座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。

2015年12月31日 17時05分09秒 | 聖書
それなのに、私たちは救われない。(エレミヤ八・二〇)
 
救われない! 愛する読者よ。これがあなたの悲しむべき状態か。来るべきさばきが警告され、命がけで逃げよと命じられているこの時に、あなたは救われていないのか! あなたは、救いの道を知っている。あなたはそれを聖書の中で読む。あなたはそれが、講壇の上から話されるのを聞く。友人を通して、それがあなたに説かれる。それにもかかわらず、あなたはそれを無視しており、そのゆえに救われていない。主が生きている者と死んだ者とをさばかれる時、あなたは弁解のことばもないであろう。聖霊は、あなたがかつて聞いた説教のことばに多少でも祝福を与えられた。そして神のご臨在によってあなたが力づけられた時もあった。しかし、あなたはまだキリストなしである。
これらのすべての望みの多い季節は、来て、また去っていった。――あなたの刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。――しかしあなたはまだ救われていない。歳月は次々と来て、また去り、永遠に至る。そしてあなたの最後の年も、すぐにやって来るであろう。青年期は過ぎ、壮年期も過ぎようとしている。しかし、あなたはまだ救われていない。
私に質問させていただきたい。あなたは結局は救われるのか、と。そのような見込みがあるだろうか。最も幸運な季節はすでに去ったが、あなたはまだ救われていない。これから先、他の社会があなたの状態を変えるだろうか。あなたに対して尽くされた数々の手段は失敗に終わった。忍耐強く、この上ない愛情をもって尽くされた最善の手段が、失敗に終わったのである。
あなたに対して、これ以上いったいどうすればよいであろう。患難も繁栄も、あなたに何の印象も与えなかった。涙も祈りも説教も、あなたの荒れ果てた心にはむだであった。あなたが救われる可能性は、もうなくなってしまってはいないか。あなたは、死が希望の戸を永久に閉ざしてしまうまで、現状を続けるのではないか。このような想像から、あなたは後ずさりするのか。しかし、それは最も合理的な考え方なのである。何度となく入浴を拒んだ者は、結局最後まで汚れたままでいるのではないか。好機がこれまで決して来なかった人間に、どうしてこれから先、それが来ることがあろう。それが決して来ないとして恐れることは、論理的である。そしてあのペリクスのように、あなたは地獄に行くまで好機を見いだすことはないであろう。
おお、その地獄はどんなものか。そしてあなたが、まもなくそこへ投ぜられる恐るべき可能性について考えてみよ!
読者よ。あなたが救われないで死んだと想像してみよ。あなたの運命は、どのようなことばによっても描写することはできない。あなたの恐るべき状態を涙と血をもって書き、うめきと歯ぎしりをもって語れ。あなたは主の栄光からの、そして主の御力の栄光からの、永遠の破滅をもって罰せられるであろう。私は願う。主にある者としての私の声が、あなたを驚かせ、神の必要をあなたに悟らせるように。
おお、賢明になれ。遅くならないうちに……。そして新しい年の始まらないうちに、全く救うことのできるイエスを信じよ。この最後の時間を黙想のために聖別せよ。そしてもし、深い悔い改めの心があなたのうちに起こされればよい。そしてもしその結果、イエスにある謙遜な信仰に導かれるならば、それにまさるすばらしいことはない。あなたの罪が赦されないうちに、この年を去らせてはならない。真夜中の新年の鐘の音を、喜びのない霊の上に響かせるな!
今、今、今、信じなさい。そして生きなさい。
いのちがけで逃げなさい。
うしろを振り返ってはいけない。
この低地のどこででも立ち止
まってはならない。
山に逃げなさい。
さもないと滅ぼされてしまう。
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した…

2015年12月31日 17時03分52秒 | 聖書

しかしダビデはエルサレムにとどまっていた」(Ⅱサムエル11:1)

