座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。

2014年11月30日 18時27分07秒 | 聖書

それで、竜とその使いたちは応戦したが……。(黙示録一二・七)

二つの大いなる主権の間には絶えず戦いがあり、どちらかが打ち滅ぼされるまでこの戦いは続く。善と悪との間には平和はあり得ない。平和が来たように見えるならば、それは実際には、やみの力が勝利しているのである。ミカエルは常に戦う。彼の聖なる霊は罪を憤り、罪を許さない。
イエスは常に竜の敵であられる。イエスは静的な意味においてではなく、積極的に力強く、悪を根絶しようとする決意に満ちておられる。
すべての主のしもべは、天にある御使いでも、地にある使者でも、戦うのであり、また戦わなければならない。被らは戦士として生まれてきた。――十字架の下で、彼らは決して悪と休戦しないことを誓った。彼らは勇敢な仲間である。守る時は堅固であり、攻める時は勇敢である。主の軍隊のすべての兵士の任務は、日ごとに、全心全霊全力を傾けて竜と戦うことである。
竜とその使いたちは戦いをやめない。彼らは絶えず猛襲をくり返し、武器も手段も選ばない。私たちがもし何の反対も受けずに神に仕えることを期待しているとするならば、それは愚かである。私たちが熱心であればあるほど、必然的に地獄の軍勢の攻撃にさらされる。教会は怠慢になるかもしれない。しかし、教会の大敵サタンはそうではない。彼の気持ちは落ち着かず、決して戦いをやめない。彼は女のすえを憎み、教会をむさばり食うことを願っている。サタンの手下どもは、常に活動的である。戦いは至る所でなされ、平和を夢見ることは危険であり、無益である。
しかし、栄光神にあれ。私たちは戦いの結末を知っている。巨大な竜は投げ落とされ、永遠に滅ぼされる。主と主に伴う者は冠を受ける。
今夜、私たちの剣をとぎ、戦いのために腕を強くされるように聖霊に祈ろうではないか。この戦いほど重要な戦いはなく、この冠ほど栄光に満ちた冠はない。十字架の戦士よ。部署につけ。遠くないうちに、主がサタンを足下に踏みにじってくださいますように。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「この世と調子を合わせてはいけません。

2014年11月30日 18時26分25秒 | 聖書

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ…」(ローマ12:2)

真に喜びと平安の日々を送りたいなら、思考パタンを変える事だ。
満たされず、心寂しく、虚しく、悶々とするのは、実は自分の事ばかり考えている。
アダムからの罪は自分が神になり、自分が世界の中心になっている事だ。
誰にもこの誘惑は強烈なので要注意だ。
誰も皆、自己中心になりやすい。
ここから自己憐憫のとりことなり、惨めで、人を羨み、落ち込み、かと思えば高慢になり、人を見下す。
優越感と劣等感は、高慢を根とした裏返しで同じものだ。
あなたの祈りは自分の事だけか。
自分の満たし、自分の祝福、自分の願望、自分の幸せ、自分の必要…祈りは良い事だが、自分にしか目が向いていないなら間違っている。
それなら、神を自分のために利用して行くからだ。
祈っているだけに、そうしていて気づかない。
更には、神がああしてくれない、こうしてくれないと、心を屈折させる。
軸の置きどころが間違っている。
何もかもが自分中心の色合いでしか見えない。
軸を変える事だ。「私は神に」でなく、「神は私に」何を望んでおられるのか。
神の目的のために、私をどう使われたいのか。
神を軸におき中心にすると、必ず喜びと平安、満たしが臨む。
---------------
欲の自己中心ではないが、関心が神でなく常に自分に向く。
信仰してる「自分」成長したい「自分」…自分が中心にいるが、信仰ベースだけに気づかない。
御霊が目を神に転じさせて下さるように。そこから喜びが来る。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今日の聖人の記念日

2014年11月30日 09時05分15秒 | キリスト教

聖アンデレ使徒

1世紀

 アンデレは、ガリラヤのベツサイダの漁師であった。初め洗礼者ヨハネの弟子であった彼は、イエスが通りかかったとき、ヨハネが「見よ、神の子羊を」(ヨハネ1.36)と言ったのを聞き、その晩はイエスと過ごした。翌日、兄弟シモン・ペトロ(聖ペトロ)をイエスのところに連れていった。その後、ペトロと網を打っていると、イエスに呼びかけられ、2人は従った(参照 マタイ4.18-20、マルコ1.16-18)。

