座間コミニティー

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◆アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、

2017年03月31日 15時07分46秒 | 聖書
それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。(Ⅱサムエル二一・一〇)
殺された息子たちに対する一人の女の愛が、かくも長い間悲しみの徹夜を続けさせたとすれば、私たちが尊い主のお苦しみを思うことに飽きるようであってよいであろうか。彼女は猛鳥を追い払ったのに、私たちは、自分の心を汚し、黙想の主題を汚す世的な罪深い思いを自分のうちから追い払わなくてもよいものであろうか。妄想雑念の鳥よ、去れ。ささげものを汚すな。
彼女は夏の暑さと夜の雨露とを受けて戸外で過ごした。眠りは彼女の泣きはらした目から去り、彼女の胸は少しもまどろむことがなかった。見よ。彼女がいかに子どもたちを愛していたかを。リツパはこのように耐えていたのに、私たちが些細な不都合や試みに驚いていてよいだろうか。主と共に苦しむことができないほど私たちは臆病でよいのか。
彼女は勇気をふるって野獣すらも追い払った。私たちはイエスのために、すべての敵と戦う準備ができていないのか。この息子たちは、彼女にではなく、他の者の手によって殺された。にもかかわらず、彼女は泣きながら見守った。では、自分たちの主を自らの罪によって十字架につけた私たちはどうすればよいのか。
私たちの義務は無限であり、愛は熱烈であり、悔い改めは徹底的でなければならない。主と共に目を覚ましていることが私たちの務めであり、主の誉れを守ることが私たちの仕事であり、主の十字架の下にいることが、私たちの慰めでなければならない。死体は、特に夜など、リツパを恐れさせたことであろう。しかし、主の十字架の下に座す私たちにとって、いやなものは何もなく、心を引きつけるもののみである。十字架上の救い主は生ける美の極みであられる。
イエス様。私たちはなおしばらく、あなたと共に見張りをいたします。すると、あなたはあわれみによってご自身を現してくださいます。その時、私たちはもはや荒布の下に座らず、王の幕屋の中に座するのです。
 
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「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。

2017年03月31日 15時06分55秒 | 聖書


みことばには、あなたがたのたましいを救うことができます」(ヤコブ1:21)

人は御言葉によって形造られて行く。
御言葉は霊であり、いのちそのものだ。
御言葉が私たちの心の奥深くに響き、入る時、私たちは新たにされる。
御言葉に霊が宿っているからだ。

しかし、これには条件があり、自由な自発的な意志のもとでだ。
自由意志が必要だ。ロボットは言う通りの事をするが、そのものの意志は無い。
自由意志がないのが、ロボットだ。

神は人格を持っておられ、私たちにも人格を与えて下さった。
その人格を尊重される。
つまり、自由意志を尊重される。決して強いられる事はない。
首に縄をつけて引かれる事はない。

どこまでも自由意志に任せられる。
だから、御言葉を心に受け入れるかどうかの選択は、私たちの自由意志に委ねられている。
受け入れる事も拒否する事もできる。自由だ。

御言葉への関わりは、この二つしかない。
あからさまに拒否はしないが、心には受け入れないだろうか。
自分に都合の悪い、痛い御言葉は心に入れないか。
密かに心を閉ざしてしまう。聞きたくない。

しかし、これは拒否と同じだ。自由な自発的な意志が必要だ。
自由意志で、心に自ら受け取る時、必ず私たちは新しくされる。
変えられる。御言葉にはその力がある。

御言葉には問題無いが、私たちの聞く態度はどうだろう。
聞きたくない、痛い言葉こそが、私たちを変えてくれる最も必要な言葉だ。
-------------------
痛い言葉、聞きたくない言葉をより分けているなら、いつまでも今のままだ。
御言葉の力を信じ、素直に受け入れてみよう。私達の努力は要らない。
神様に身をお委ねするだけだ。

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おはようございます。

2017年03月31日 06時54分02秒 | 日記

今日も1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年03月31日 06時53分30秒 | キリスト教

聖バルビナおとめ

2世紀

 バルビナは、ローマに生まれた。父クイリノはローマの職業軍人であった。バルビナは、美貌と才能に恵まれ、結婚の申し込みが多かったが、あるとき顔に腫瘍ができて以来治らず、醜い容貌となってしまった。