サタンは私たちを陥れようと、足もとをすくおうと、虎視眈々と狙っている。
ダビデが深刻な誘惑に陥った箇所から学ぶことができる。
ダビデは、部下たちが命がけで戦いに出ているのに、自分は安逸を貪っていた。
本来なら先頭に立って、戦っているべきであった。
しかし、全軍隊と神の箱を戦場に送り、自分は居心地の良いエルサレムにいた。
御心をそれて、御心の場所にいない時、サタンの攻撃を招き、誘惑に陥りやすくなる。
御心の中が一番安全だ。よく心していよう。
そして、ダビデは夕暮れ時に、床から起きあがった。
皆が戦っているのに、夕方起き出すような、怠惰な、いい加減な生活をしていた。
油断して、すきだらけだった。まさにサタンの標的だ。
御心の中にいたなら、戦場にいたなら、受けることの無い誘惑に、自ら身をさらしてしまった。
案の定、バテシバと罪を犯し、罪の無いウリヤまで殺害してしまった。
私たちも目を覚ましていよう。日々、祈っていよう。
日々、主と交わっていよう。
怠惰になり、油断している時、あなたを鵜の目鷹の目で狙っている、サタンが放っておかない。
大きな誘惑に、危険に、身をさらすことになる。
そして、重大なことは、あなたはそれに気づかない。
目を覚まして、自分自身を、サタンを見張っていよう。
-----------------
目を覚まし日々、神様の近くにおり、霊の交わりをしていなければ徐々に、徐々に罪の誘惑にからめとられてしまう。
今、大きな罪を犯していなくても、目覚めていよう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の聖人の記念日

2015年12月31日 05時47分17秒 | キリスト教

 聖シルベストロ1世教皇

在位314年-335年

 シルベストロは、ローマに生まれ、キリスト教迫害時代、教会のために貢献した。長い迫害の時代が終わり、313年に皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認した直後に、シルベストロは第33代の教皇に選ばれた。5世紀の伝説によると、シルベストロは皇帝に洗礼を授けたといわれている。彼は宗教会議を開き、ドナトゥス派を破門し、325年のニケア公会議では、アリウス派の異端を退けた。また皇帝の援助で、ローマにラテラン大聖堂、聖ペトロ大聖堂、聖ラウレンチオ教会などを建てた。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆祭りの終わりの大いなる日に、

2015年12月31日 05時46分12秒 | 聖書
イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ七・三七)
 
主イエスは全き忍耐を保ち、祭りの終わりの日に至るまでユダヤ人の心に訴えられた。同じようにこの一年の最後の日においても、主は私たちの心に訴えられ、私たちに恵みを与えようとして待っておられるのである。主が年々私たちのある者に対してなされる忍耐は、まことに驚くほかない。主は、私たちの挑戦、反逆、そして聖霊に対する反抗さえ耐え忍ばれる。私たちが、なおあわれみの国にいるということは、実に驚異中の驚異である。
あわれみはきわめて明白に表された。なぜなら、イエスは叫ばれたからである。主は単に声を大にされたというのではなく、優しく語りかけられたのである。主は私たちに和解を訴えておられる。パウロは「神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います」と言っている。なんという熱烈な、心に迫ることばであろう。主は罪人たちのために泣き、母親がその子どもを愛するように私たちを御胸に抱き寄せられる。主の愛のなんと深いことか。このような呼びかけに対し、心を動かさないでいられるだろうか。
備えは十二分になされている。人がたましいの渇きをいやすのに必要なものはすべて備えられている。贖いは私たちの良心に平安をもたらし、福音は私たちの悟性に豊かな教訓をもたらす。またイエスのご人格は、私たちの心に最も気高い愛の対象を刻み、イエスにある真理は、私たちの全人格に最も純粋な栄養を供給する。渇きは激しい。しかし、イエスはそれを取り去ることができる。イエスはたましいが全く飢えていても、それを満ち足らせてくださる。
この宣言は最も自由なものである。すなわち、渇いている者はだれでも歓迎するというのである。そこには渇いているという以外に、何の差別も設けられていない。それが貪欲、野心、快楽、知識、安楽などの渇きであろうと、渇いている者はすべて招かれているのである。渇きそのものは、悪いものであるかもしれない。そこには、恵みのしるしはいささかもなく、肉欲をさらに満足させようとする罪のしるしのみが見られるかもしれない。しかし、主イエスが招かれるのは、人のうちに美徳があるからではない。主は自由に、だれかれの区別なく招かれるのである。
また、イエスご自身のみもとに来るということが、ここにおいて明白に宣言されている。罪人はイエスのもとに来なければならない。善行や、儀式や、教理に来るのではなく、十字架上で自らのからだの上に私たちの罪を負ってくださった贖い主のみもとに来なければならない。血を流して死に、かつよみがえられた救い主は、罪人にとって唯一の希望の星である。ああ、一年の最後の日において、太陽が沈む前に今、イエスのみもとに行って、主から飲む恵みを得たい。
ここには待つことも準備することも言われていない。飲むことのためには、何らの資格も要求されていない。だれが飲んでもよいのである。品性が罪に汚れているということは、イエスを信じる上でいささかも妨げとなりはしない。私たちはこの水を飲んで渇きをいやすために、金の杯も、宝石を散りばめた杯も必要としない。貧しい者も、ただかがんで口を流れにつけさえすればよいのである。どんなに汚れたくちびるであっても、神の愛の流れに触れることができる。そのくちびるは流れを汚さないばかりか、かえってその水によって清められるのである。
イエスは希望の泉である。愛する読者よ。優しい贖い主が、私たち一人一人に向かって叫ばれる愛の御声を聞け。
「だれでも渇いているなら、
わたしのもとに来て
飲みなさい。」
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第2歴代誌11章5-12節