 イエスは、その後12人の弟子を選び、アンデレもその中に入った。聖書の中でアンデレが登場するのは、イエスが行なったパンを増やす奇跡の場面(ヨハネ6.8-10)などで、地味ではあるが、思慮深い性格が現われている。

 伝承によれば、イエスの昇天後ギリシャのパトモスで宣教し、そこでX型の十字架にかけられて殉教したといわれている。

 彼は漁師の保護者、またスコットランドの保護者とされている。特に東方教会では、特別な保護者として敬われている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆思  い  や  り

2014年11月30日 09時04分10秒 | 聖書

正しい人は
寄るべのない者を正しくさばくことを
知っている。
しかし悪者はそのような知識をわきまえない。(箴言二九7)

上に立つ人・人を治める人に欠くことのできない資格の一つは、人への思いやりです。
自分に反対する敵に対してさえ、王は、思いやりがなければならないと聖書は言うようです。イエス・キリストは、こう言われました。「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ五44―45)。
私たちは、目に見える区別にばかり気をとられます。金持ち・教養のある人・知恵のある人・力のある人、こんな人ばかりに注目します。そして、年寄り・女子ども・貧しい人・力のない人・知恵のない人を、見くだしたり無視したり忘れたりしやすいのです。
養わなければならない子どもを、やっかいがってはなりません。次の世代を構成する人たちです。老人――それは、何年か後のあなたなのです。
発想を換えてみてください。
死を前にして、神のさばきの前に立って考える時、私たち一人一人は何とむなしく弱くけがれた者でしょう。金や肩書きや免状などは、何でもありません。すべてが平等です。死よりも強い神の愛・神の力の前に、自分を置いてごらんなさい。一羽の雀すら野の一本の花すら、神のみこころによって歌い、美しく咲いています。まして、神に愛されていない人は一人もいないのです。上に立つ者は、すべての人に公平な思いやりがなくてはなりません。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆アマツヤは神の人に言った。

2014年11月30日 09時03分19秒 | 聖書

「では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。」神の人は答えた。「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」(Ⅱ歴代二五・九)

この質問は、ユダの王にとって非常に重要なものと思われる。また試練に会い、誘惑にさらされているクリスチャンにとっても、おそらく、さらに重要なものであろう。金銭において損することは、どのような場合でも快いものではない。正しい目的の場合でも、肉はその犠牲をいつも喜んでささげるわけではない。「有効に使用できるものをなぜ失うのか。真理の価はあまりにも高すぎるのではないか。あの金を失えば、私たちはどうすればよいか。子どもたちや、少ない収入のことを考えたらどうだ」と。このようなことがクリスチャンを誘惑して、正しくないことに手を出させるのだろう。あるいは、重大な損失をもたらすことが明らかな時、良心的な行動をちゅうちょさせるのだろう。この問題を信仰の光に照らして見ることは難しい。イエスに従う人々にとってさえ、「私は生きなければならない」という原則が大きな比重をもっている。
「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」これは私たちの心配への完全な解答である。私たちの父は全世界の財宝の管理権をもっておられる。そして私たちが主のために失うものを、千倍にもして返される。主のみこころに従うのが私たちのなすべき分であり、従う時、主は必ず私たちのために備えられるのである。主は何びとに対しても債務者の地位には立たれない。
聖徒たちは、一粒の平安が一トンの黄金よりも尊いことを知っている。真実な心は、たとえ牢獄であろうと、神のほほえみさえあれば満足する。祝福に満ちたたましいは、宮殿にあっても神の不興にあえば地獄にいるように感じる。最悪の事態がやってこようと、すべての金銭を失おうと、私たちは自分の宝を失うことはない。神の右に座するキリストのもとにあるからである。現在においても、主は柔和な者に地を相続させ、正しく歩む者に良いものを拒まれることはない。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第1列王記5章7-12節

2014年11月30日 09時02分08秒 | 聖書

5:12 主は約束どおり、ソロモンに知恵を賜ったので、ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、ふたりは契約を結んだ。



 神様がソロモンに与えた知恵は、裁きをする時の必要な知恵ということのみではありませんでした。

人とのつきあいの知恵、また交渉の知恵、王としての政策を実現するための知恵など、主はソロモンに豊かに与えてくださったのです。

その結果、彼はツロの王ヒラムとの交渉を成し遂げました。

レバノンからは杉の木材ともみの木材、そしてソロモンは、その対価として、小麦とオリーブ油などを提供することが約束され、契約を結びました。

現代ですと金銭によってなされる契約が、生活物資のやりとりによって、実現したのです。

 教会の建物を建てる時、主にある者たちだけの力で建てることはできません。

その必要とされる資材の確保、あるいは、設計のための計算、実際の建築に当たる時の技術などは皆、この世の人々の助けを必要としています。

神様はそうした知識と技術を持つ力を、世の人に与えてくださっているのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ヨハネの手紙第一 1章5節(詩篇93、94篇)