 途方にくれていた親子は、キリストとその弟子たちの行っている奇跡を知り、バルビナの病気が治るならば家族でキリスト信徒になることを誓った。

 そのころローマは、皇帝ハドリアヌスのキリスト教迫害下にあり、教皇アレクサンデルも牢獄につながれていた。クイリノはバルビナを連れて牢獄を訪ね、教皇とともに神に祈ると、バルビナの顔はもとの美しい顔に戻った。家族はすぐに洗礼を受け、キリストの宣教に力を注いだ。バルビナは、キリストに生涯をささげたいと願い、終生独身を守ることを決意し、貧しい人々や、苦しむ人々の助けに力を尽くした。

 しかし迫害の手を逃れることはできず、法廷に連行された父とバルビナは、信仰を守りぬき殉教した。信徒たちは、彼女を記念してローマのアヴェンチノの丘に聖堂を建てた。

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◆正しい者の祝福

2017年03月31日 06時52分03秒 | 聖書

正しい者の頭には祝福があり、
悪者の口は暴虐を隠す。      (箴言一〇6)
暴虐と祝福、何というコントラストでしょう。
自分の運転手を次々と殺して保険金をごまかしていた会社社長の犯罪が、新聞に出ていました。海に連れていき、酒を飲ませて水の中で殺し、事故に見せかけたのです。ブラジルまで逃げて、とうとう警官隊に射殺されました。
暴虐な世相になってきました。自分の子を伸び伸び遊ばせられないような寂しい冷たい世の中です。
しかし私は、あるクリスチャンを知っています。その人は、金持ちでも有名でもありません。小ぢんまりした家に住んでいます。ところが、近所の人は、悩み事があるとこの家を訪ねていきます。この人の前に出ると、何でも打ち明けられるのです。話をよーく聞いてくれます。いけないことは、それはいけないとはっきり言ってくれるけれど、励まして自信を持たせてくれます。相談に来た人は心の重荷がおりて、ほっとして帰っていきます。まわりの人は、この家を尊敬をもって見ています。この家から祝福が流れてくるからです。神がその方の頭に祝福を注ぎかけ、その祝福が流れ出して、ご近所の人々までうるおしています。
神は、あなたを祝福の泉とされたいのです。そのためにイエス・キリストは十字架にかかり、あなたの罪をゆるされました。そのために、イエス・キリストはあなたを造り変えてくださいます。あなたを祝福のもとにし、神の国の仕事のため有用な存在とするために、生まれ変わらせてくださるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント五17)。
 
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◆彼の打ち傷によって、

2017年03月31日 06時51分19秒 | 聖書
私たちはいやされた。(イザヤ五三・五)
ピラトは主を兵士に渡してむち打たせた。当時ローマのむちは最も残酷な拷問に使われた。それは牡牛の皮で作られ、あちこちにとがった骨が入れてあるので、打ち下ろされるたびに、骨の小片が恐ろしい裂傷を与え、肉を骨からむしり取るのであった。救い主はもちろん柱に縛りつけられて、このようにむち打たれたのである。主はその以前にもむちで打たれたことがあった。しかしおそらく、このローマの兵士のものが、一番耐えがたかったであろう。私のたましいよ。ここに立ち、打たれた救い主のおからだのために泣け。
主にあるたましいよ。イエスがあなたの前に苦悶という愛の鏡を立てられる時、あなたは涙なしにイエスを直視することができるだろうか。純潔なゆりよりも美しい主が、ご自身の鮮血のために、ばらよりも赤くなられたのである。イエスがむち打たれたことによって、祝福に満ちたいやしが与えられたことを感じる時、私たちに愛と悲しみが共にわくのではないか。もし私たちが主を愛しているならば、今主の燃えるような愛を感じなければならない。
 見よ。忍耐深い主がいかに立たれるかを
 見よ。主は侮辱の極みを受けられた
 罪人らは全能なる主の御手をしばり
 造り主である主の御顔につばきした
 主の額には深くいばらがくい込み
 傷口より真紅の血がほとばしる
 背に鋭いむちを受けられたが
 そのむちが主の心を引き裂いた
一室に閉じこもって、私たちは泣いていたい。しかし日々の仕事をもっている。それなら、主が血潮を流された御姿が心に深く銘記されるように祈り、夕べには主との交わりのために帰り、私たちの罪が主をお苦しめしたことを思って嘆こう。
 
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詩篇27篇7-10節

2017年03月31日 06時49分31秒 | 聖書


27:9 どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。



ダビデは、自分の所に神の助けが及ばない時、なお主に、「あなたのみ顔を私に隠さないでください。」と願いました。

ダビデは自分が罪人であり、神様が自分のことを怒って裁かれることもあり得ることを、知っています。

しかしそうした自分であっても、自分はこの主のみを頼りにしていきます、というのです。

ですから、そうした自分の罪を見ないで、自分を助けてくださいと祈っているのです。

これは、私たちも全く同じです。

私たちが主にお願いをし、また主に頼ることができるのは、それは私たちが信仰が深いから、良い行いをするから、ではありません。

それは一切が、主の恵みと憐れみと許しに寄っています。

しかし、だからこそ、その主の憐れみにすがって、主に助けてくださいと願うのです。

それが信仰です。

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ローマびとへの手紙3章23, 24節

2017年03月31日 06時47分11秒 | 聖書


★すべての人は、 罪を犯したので、 神からの栄誉を受けることができず、 ただ、 神の恵みにより、 キリスト・イエスによる贖いのゆえに、 価なしに義と認められるのです。


■O:今日のコラム
罪というものは本当に恐ろしいものです。ローマの6:23の前半には「罪から来る報酬は死です。」と書かれています。
この罪はどこから来るのでしょうか。ヤコブの1章15節には次のように書かれています。「欲がはらむと罪を生み、 罪が熟すると死を生みます。」私たちの中にある欲から罪に発展し、それが死に至るというのです。
なぜ欲が生まれるかというと、自分勝手にしたいという願いがあるからです。私たちは創造主なる神に創造された被造物です。陶器師の手によって造られた器のような存在です。その器が陶器師に対して文句を言うことはできません。
それなのに、私たちは「あれがない」「どうして…」などと神様に対して文句を言ってしまいます。
もし、私たちが本当に神様に対して恐れ(畏れ)を持ち、神様の権威を認めているなら、こういったことは言えなくなるのではないかと思います。
器にはそれぞのれの目的があります。お皿でお茶を飲もうとすると不便で仕方ありません。同じように、私たちも神様の目的に沿って造られた者です。だから、私たちが神様の計画と違うように生きていくなら、苦しく神様に対して文句を言い続けてしまうかもしれません。
神様の目的と違う方向に歩むこと。これは的外れの生き方です。ギリシャ語で罪はハマルティアといい、文字通り的外れという意味です。
それでは、どのようにしたら的の真ん中を目指して生きることができるのでしょうか。残念ながら、自分の力ではそれをすることが出来ません。私たちを自分勝手な生き方から神様のみこころに沿った生き方に方向を変えることができるのはイエス様にしかできません。
今日の聖書の箇所には「私たちは罪を犯すと神からの栄誉を受けることが出来ない」と書かれています。神様の目的と違う事をしていたら神様から栄誉を受けることができないのも当然です。私たちはただ神様の恵みによって、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
この事は信じられないことです。本来なら死ぬべきものが価なしに義とされるのです。罪から来る死を、ただおひとり、一度も罪を犯すこと無くこの地で歩まれた神のひとり子イエス様のいのち、すなわち血の代価で私たちは贖われました。
贖うとは簡単に言うと所有権が移るということです。お店で商品を買う時に、レジでお金を払うとその商品はお店の所有から私たちの所有に移ります。それをいのちのレベルで行ってくださったのがイエス様の十字架です。


■A:考えてみよう
私は自分勝手に生きていないだろうか。
神様の召しに従って生きているだろうか。
神様の恵みに気づいているだろうか。
本来なら死んで当然の私を永遠の命へと招き入れて下さった驚くべき恵みに目を止めていきましょう。


■P:祈り
愛する天のお父さん、私を永遠の命へと導いて下さった驚くべき恵みを心から感謝します。このような信じられないような恵みを受けていながら、この恵みを忘れてしまい、恵みを放縦に変えて生きていたことを悔い改めます。
どうか私が瞬間瞬間、イエス様の十字架の恵みに目を向けることができるよう助けてください。私の内に残っている罪の性質をイエス様の血潮で洗い流して下さい。水であるみことばによって私の内なる人を洗い、血潮によってきよめ、御霊によって更新し、私の内なる人を新しくし、イエス様に似たものとして造り替えて下さい。
あなたの血潮によって、私は価なしに義と認められていることを心の底から感謝します。愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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3月30日(木)のつぶやき

2017年03月31日 01時29分01秒 | キリスト教
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◆私たちの道を尋ね調べて、