2015年12月31日 05時43分28秒 | 聖書


11:11 さらに、彼は防備を固めて、その中に隊長を置き、糧食、油、ぶどう酒をたくわえた。
11:12 またすべての町ごとに大盾と槍を置き、これらの町をますます強固にした。こうして、ユダとベニヤミンは彼の側についた。



 レハブアムは、北の民が自分の下から分離していくということが神の意向であると、神の人から聞かされました。

そこで彼は引き下がったのですが、それに一体どんな意味があり、どこに目的があったのかということは、わからなかったのではないかと思うのです。

 しかし、彼はその事態が明確になった時に、国の防備に精を出しました。

ユダとベニヤミンの民に属する町々の防備を固めたのです。

そこにはそれぞれ隊長を置き、食料を備えて、戦いに備えるようにしたのです。

一体どこを敵にしてこの防御を固めたのかと思うのですが、即座にこのような行動を取ったということは、北に逃げた民に対して、体制を整えたのではないかと思うのです。

攻撃よりも、防御に目を向けたのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マラキ書2章5~7節

2015年12月31日 05時41分39秒 | 聖書


★わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。

黙示録20章6節
★この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!12月29日の朝です。今年一年間を振り返り、自分の立場を改めて確認していきましょう。僕らは、イエス様の十字架と復活の勝利によって、主の使いである祭司であり、王だからです。

僕らは、イエス様の十字架と復活の勝利によって、神様の子供としての権威(特権)が与えられた者です。(ヨハネによる福音書1:12参照)僕らは、罪から解き放たれました。僕らの内側は、主なる聖霊様の住まいとなりました。イエス様と共に王となりました。そして、天のお父さんとこの世との中間に立つ祭司となりました。

祭司は、今日のマラキ書に書かれている通りです。
天のお父さんといのちと平和の契約をした者です。
主を正しく恐れる者です。主を恐れることは知識の初めです。
口に真理の教えがある者です。イエス様が真理です。御霊が真理です。くちびるから聖霊様が話させてくださる言葉を宣言し、不正がない者です。
平和と公正のうちに、主と共に歩む者です。
多くの者を罪から立ち返らせる者です。
主を恐れて知識を守り、人々に御言葉を正しく伝える者です。
万軍の主の使いです。

だから、僕らは、御言葉を求めていきましょう。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイによる福音書5:17~19)