2014年11月30日 09時00分30秒 | 聖書

★「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」

■O:今日のコラム
神のうちに暗いところは一つもありません。聖書の中で闇は嘘や不義、光は真理や義、正さとして書かれています。自分は神さまと親しく交わっていると言いながら、罪を犯しても神さまと親しい関係を保ち続けられる(6節)、私に悪いところはない(8節)、私は罪を犯していない(10節)と言うならば、神を偽りとする、神を神でないとするのと同じになってしまいます。光が当たる所に闇が共存することはあり得ないからです。また、例え口でイエスを否認していなくとも、義を行なわない、兄弟を愛さない(ヨハネの手紙第一 3章10節)、これらイエスの言葉を否定する行いによって、主ご自身を否定してしまう時があります。


■A:考えてみよう
口では主がおられると言いながら、あたかも主がおられないかのように生きてはいないだろうか。そんな偽教師のような生き方は今日、止めよう。


■P:祈り
ゆるせない人、愛せない人、悪口、陰口、人を引き下げる言動、破壊的批判…もしも主が光を差したいと思われている心の闇に気づいているのなら、今すぐ主に告白しましょう。主は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

もしも「私に悪い所はない」と言い張るのなら、真実で正しい方の前へ出てゆき、光に照らして頂きましょう。主がそのサングラスを外し、裏表無い、まったき心へときよめて下さいます。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

11月29日(土)のつぶやき

2014年11月30日 02時01分55秒 | キリスト教

ペテロの手紙 第二 2章10-11節(詩篇90篇) goo.gl/KozRuW


◆人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。…… goo.gl/NhvvgN


「ところが、彼らは気にもかけず、 goo.gl/1m5M8w


◆そそぎの油とかおりの高い香のための香料……。 blog.goo.ne.jp/tosi_1968/e/7b…


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆そそぎの油とかおりの高い香のための香料……。

2014年11月29日 17時41分12秒 | 聖書

(出エジプト三五・八)

この注ぎの油は律法の下で多くの用途をもち、福音の下でも最も重要なものを代表している。もし私たちが受け入れられる奉仕をしようとするならば、すべての聖い奉仕のために油を注がれる聖霊は、私たちにとって欠くことができない。聖霊の助けがなければ、私たちの信仰上の奉仕はむなしい儀式にすきず、私たちの内なる経験は死んだものである。聖霊の油を注がれない時、私たちの伝道はなんとみじめなものになることだろう!
私たちの祈り、賛美、黙想、クリスチャンとしての個人的努力においても同様である。聖い油を注がれることは、敬虔への道のたましいであり、いのちである。それを欠くことは、すべての不幸のうち最大の不幸である。油注ぎを受けないで主の御前に出るのは、あたかも普通のレビ人が祭司の務めをするようであり、それは奉仕というよりむしろ罪である。どうか、私たちが聖なる油注ぎを受けずに、あえて神聖なるわざに携わることのないように。油は私たちの栄光のかしらなるお方から、私たちの上にしたたる。主に油が注がれることにより、主の衣のすそである私たちも、その豊かな油注ぎにあずかる。
精選された香料は、薬剤師の巧妙な技術によって調合されて注ぎの油となり、私たちに聖霊の感化の豊かさを示す。すべてのよいものは、神である慰め主の中に見いだされる。たぐいない慰め、誤りない教え、不滅のいのち、霊の力、神の聖潔、これらのすべてが、他の高貴なものと結合されて、聖霊の天来の注ぎの油の中に見いだされる。これを注がれる人は、その品性の上に快い香りを受ける。富む者の財宝の中にも賢者の知恵の中にも、これに比すべきものは見いだされない。それは模倣できるものではない。それは神のみから来て、イエス・キリストを通して、すべての待ち望むたましいに無代価で与えられる。
私たちは、それを求めようではないか。なぜなら私たちはそれをもつことができるからである。今夜でも、おお主よ。あなたのしもべに油を注いでください。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「ところが、彼らは気にもかけず、

2014年11月29日 17時40分28秒 | 聖書

ある者は畑に、別の者は商売に出て行き」(マタイ 22:5)