2017年03月30日 15時33分43秒 | 聖書
主のみもとに立ち返ろう。(哀歌三・四〇)
旅にある夫を優しく愛する妻は、その帰りを待ちわびている。主人と長く別れていることは、彼女のたましいにとって死に等しい苦痛である。救い主を愛するたましいにとっても同様である。彼らは主の御顔を見なければならない。主が険しい山々に出て行かれて、二度と彼らと交わりをされないのは、彼らには耐えられない。優しい父を怒らせることを恐れ、その笑顔を見る時にだけ幸福を感じる子らにとって、叱責のまなざしや上げられた手は悲しいのである。
愛する友よ。あなたもかつてはそうであった。聖書の一節、脅し、苦難のむちのために、「なぜ私と争われるかを、知らせてください」と叫びながら、父なる神の足もとに走った。あなたは今もそのようであろうか。それとも遠く離れてイエスに従うことで満足しているか。キリストとの交わりが中断されていても、平気でいられるのか。あなたが主と反対の方向を歩いているため、愛するお方が次第に遠ざかっていかれるのに耐え得るのか。あなたの罪があなたと神との間を隔てているのに、心の平安を得ることができるのか。
あなたが救い主の御顔を見なくても満足しているとは、悲しむべきことである。十字架の私たちの救い主の御顔を見なくても満足していることは、悲しむべきことである。私たちのために死なれた救い主に対してほとんど愛をもっていないこと、私たちの尊いイエスに対してほとんど喜びをもっていないこと、神の愛される御子とほとんど交わりをもっていないこと、これらがいかに悪いことであるかを感じるように努めよう。
自らの心がかたくななのを嘆き、たましいの中で真の受難節を守れ。悲しむだけでやめてはならない。あなたが初めて救いを受けた場所を思い出せ。ただちに十字架に行け。そこにおいてのみ、たましいは生かされる。いかに無感覚であり、また死んでいても、ぼろをまとった、貧乏な、汚れたままで、再び行こう。十字架を抱き、主を見つめ、血の泉にひたろう。そうすれば、私たちは初めの愛に帰り、単純な信仰と優しい心とを取り戻すことができるであろう。
 
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「さあ、行きなさい。

2017年03月30日 15時32分50秒 | 聖書

わたしはあなたをエジプトに遣わそう」(使徒7:34)

モーセは40才の時に、虐げられている同胞イスラエルを救いたいとの志を持った。
しかし、それは見事に挫折して、命を狙われ、遠くミデヤンの地に逃亡するはめになった。

そこで遊牧生活を送る事になり、結婚し、子供も生まれた。
40年間、荒野で羊を飼う生活にあった。
い歳月を見渡す限りの荒野で過ごし、エジプトでの王子としての地位も栄華もすべてが過去のものとなり、一介のただの羊飼いだ。

長い年月となると、それはそれで居心地の良い場所となっていたかも知れない。
そのモーセが80才になった時、神から召し出されたのだ。
40才の意気盛んな体力気力に満ちた時でなく、年老いてからだ。

モーセは文武にたけていた。
王子の立場なら、地位も名誉も、力も富も強大な影響力も人脈も持っていた。
しかし今や地位も影響力も何も無い羊飼いだ。

人間的に考えるなら、王子の立場でこそ、その影響力が・・と思うが、神はそうでなく、このモーセこそがふさわしいとされた。
神が用いられるのは、雄々しい軍馬ではなくロバの子だ。
何もかも剥ぎ取られ、砕かれたモーセだ。
神は立派な器でなく、砕かれた器をご自身のために用いられる。

この40年が必要であった。神は荒野でモーセを砕かれ整えられた。
そして、神はモーセが何と40才の時に抱いた志を叶えて下さった。
神のための志を、神は喜ばれ、ふさわしく整えて、神の時に成し遂げて下さる。

---------------
自分こそふさわしいと思っていたモーセは、40年をかけて砕かれた。
そして素晴らしく用いられた。
「あの方は盛んになり、私は衰えなければならない」目の前の一つ一つは、主が盛んになり、私が衰えるためだ。
間に合う器に整えて下さっている。

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おはようございます。

2017年03月30日 06時24分21秒 | 日記

今日も1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年03月30日 06時23分40秒 | キリスト教

聖ヨハネ・クリマコ修道者

570年ごろ-649年

 ヨハネは、パレスチナで生まれた。16歳のときに、シナイ山の修道院に入った。ヨハネは体こそ弱かったが、マルチリオ修道士の指導のもと、忍耐と謙遜をもって修道院の規則に従い、人一倍勉強をし、神への追従に努めた。その後、恩師であるマルチリオの勧めに従ってシナイ山麓に小屋を建て、独居生活を始めた。そこで黙想、苦行、労働を行ない、徳を磨いていき、多くの人々に影響を与えた。

 その後、シナイ山の修道院の修道者たちに推薦され、修道院長となった。彼は、『天国への梯子』という本を著わした。(ギリシャ語で梯子を「クリマコ」という。)本の内容は、イエスが洗礼を受けた年齢(30歳)にちなんで30の段階に分けられ、聖化の過程が示されている。自らの体験や他のすぐれた聖人たちの言葉が引用されており、後代に大きな影響を与えたといわれている。

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◆時を惜しんで働く人

2017年03月30日 06時22分28秒 | 聖書

夏のうちに集める者は思慮深い子であり、
刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。(箴言一〇5)
長野県のある中学校のPTAで、三年生にアンケートをとりました。それを整理して、PTAの総会で発表しました。「困った時だれに訴えるか」という項目で、約二百人の中学生のほとんどが「父・母・おじ・教師」などと答えた中に、たった一人「神」と書いた中学生がありました。この発表を読みあげた時、出席していた母親たちが思わずドッと笑ったとのことを聞きました。
このことには、私たち日本人の平均的な気持ちが表れていないでしょうか。けっして、悪気があったり軽蔑したから笑ったのではないでしょう。思わず笑ったのです。
しかし思わず笑ったその中には、「神のこと・霊的なこと・永遠のこと」を人生の中・頭の中から押し出そうとしている私たちの生き方が映し出されているのではないでしょうか。ほんとうに困った時に、なぜ私たちは、「神さま」と神の前にひざまずこうとしないのでしょうか。
働き盛りの人生の夏のうちに、健康で働けるうちに、今は見えていないもの、つまり永遠の神の存在を認め、その神のみこころを知ることに努力を傾けないでよいはずはありません。また人生の刈り入れ時を迎え、人生の結論をそろそろ出さなければならないころ、やがて永遠の世界と正面きって対面しなければならないのに、何の用意もせず、眠りこけているのです。
これは大変なことではないでしょうか。「恥知らず」といわれても返すことばがありません。
 
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◆彼が……

2017年03月30日 06時21分41秒 | 聖書
そむいた人たちとともに数えられたからである。(イザヤ五三・一二)
なぜイエスは、自分が罪人とみなされることを忍ばれたのであろうか。この驚くべき謙遜は、多くの有力な理由によって解くことができる。
こうされたため、主は罪人の代弁者となることができた。ある種の裁判で弁護士は被告と同一視され、法律的に二者は分離されない。さて罪人が法廷に引き出される時、イエスはご自身でそこへ出て来られる。主は審問に答えるために立たれる。ご自身の脇腹、両手両足を指さして、ご自分が代わられた罪人のために、正義の糾弾に答えられる。ご自身の流された血をもって抗弁し、自ら罪人となり、完全に弁護の任を果たし、裁判官は「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」と宣告する。
私たちの主イエスは、罪人の心をご自分のほうに引きつけるために、背いた人たちとともに数えられた。私たちは、同じリストに載せられている方をどうして恐れることがあろうか。私たちは、はばからず主のもとに行き、自分の罪を告白することができる。私たちとともに数えられている方が、私たちに罪を宣告することはおできにならない。
主が罪人のリストに載せられたのは、私たちが聖徒として登録されるためではなかったか。主は聖く、聖い者の中に名を記され、私たちは罪人であり、罪ある者の中に数えられていた。主はご自分の名前を向こうの聖なる表からこちらの起訴状に移され、一方私たちの名前は、起訴状から取り去られて、受け入れられる者の表に記される。ここでイエスとその民とは、完全に入れ替わるのである。イエスは自らを私たちのあらゆる不幸と罪の状態に置かれ、私たちにはイエスの所有されるすべてのものが与えられる。主は私たちに、主の義、主の血、また他の一切の所有物を持参金として与えられる。主にある友よ。背いた人たちとともに数えられた主とあなたが結合されることを喜べ。また明らかに主にある新しき者の中に数えられることにより、あなたが真実に救われたことを証しせよ。
 
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