僕は、自分の力では祭司としての働き、王としての働きができない事を感謝します。僕らは、主の力が働かれるために、主にすべてを捧げていきましょう。イエス様の御言葉を宣言していきましょう。自分のたましいを打ち叩いて教え、主をほめたたえていきましょう。イエス様は、「あなたがたは地の塩です。あなたがたは、世界の光です。」(マタイによる福音書5:13,14)と言われました。だから、僕らは、自分がそんな者ではないと思ってしまっていても、自分に教える必要があります。「自分は、地の塩です。自分は、世界の光です。」と宣言する必要があるのです。御言葉を理解していなくても、御言葉を御言葉として宣言することが大切です。

今年一年間を振り返り、自分の立場を何度も改めて確認していきましょう。僕らは、イエス様の十字架と復活の勝利によって、主の使いである祭司であり、王です。


■A:考えてみよう
御言葉を宣言していきましょう。
自分の正しい立場を、宣言していきましょう。
主に聴き従っていきましょう。
主の前に、自分自身を捧げて、悔い改めていきましょう。
2015年を感謝していきましょう。
2016年のために、祈り求めていきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月30日(水)のつぶやき

2015年12月31日 01時43分32秒 | キリスト教
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆その果ては、

2015年12月30日 20時26分08秒 | 聖書
ひどいことになるのを知らないのか。(Ⅱサムエル二・二六)
 
読者よ。もしあなたが、ただの自称信者であって、キリスト・イエスにある信仰をもっていないならば、次に述べるのが、あなたの終局の真の描写である。
あなたは礼拝に忠実に出席する。あなたの心が神と共にあるから出席するのではなく、他の人々が行くからあなたも行くのである。これがあなたの振り出しである。次の二十年か三十年、今のような状態が続くとしよう。外見は集会に出席して信者らしく見せかけているが、心は真の信仰をもっていない。
静かに聞いてほしい。あなたに、あなたのような人の臨終の床の有様を見せなければならないからである。彼の額は汗にぬれている。彼は目を覚まして叫ぶ。「神よ。死ぬのはつらいことです。……牧師を呼びに行ったか。」「はい。今来られます。」牧師が来る。「先生。私は死ぬのが恐ろしいのです。」「希望がないのですか。」「希望をもっているとは言えません。神の前に立つのが恐ろしいのです。ああ、どうか私のために祈ってください。」彼のために熱心な心からの祈りがささげられ、救いの道が何度も彼の前に示される。しかし、救いの綱を握らないうちに、私は彼が沈んでいくのを見る。その冷たくなったまぶたの上に、私は自分の指を置く。そのまぶたは、もう決してこの地上のものを見ることがないからである。その男はどこにいるのか。そして、その男の真の目はどこにあるのか。「ハデスで苦しみながら目を上げると……」とある。
ああ、なぜもっと早く目を上げなかったのか。それは、福音を聞くことに慣れきって、たましいがその下で眠っていたからである。ああ、もしあなたがかしこで目を上げることになるとすれば、あなたの嘆き、悲しみはどれほどであろう。それを救い主のみことばによって表そう。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
どうかあなたが神の御怒りのもとで、このことばを発することが決してないように。
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。

2015年12月30日 20時25分08秒 | 聖書


しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった」(Ⅱサムエル11:27)

罪を犯してしまった時は、どうすれば良いのか。
もし、ダビデが、バテシバとの姦淫の罪を、神の前に、ウリヤの前に告白していたなら、ウリヤ殺害の罪を重ねることから守られただろう。
罪を隠す時、必ず罪の上に、重大な罪を重ねて行ってしまう。
罪を誰にも知られたくなくて、何とか隠そうとするが、罪は必ず明るみに出る。
隠れたものは必ず神が明らかにされる。
神は侮られる方ではない。
ダビデは神の御前に正しい事を行なうよりも、王としての名誉、地位、対面を保とうとした。
バテシバが妊娠したと知るや、ウリヤの子に見せかけようと画策するが、うまく行かなかった。
すると、ウリヤ殺害計画を練る。
それを実行し、ウリヤを殺してしまった。
そして、バテシバをめとり、めとった後にできた子供に見せかけようとした。
人の目には隠しおおせても、「しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった」神はすべてを見通しておられた。
誰にも知られなくても、神の目には裸だ。
罪が告白できない理由は、恐れだろうか。
面目を失い、人にどう思われるかが恐い。
しかし、ずっと外側繕った、偽りの自分を生きる事になる。
罪はすぐに告白しよう。
逃げるのでなく、向き合おう。
その罪を赦すために主は血を流された。
罪赦される解放と平安を味わう。
--------------
罪は人にはわからなくても、主の御心をそこなっているゆえ、平安が無い。
赦しを受け取ろう。
まばゆい光の中へ戻され、大海のような平安と内から湧き上がる喜びを経験する。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の聖人の記念日