招待された客はイスラエルであり、王のしもべは預言者達だ。
キリストの救いにより、神の素晴らしい祝福を受けるようにと、最初から準備が何もかも整えられていた。
しかし、彼らはその招待を気にもかけず、畑に、商売にと出て行き、無視した。
畑の仕事や商売など披露宴の後でもできる事だ。
神は救いのために、すべてを用意して下さったのに、不要と拒んだ。
これはイスラエルだけでなく、私達も同様だ。
仕事で忙しい、子育てで暇が無い、受験で忙しい、いつも神のための時間がない。
それなら一生時間がないままだ。
しかし、神のための時間が無いのではなく、神より大事なものを優先している。
このまま行けば、これから先も神のための時間はない。
神はあなたを目的をもって創造された。
あなたは、特別に愛されていて、神からの使命があり、あなただけへの御心があり、神が望んでおられる生き方がある。
あなたを、今の場所に遣わされたのは神だ。
偶然でも、たまたまそこにいるのでもない。
尊い神のご計画の一環だ。
あなたの境遇、使命、あなたの将来を「さあ、用意ができました」「何もかも整いました。
どうぞ宴会にお出かけ下さい」と、すべて最善のものを神は整えて下さっている。
「気にもかけず」神を無視して過ごしていないか。
自らの生き方を今一度よく考えてみよう。 
--------------
優先順位の問題は大きい。
神を拒んでいるわけではないが、神より「優先」するものが多く神のための時間
が無い。
優先順位を今一度振り返ってみよう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

今日の聖人の記念日

2014年11月29日 07時58分32秒 | キリスト教

聖セルニン殉教者(トゥールーズ)

3世紀

 セルニンは、ローマで生まれ、245年ころ教皇ファビアノからスペインのパンプローナに派遣された。彼は、そこからフランスのアルスに渡り、司教のもとで宣教に従事した。

 その後トゥールーズの司教に任命され、説教によって多くの人びとを信仰に立ち返らせた。しかし、トゥールーズのキリスト教でない神殿の祭司たちは、人びとがセルニンの建てた教会にお金を寄付することで、彼に反感を持つようになった。そして、ついにセルニンは、祭司たちに殺された。

 今日、トゥールーズの聖セルニン教会は、フランスで最も大きいロマネスク建築の教会である。セルニンの遺骨は、1746年に作られた墓のブロンズの雄牛の上に安置されている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆喜びの三条件

2014年11月29日 07時56分56秒 | 聖書

悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。
しかし正しい人は喜びの声をあげ、楽しむ。(箴言二九6)

世の中のあらゆる罪は、背きの罪です。神はあなたを愛し、あなたのために最善の計画を立て、あなたに最善のことをしてくださろうというのに、それを踏みにじり、自分勝手な恥ずかしいつまらないことをしてしまうエゴイズム。――それが罪であり、背きです。また、罪の大部分は神の愛への背きであるばかりか、人の愛・信頼・期待への裏切りなのです。罪こそは、人間関係を壊すナンバーワンの元凶です。
ところが、神に対しても隣人に対しても正しい関係にある人、つまり正しい人は、「喜びの声をあげ、楽しむ」といわれます。「喜び」は、楽しみとか幸せとかいう以上に、生き生きした健全な生き方のシンボルみたいなことばです。幸せは、めぐり合わせのよい時のもの、楽しみは、楽しいことをしている時のものです。しかし、貧しい時・病む時・苦しい時も、そして楽しくない時にもわきあがってくるものこそ、「喜び」です。
人生の最も深い喜びの土台に、三つのものがあると思います。
・ 愛し愛されている、受け入れられ受け入れているという確信。
・ 進んで喜んで語り合うコミュニケーションの道が、まっすぐ開けていること。
・ 自分のためでなく、相手のために仕えるという心の姿勢があること。
この三拍子がそろえば、「喜びの声をあげて楽しむ」ことのできる人間関係に太鼓判が押されます。まずキリスト・イエスを通して、私たちに対して三つの条件を整えてくださった神は、私たちを待ち構えていらっしゃいます。私たちがその愛に応答していくところに、何ものにも侵されない「喜び」の人生の出発があるのです。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。……

2014年11月29日 07時56分11秒 | 聖書

あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。(レビ一九・一六、一七)

人の悪口を言う者は三重の毒を流す。悪口を言う者と、聞く者、話題に上っている者を害するからである。その悪口が真実であるかどうかにかかわりなく、私たちはみことばによって、それを禁じられている。
主の民の名声は非常に尊いものである。私たちは悪魔を助けて教会を辱しめ、主の御名を汚さないように心しなければならない。ある人々の舌には、拍車よりもむしろくつわが必要である。多くの人々が、兄弟を引きずり下ろすことによって、あたかも自分の地位が高められたかのように思って得意になっている。
ノアの賢い息子たちは、裸の父に着物をかけた。そして、父の裸を暴露した子どもは恐ろしいのろいを受けた。私たち自身この暗黒の時代に住んで、自分たちの兄弟が寛容であり、沈黙を守ってくれることを望んでいる。私たちも喜んで、今それを必要とする者に同様の態度をとろうではないか。人の悪を語るな。これを私たちの家憲とし、誓いとしよう。
しかし聖霊は、私たちが罪をとがめ、それに対して適当な処置をとることを許しておられる。だが、それは陰で兄弟をあざ笑うのではなく、相対して戒めることによってなされなければならない。これは雄々しく、兄弟愛に満ちた行いであり、キリストと同じ方法である。これは神の祝福を受け、効果を上げるであろう。
肉はそれを恐れるか。それなら私たちはさらに良心を励まし、ぜひともそれを実行しなければならない。それは友人の罪を見過ごすことにより、私たちが共犯者とならないためである。誠実な牧師や主にある兄弟たちの時宜を得た、賢明な、愛のある警告によって、幾百という人々が重大な罪から救われている。私たちの主イエスはペテロに警告を与え、またそれに先立って祈り、彼が高慢にもそれを無用だとして拒んだのに、優しく耐え忍ばれた。そして、罪を犯した友をどう扱うべきかという、いつくしみ深い模範を示されたのである。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第1列王記5章1-6節

2014年11月29日 07時54分51秒 | 聖書

5:5 「今、私は、私の神、主の名のために宮を建てようと思っています。主が私の父ダビデに『わたしが、あなたの代わりに、あなたの王座に着かせるあなたの子、彼がわたしの名のために宮を建てる』と言われたとおりです。」



 ダビデはかつて、神様が自分たちと共にいてくださるという恵みを覚えて、その印である神殿を建てたいと思いました。

しかし、神様からの認可は与えらませんでした。

彼に与えられたのは、その神殿を建てるための準備をすることでした。

そこで、そのための準備に、彼は時を用いました。

 そして今、その建設が託された息子のソロモンが、神殿建設の働きを始めました。

神様がダビデを通して、彼にそのように命じられたことを覚えたからです。

 神殿を建てるためには、多くの木材を必要とするのですが、先代からつきあいがあり、木材が多く存在した、ツロの王のヒラムに、この木材の提供を願って、それを求めることができました。

「すべてのことに、時がある」と、言われているとおりでした。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ペテロの手紙 第二 2章10-11節(詩篇90篇)

2014年11月29日 07時52分37秒 | 聖書

★汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。
それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。

■O:今日のコラム
この終わりの時代、様々な惑わしの霊が働いています。だから私達は見分けの力を持つ必要があります。

偽物を見抜く為には、本物に触れ続けなくてはなりません。銀行員がニセ札を見破る事が出来るのは、毎日本物に触れ続けているからです。先日この事をある集会で話したところ、その中に銀行員の方がおり、数日前にニセ札が紛れ込み、そのお札に触った瞬間、これは偽物だと判ったと証しして下さいました。

私達も日々、個人的に御言葉に触れ、祈りの中で臨在に触れ続けるなら、必ず見分けの力を持つ事が出来ます。

また、見分ける為の重要な秘訣として実を見て見分ける事です。どれだけ賜物があり、驚く様な奇跡の証しや人々を魅了する啓示があっても、その人に誠実さの実はありますか?教会の覆いはありますか?あらゆるミニストリーやリーダー達に対して批判的ではありませんか?へりくだりはありますか?御言葉に従う歩みがありますか?一つ一つ実を見て判別する事が大切です。

偽りの働きを見分ける為に、この第二ペテロの手紙と併せてユダの手紙も読む事をお勧めします。また教会のリーダーと良い関係を持つ事や、誠実な信仰を持ったクリスチャン達との友人関係も私達にとって守りとなるでしょう。


■A:考えてみよう
「知恵と啓示の御霊により私を満たし、父なる神の心を教えて下さい。日々、主イエスの栄光を求め、十字架を負い、御言葉に従順する事が出来ます様に。」と祈りましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加