

一切れのかわいたパンがあって、
平和であるのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言一七1)

これは、美しい宮殿に住み、美しい女たちに囲まれ、山海の珍味に飽いていたソロモン王のことばです。彼は、ごちそうはあっても争いに満ちた王宮の生活から逃げ出したかったに違いありません。ソロモン王でなくても、「ごちそうなんてなくていい。ぜいたくな邸宅なんてなくていい。ほんとうの平和・ほんとうに平和な家庭が欲しい」と思っている人は多いのではないでしょうか。
私は、感じやすい少年時代に、争いの絶えない家庭にいました。五十センチと離れず同じ食卓を囲んでいるのに、夫と妻の心が通わず、親と子の心が通じていなかったのです。針のむしろに座るような毎日。――とうとうこんな現実から逃げ出したくて、私は自殺未遂をしてしまったほどでした。
平和とは、ただ、争いがないということではありません。それは、いっしょにいるのがうれしく、いっしょに何かするのに張り合いがあり、楽しい。――つまり、愛で心と心とがつながっている状態です。そんなすばらしい、すてきで平和な交わりのために、次の三つの段階があることに、私は気がつきました。
・ ある一人の人が、自分勝手な生き方を心から悔い改めて神の前にへりくだると、その人の心と神とが、まず平和になる。
・ 神と平和になった人の心がくだけきって、からっぽになって神の前に出ていると、人工的な平和ではなく、人格的な神の平和・天来の平安が、その人の心の中に満ちる。
・ その人の心の中に神の平安が満ちると、今まで争い合ったり憎み合ったりしていた人々の間にも平和の力が及んで、人と人との間に平和が花を咲かせる。私の家庭が、まさしくこのプロセスを通らせていただいたのです。

 

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◆神は……

2014年06月29日 08時09分23秒 | 聖書

イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(Ⅰテサロニケ四・一四)

世を去ったたましいが無感覚のままで眠っていると考えないようにしよう。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」というのが、すべての臨終の聖徒に対するキリストのささやきである。彼らは「イエスにあって眠っている」。しかし彼らのたましいは、神の御座の前で日夜イエスをほめたたえ、その血で彼らの罪を洗ってくださった方に対してハレルヤを歌っているのである。
肉体は、草におおわれた地下の寂しい寝床に眠っている。この眠りは何を意味するのであろうか。眠りと関連する概念は「安息」である。そしてそれは、神の御霊が私たちに伝えようと望まれる考え方である。眠りは夜を昼のための安息の時とする。眠りはたましいの戸を堅く閉ざして、すべて侵入する者に「しばし待て」と命じる。それは内なるいのちが新緑の園に憩うためである。働き疲れた信者は静かに眠る。それはあたかも疲れた幼子が母の胸に眠るのに似ている。
ああ、主にあって死ぬ人は幸いである。彼らはその労働を離れて休息する。そしてそのわざは彼らに従う。その静かな休息は、神が彼らに十分な報いを与えるため呼び覚まされる時までは、決して破られることはないであろう。天の使いに守られ、永遠の神秘に包まれて、栄光の相続人である彼らは眠り続ける。そして、やがて時が満ちて贖罪が全うされるのである。
彼らが目を覚ました時はどうであろう! 彼らは最後の憩いの場所に横たえられた時、疲れ果てていた。しかし起き上がる時はそうではない。安息に入った時は額にしわがあり、顔はやつれきっていた。しかし起き上がる時は美と栄光をまとっている。見るかげもないしなびた種が、美しい花となってちりの中から咲き出る。墓の中の冬は去り、贖いの春と栄光の夏が来る。
死は幸いである。なぜなら、その時神の力が私たちの仕事着を脱がせ、朽ちることのない結婚の晴れ着をまとわせるからである。「イエスにあって眠る」者は幸いである!

 

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第2サムエル記1章1-10節

2014年06月29日 08時07分41秒 | 聖書

1:10 「そこで私は近寄って、あの方を殺しました。もう倒れて生きのびることができないとわかったからです。私はその頭にあった王冠と、腕についていた腕輪を取って、ここに、あなたさまのところに持ってまいりました。」



 アマレク人を打ち破ってツィケラグに帰ってきたダビデの下に、一人のアマレク人が来ました。

彼は着物が裂け、頭には土をかぶっている状況でした。

どこから来たのかと聞かれると、イスラエルの陣営から来たというのです。

しかし後で聞くと、彼はイスラエルの民でもないばかりか、その兵士でもありませんでした。

サウルが死んだ時、たまたまそれを見ていて、密かに行って、王様の王冠と腕輪を取ってきた人のようでした。

 彼がなぜダビデの下に来たのでしょう。

彼は、ダビデが時代の王となることを感じ取っていたからであるようです。

自分がダビデの下に、王が死んだと伝えれば、ダビデが喜んで自分に褒賞をくれると思ったようでした。

ですから、彼はサウルの死に関して、サウル王が自分を殺せと言ったので、自分はそうしましたと告げたのです。

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