2015年12月30日 07時20分41秒 | キリスト教

聖メラニア

383年ごろ-438年

 メラニアは、ローマに生まれた。祖母は大メラニアであり、エルサレムに女子修道院を設立した聖人であった。
 メラニアは、397年に父から強制されて結婚したが、不幸にも2人の子どもを亡くし、夫とともに禁欲生活の道を選んだ。父の死後、莫大な財産を相続したメラニアは、それを貧しい人びとや、教会のため、また多くの奴隷解放のために使った。西ゴート族が襲ってきたときは、夫とともにローマを離れ、アフリカに行き、聖アウグスチヌスと出会ったといわれている。その後エルサレムに住み、431年、夫に先立たれてから、オリーブ山に彼の墓を作ってその近くに小屋を建て、祈りと修行の生活に励んだ。そのうちに彼女のもとに女性たちが集まり、修道院となった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆事の終わりは、

2015年12月30日 07時19分28秒 | 聖書
その初めにまさり……。(伝道者七・八)
 
ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を足台にしようとしておられる。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」なら、当然十字架を負わなければならない。そうしなければ、決して冠を得ることはできない。あなたが泥の中をはって進むのでなければ、決して黄金の大通りを歩むことはできない。それゆえ、クリスチャンよ。雄々しかれ。「事の終わりは、その初めにまさり……」とある。
うごめく毛虫を見よ。なんと卑しい姿だろう。それが事の初めである。しかし、あの目の覚めるような羽をもち、日光の中にたわむれ、花の杯より蜜を吸い、幸福といのちに満たされている蝶を見るがよい。それが事の終わりである。あなたは死のさなぎになるまでは毛虫なのである。しかし、キリストが現れたなら、キリストのありのままの姿を見るので、キリストに似た者となる。主に似た者となることを覚えて心を安んぜよ。あなたが目を覚ますその時には、主のようになっていることを見いだして満ち足りるであろう。
天然のダイヤモンドは、研磨機にかけられてその全面を削り取られ、一見貴重と思われる部分までも失わなければならない。王の戴冠の際には、喜びのラッパとともに王冠が王の頭上に置かれ、その冠からはまばゆいばかりの光が輝く。しかしその光は、直前まで研磨機によって悩まされ痛めつけられていたあのダイヤモンドから出ている。このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえてみるがよい。あなたは神の民の一人であり、今は玉を磨く時なのである。信仰と忍耐をもって待て。王冠が永遠不朽の王の頭上に置かれるとき、一条の栄光の光があなたからも流れ出るであろう。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」まことに「事の終わりは、その初めにまさる」のである。
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆事の終わりは、

2015年12月30日 07時18分36秒 | 聖書
その初めにまさり……。(伝道者七・八)
 
ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を足台にしようとしておられる。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」なら、当然十字架を負わなければならない。そうしなければ、決して冠を得ることはできない。あなたが泥の中をはって進むのでなければ、決して黄金の大通りを歩むことはできない。それゆえ、クリスチャンよ。雄々しかれ。「事の終わりは、その初めにまさり……」とある。
うごめく毛虫を見よ。なんと卑しい姿だろう。それが事の初めである。しかし、あの目の覚めるような羽をもち、日光の中にたわむれ、花の杯より蜜を吸い、幸福といのちに満たされている蝶を見るがよい。それが事の終わりである。あなたは死のさなぎになるまでは毛虫なのである。しかし、キリストが現れたなら、キリストのありのままの姿を見るので、キリストに似た者となる。主に似た者となることを覚えて心を安んぜよ。あなたが目を覚ますその時には、主のようになっていることを見いだして満ち足りるであろう。
天然のダイヤモンドは、研磨機にかけられてその全面を削り取られ、一見貴重と思われる部分までも失わなければならない。王の戴冠の際には、喜びのラッパとともに王冠が王の頭上に置かれ、その冠からはまばゆいばかりの光が輝く。しかしその光は、直前まで研磨機によって悩まされ痛めつけられていたあのダイヤモンドから出ている。このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえてみるがよい。あなたは神の民の一人であり、今は玉を磨く時なのである。信仰と忍耐をもって待て。王冠が永遠不朽の王の頭上に置かれるとき、一条の栄光の光があなたからも流れ出るであろう。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」まことに「事の終わりは、その初めにまさる」のである。
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第2歴代誌11章1-4節

2015年12月30日 07時17分22秒 | 聖書


11:3 「ユダの王、ソロモンの子レハブアム、および、ユダとベニヤミンに属する全イスラエルに告げて言え。
11:4 『主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟たちと戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたのだから。』」そこで、彼らは主のことばに聞き従い、ヤロブアムを目ざして進む行軍を中止して、引き返した。



 レハブアムの返答に反発した民は、ヤロブアムと共にレハブアムの下から去りました。

民は分断されたのです。

レハブアムの下には、ユダとベニヤミンの民が残りました。

しかし、軍の力は王であったので、レハブアムの方が強くあったようです。

そこで王は軍隊を率いて、ヤロブアムと彼の下に下った民を襲撃しようと計画しました。

 その時、神の人シェマヤに神の言葉が下りました。

この事態は神が仕向けた事であって、神の意向なのだ。

だから、同胞の民と戦ってはならない、と言うのです。

自ら招いた事態ですし、それが神の意向であるのであればということで、レハブアムは引き下がりました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨハネの黙示録19章7~9節(マラキ書1章)

2015年12月30日 07時14分39秒 | 聖書


★私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。


■O:今日のコラム
婚姻に招かれた者と婚宴に招かれた者には大きな差があります。原語でみてもこれは結婚式と披露宴の違いがあることが分かります。
私たちは、今、産みのの苦しみをしています。
それは何を生み出そうとしているのか?というと、栄光の教会、キリストの花嫁を生み出そうとしているのです。
出産は近いという事を信じます。
このタイミングでいきまなくてはなりません。
黙示録12章5節で天に引き上げられ、御座に着く者となるべきです。
そのためにいきまなくてはなりません。
なぜなら、黙示録12章を2節には、

この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。(黙示録12:2)

とあるからです。
10人の乙女のたとえで、寝ていた10人の乙女の内、5人の賢い乙女は叫ぶ者の声で目を覚まし、婚宴に間に合いました。
しかし、絶えず目を覚ましていて、叫ぶ者の声となりましょう!
花婿が来られるのを目を覚まして待っている花嫁となりましょう!
婚姻に預かる者となるのです。
婚姻と婚宴では大きな違いがあります。

今が目を覚まして、心に苦難の心構えをし、身を慎んで祈るときです。
世の終わりが近づきました。

 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(1ペテロ4:7)

タイミングが大切です。
今がそのタイミングなのです!

だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。
ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。(マタイ24:19~20)

出産のタイミングを逃して、まだまだと考えている身重な状態、もう終わったと考えて乳飲み子を抱える状態でいてはいけません。

秋のラッパの祭りのタイミングを逃すなら冬になってしまいます。
そうならないようにすべきです。
そのために何が命じられているでしょう?
祈るのです。


■A:考えてみよう
目を覚まして、身を慎んで祈る、とは悔い改めをと祈りの習慣を持つことです。それを大切にしましょう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12月29日(火)のつぶやき

2015年12月30日 01時43分19秒 | キリスト教
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする