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◆神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。

2016年04月30日 15時49分35秒 | 聖書
その総計は、なんと多いことでしょう。(詩篇一三九・一七)
 
神の全知は、不信仰な人の心には何の慰めも与えない。しかし、神の子どもに対しては、あふれるばかりの慰めを与える。神は常に私たちのことを考えておられ、常に目の前に私たちを置いてくださる。これは、私たちにとっても願うところである。たとえ一瞬でも、天の父の御目の届かない所で生きるのは、私たちにとって実に恐ろしいことだからである。主の御思いは常に優しく、愛に富み、賢明であり、思慮深く、広範囲に及び、数えきれない益を私たちにもたらしている。したがって、それらを思い出すことは何よりの喜びである。主は常にご自分の民のことを考えておられた。それゆえにこそ、彼らの選びがあり、彼らの救いをもたらす恵みの契約があった。主は、これからも常に彼らのことをお考えになる。したがって、彼らは最後まで支えられ、安全に最後の安息にまで導かれる。
私たちがさまよう時、永遠の見張りの者の絶えることのない視線が私たちの上に注がれており、私たちは決して、羊飼いの目の届かない所に迷い出ることはない。私たちの悲しみの時、主は絶えず私たちを見つめ、ただ一つの苦しみさえ逃されない。私たちが労苦する時にも、私たちのすべての疲れに心を配り、主の忠実な子どもたちのすべての戦いを記録される。これらの主の思いは、私たちが歩むすべての道で私たちを囲み、心の奥底まで見通してくださる。
愛する友よ。これはあなたにとって尊いことではないか。ではそれをしっかり守れ。非人格的な神などを信じてはならない。主は生きておられ、私たちのことを思っていてくださる。この真理は、軽々しく奪われるにはあまりにも大きい。高貴な人に知られるということは非常に価値のあることであり、そのようにされるならば、自分の運命が開かれたと思う。しかし、王の王によって自らの存在が知られることは、なんとすばらしいことか。主が私たちを念頭に置かれるならば、すべてはよく、私たちは永久に喜ぶ。
 
 
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「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる…

2016年04月30日 15時48分37秒 | 聖書

愛する者が傷つける方が真実である」(箴言27:5)

ある人が、友人から相談を受けた。
すると、その内容がはっきり神の御心に反する事であり、罪であるので、愛するゆえに御言葉を告げて警告した。
それ以後、いっさいその人のもとに来なくなった。
実は助言を求めてではなく、自分に同意してくれる事を求めて来たのだった。
自分ですでに決めているし、決して翻すことはない。
ただ同意し、認めてくれる人が欲しい。
そうして行くなら、いつも自分を正してくれる人、本当に愛してくれている人から、遠ざかる事になってしまう。
神は人を通して、忠告を与え間違いを正して下さる。
サタンに誘惑される時、目がおおわれて、自分には食べるに良く、目に慕わしく、賢くなる、麗しい道としか見えない。
盲目になってしまう。
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道」だ。
しばしば、周囲の人には見えている。
警告に耳を傾けるなら、自分の命を救う事になる。
「愚か者は自分の道を正しいと思う。
しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」。
自分を愛してくれている人、祈ってくれている人の、愛から出ている忠告に耳を傾けよう。
嫌われるのも承知で、直言してくれる痛い言葉を、警告として受け取り、自らを省みよう。
神があなたを正し、義の道へ導こうとされている。
---------------
自分を肯定してくれる言葉は耳に心地よい。
また言うのも簡単だ。
それをあえて忠告してくれる人の言葉は謙遜に、大切に受け取ろう。

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今日の聖人の記念日

2016年04月30日 06時52分29秒 | キリスト教

聖ピオ5世教皇

在位1566年-1572年

 アントニオ・ギズリエーリは、1504年にイタリアのロンバルディアの貧しい家に生まれた。若いときにドミニコ会に入り、1550年に宗教裁判所長となって異端審問官を長く務めた。厳格で禁欲的な人であり、また、信心深く、臨終の人を慰めたり、施しを求める貧者を家に招いていた。教会に対する大きな愛と、聖母マリアに対する熱烈な信心が、彼の活動のエネルギーだった。

 教皇になってからは、教会全体から不道徳を払拭し、トリエント公会議の改革規定の実現に力を注いだ。ローマ・カトリック要理(1566年)を出版し、聖務日課書を改訂し、ミサの形式を確立した。現在行っているミサの形式は、この時代に定式化されたローマ典礼によっている。

 晩年は、ロザリオの祈りの形態を定め、トルコ軍の攻撃によって危機に陥ったヨーロッパ・キリスト教諸国のために、マリアの保護を求めてロザリオの祈りを広めたので、「ロザリオの教皇」と呼ばれている。没150年後に列聖された。

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◆家族への態度

2016年04月30日 06時51分21秒 | 聖書

自分の家族を煩わせる者は風を相続し、
愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。(箴言一一29)
 
家庭がうまくいかないということは、私たちのまわりを見まわすと、それこそどこにもあるようです。
家庭の中心となるべきものは愛です。愛によって、家庭はやすらぎの場となります。ここでやすらぎを得てこそ、外で活躍する力が私たちに与えられましょう。家庭が平和でないと、外での対人関係もスムースにいきません。家の中がいびつなら、外に出てもいびつです。
「自分の家族を煩わせる者」=家族にひずみを与える者です。家庭にひずみを与える子がいると、その家庭はどんなに苦しく、また暗いことでしょう。また、父親が家庭を顧みず、家庭に仕える愛の責任を果たさない時、どんなにその家庭は、冷たく寂しくうつろなことでしょう。家族の一人一人の心に与える傷は深く、家庭をだめにしてしまうのです。
「風を相続する」=人生をうつろにしてしまうことです。心の一番奥底に、後ろめたさ・寂しさがつきまといます。その結果、対人関係も自信がなくなり、うまくいかなくなります。他人なら逃げ出すことができても、家族は互いに逃げ出せません。苦しめたり苦しんだりするのです。そして、もし逃げ出せばおしまいです。そんな情況の原因となる人は、それ以外のことでもうまくいかないでしょう。
人の実力とは、単なる能力だけではありません。頭が切れること・仕事ができること・人が使えること・先が読めること・計画がよく立てられることでもありません。まわりの人を愛し受け入れていけることではないでしょうか。
現代ほど愛の歌をうたう時代はありません。しかし、愛はどこにあるのでしょう。「ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四10)と聖書は言います。神に、キリストに、その十字架に、現代の奇蹟があります。
 
 
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◆イスラエル人はみな……

2016年04月30日 06時50分31秒 | 聖書
つぶやき……。(民数一四・二)
 
昔イスラエルの宿営に不平があったように、今もクリスチャンの中に不平がある。彼らはむちが加えられると患難の時をのろう。彼らは尋ねる。「なぜこんなに苦しむのだろう。私がどんな悪事をしたというので、このように罰せられるのだろう」と。つぶやく者よ。なぜ天の父のご配慮をうらむのか。主があなたを苛酷に扱いすぎることがあり得るのか。あなたはかつていかに神に反抗したことか。しかし神はあなたを赦された。もし神がその知恵によりあなたを懲らしめるのをよしとされたなら、あなたは不平を言うべきではない。
あなたは自分の罪に相当する厳罰を受けているか。あなたの心中の腐敗を考えてみよ。そうすれば、腐敗が除かれるために、そのように多くのむちが加えられなければならないことに驚くであろうか。あなた自身を量りにかけて、自分の金の中にいかに多量の不純物が含まれているかを確かめよ。それなら、多くの不純物をきよめるため、火が熱すぎると思うであろうか。あなたの高慢な反抗的精神は、あなたの心が全くきよめられていないことを証明しているではないか。その不平のことばは、神の子たちの聖い従順な性質に反するものではないか。それの矯正が必要ないであろうか。しかし、もしあなたが懲らしめに対して不平をもつならば、つぶやく者にはいっそう激しい罰が下ることに注意せよ。神は最初のむちを素直に受けない子どもに、いつでも再び懲らしめを加えられる。しかし次の一事を知れ。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」
主の矯正はすべて愛から出ており、あなたをきよめ、ご自身に引きよせようとされるためである。もしその懲らしめが父から来ることを認めるならば、たしかに素直に受けるべきである。「『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」「彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」
 
 
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エズラ書2章64-70節

2016年04月30日 06時48分48秒 | 聖書


2:68 一族のかしらのある者たちは、エルサレムにある主の宮に着いたとき、それをもとの所に建てるために、神の宮のために自分から進んでささげ物をした。
2:69 すなわち、彼らは自分たちにできることとして工事の資金のために金六万一千ダリク、銀五千ミナ、祭司の長服百着をささげた。
2:70 こうして、祭司、レビ人、民のある者たち、歌うたい、門衛、宮に仕える
しもべたちは、自分たちのもとの町々に住みつき、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた。



 バビロンの捕囚として連れて行かれた当初の人々の人数は、エレミヤ書の52章に書かれていますが、4600人でした。

ところが、この帰国の時に帰ってきた人々の数は、大変多くなっていました。

バビロン滞在中に増えたのではないかと思われます。

これらの人々がエルサレムに着いた時、そこでの神殿の跡を思い、沢山の捧げ物をしました。

神殿建設の為の費用を出し合ったり、また神殿が出来た後に、祭司が奉仕をするための装束100着を献げました。

彼らの心は、期待に燃えていたのです。

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ヤコブの手紙2章24節(民数記3章)

2016年04月30日 06時46分44秒 | 聖書


★人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。


■O:今日のコラム
本日のキーワードは「行い」です。
私たちは恵みの時代に生かされています。
自分の努力によらず、神様からの一方的な恵みのゆえに私たちは救いを受け取りました。

しかしながら、本日の箇所は一見矛盾しているように感じられます。

ヤコブ2:24では
「人は行いによって義と認められる」と書いてあります。
一体どういうことでしょうか?
私たちが努力して救いを勝ち取るということなのでしょうか?

いいえ、ここで言っているのは、既にイエス様の救いを受け取った人々に対してのことです。
イエス様の救いを受け取った私たちが守るべき律法は、唯一「自由の律法」だけです。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」この命令がまさに自由の律法です。
この命令を私たちの人生の中で実行するときに義と認められるということです。

信仰とはなんでしょうか?
信仰とはイエス様に信頼することに他なりません。

自由の律法を行うためにはイエス様に信頼することが必要です。
イエス様が一番最初に私たちを愛してくれました。
この愛を経験した私たちは隣人にイエス様の愛を流さずにはいられません。

そのことによって行いを伴った信仰が完成されるのです。
ヤコブ1:25では「自由の律法を一心に見つめて離れない人」が出てきます。

このような人がする行いはすべて祝福されると聖書にあります。
私たちの行いがイエス様の愛に基づいたものであるように願います。


■A:考えてみよう
絶えずイエス様を見続けましょう。
イエス様が成し遂げた救いの御業がどれほど素晴らしいものであるか思い巡らしましょう。


■P:祈り
イエス様、あなたの最高の命令である「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という命令を
守ることができるために、さらに深いイエス様の十字架の愛を体験させてください。
すべての栄光をあなたにお返しします。

イエス様のお名前によってお祈りします。

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4月29日(金)のつぶやき

2016年04月30日 01時42分07秒 | キリスト教
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◆主は、ご自分の民を愛し……。

2016年04月29日 16時42分07秒 | 聖書
(詩篇一四九・四)
 
イエスの愛は、なんと広い愛であろう! 民の関心事で、主がみこころを煩わされないものはなく、民の幸福に関することで重視されないものはない。信者よ。主はあなたを滅びない者として考えておられるだけでなく、死ななければならない者としても考えておられる。それを否定したり疑ったりしてはならない。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」
この愛の衣が、私たちの心遣いの一切を包んでくれなかったら、それは私たちにとって悲しむべきことであろう。私たちの務めの一部が、恵み深い主の検分からもれていたならば、どのような不幸が私たちの上に降るかわからないからである。信者よ。安心せよ。イエスはあなたの一身上のごく細かなことすら、心にかけておられる。主の優しい愛の範囲はこのように広いから、あなたはすべてのことを主に訴えてよい。主はあなたのすべての悩みを悩み、父が子をあわれむようにあなたをあわれんでくださるからだ。
神の御子の胸には、単にその民の一人一人が覚えられているのみか、すべての民の種々雑多な数えきれない関心事がみな覚えられている! おお、クリスチャンよ。あなたはキリストの愛を測ることができると思うか。主の愛があなたに何をもたらしたかを考えよ。あなたは義とせられ、子とせられ、聖化せられ、そして永遠のいのちを与えられた! 主の善の富は数えきれない。否、それらを心に描くことすらできない。
キリストの愛の広さよ! 私たちはそのような愛に対して、自分の心の半分でもささげているだろうか。そのような愛に応えるのは、冷たい愛だけであろうか。イエスの驚くべき愛と優しい心遣いとは、かすかな応答と仕方なしの感謝を受けるだけなのか。私のたましいよ。おまえのたてごとを感謝をこめた喜びの歌に合わせよ。喜びに満たされて休息せよ。なぜなら、おまえは頼りとするもののないさすらい人ではなく、愛される神の子どもであり、主によって見守られ、心に留められ、支えられ、保護されているからである。
 
 
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「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、

2016年04月29日 16時41分13秒 | 聖書

自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって…」(Ⅱテモテ4:3)

ある人が聖書セミナーに出席した。
数日間、御言葉の学びが続けられた。
すると、その中で講師は毎回、罪について語った。
罪がいかなるものか、悔い改めの必要性、罪から離れなければならない事、又、自分を否み、自分に死ぬこと。
毎回、自分の罪が刺され、罪深さが見せられた。
気が重くて、聞くのが嫌でたまらず聞きたくなかった。
しかし出席者たちは真摯に受け止め、感謝し喜んでいた。
グループ別の交わりで、自らの罪が示され、悔い改め喜びに溢れて感謝している人々と接っした時、目が開かれ気づかされた。
自分は、神に愛されている事、自分が高価で尊い事、自分の人生には価値があり自分は有用であり…そんな事が聞きたいだけなのだと。
自分中心の信仰に気づかされた。
自分に都合の良い、心地良い言葉だけが聞きたい、ただ愛されている事だけを聞いていたい、幼子の信仰なのだと。
自分で聞きたい言葉を決めているわけで、それなら、それ以外の言葉は決して入って来ない事になる。
まさに「真理から耳をそむけ、空想話にそれて行く」ことになると気づかされた。
大きな気づきを与えられ、悔い改め、新たにされた。
私たちも聞きたい言葉を決めていないか、心地良い言葉だけを求めていないか。
主が、私に語られる言葉を受けて行こう。
本当の喜びを味わう。
--------------------
自分で聞きたい御言葉を決めていないか。心を探ってみよう。
それなら他の御言葉は入らない。
真理から離れ、空想話になる。
自分の思いを捨て、今一度、真摯に御声に耳を傾けよう。

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今日の聖人の記念日

2016年04月29日 06時34分06秒 | キリスト教

聖カタリナ(シエナ)おとめ教会博士

1347年-1380年

 カタリナは、おとなしい父と働き者の母の24人の子どもの末っ子として、イタリアのシエナに生まれた。幼いときから修道生活に憧れていたが両親の反対にあい、18歳のときにドミニコ会の修道院に入ることができた。14世紀は、教会内の分裂、ペストの流行、教皇のローマからアヴィニョンへの退去などで混乱していた。カタリナはペスト患者や貧しい人々、刑務所にいる人々のために献身的に働いた。また、手紙や著書をもって教会と国家のあいだの困難な問題、特に教皇のローマ帰還、ドミニコ会の改革のために貢献した。

 現在、シエナの中心に緑と白の縞模様のカタリナ聖堂が建っている。

  カタリナの祈り
   永遠の神よ、あなたの光のうちに私たちは光を見ます。
   主よ、お願いですからこの光をすべての人々の上に注いでください。
   見えない人たちに、あなたを愛し、あなたを望み、あなたを知るように、
   彼らに目を与えてください。
   あなたに感謝します。
   私に多くの人々を愛するように
   広い心を与えてくださったことを心から感謝いたします。
   彼らをあなたの光で照らしてください。
   主よ、私をあわれんでください。
   そしてあなたの味わい深い祝福を注いでください。アーメン。

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◆何をたよりにするか

2016年04月29日 06時33分04秒 | 聖書

自分の富に拠り頼む者は倒れる。
しかし正しい者は若葉のように芽を出す。(箴言一一28)
 
年末に売り出されるジャンボ宝くじは、予約をしないと買えないほどの人気だそうです。夢を買うつもりなら、一枚ぐらい買ってみてもいいかもしれませんが、「富に拠り頼む」のは絶対にだめです。
何年か前、二千万円の宝くじに当たった人の悲劇物語が新聞に出ていました。ああ、これでおれも人生一息つけると思ったことでしょう。ところが、今まで知らん顔だった親戚や友人まで、砂糖にたかる蟻のようにやってきます。彼は人間不信に陥り、おれのものはおれのものと、その二千万円をかかえこみました。やがて、心の中に巣くうみにくい欲望にしてやられて、悪とけがれに転落し、三年後には、水死体となって川に浮かびあがったのです。
遠いお話と聞かないでください。お金には力があります。正しい心で用いれば、どんなにあってもいいものでしょう。しかし、お金に「拠り頼む人は倒れる」のです。石油をドルに換えても、ドルはさがればおしまいです。お金を金に換えて、大損をした人の話も聞きました。持っていると思っていたのに、一夜明けるともう持っていなかった。――これがお金です。
私たちは裸で生まれ裸でこの世を去ると、聖書は言います(ヨブ一21参照)。生まれてくる前・現在の人生・死後の世界のすべてを支配しているのは神の力であって、お金ではありません。
目に見えない大切な愛・誠実さ・偽りのないやりとり・そこから出る信頼感、こういうものなしに人生は成り立っていきません。そして、これらのものは、何一つとして金では買えないのです。このようなものはみな、自分の誠実さであがなうものです。そして、神の助けなしには誠実に生きることはできません。しかし、神にたより神に助けられて誠実に生きる時、人生は若葉のように生え茂り繁栄するのです。
 
 
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◆あなたは、わざわいの日の、

2016年04月29日 06時32分16秒 | 聖書
私の身の避け所です。(エレミヤ一七・一七)
 
クリスチャンの道は、いつも太陽が輝いているわけではない。時にはやみもあらしもある。なるほど神のみことばには、「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」と記されている。まことにそれは一大真理であり、信仰は人に天上の喜びのみならず、地上の幸福をも与えるものだと考えられている。しかし、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」にしても、時にその光がさえぎられることを経験する。ある期間、雲が信者の太陽をおおい、信者はやみの中を歩き、全く光を見ないことがある。
しばらくの間、神の臨在を喜んだ人は多い。彼らが信者となったころ、彼らは十分な日光を浴び、「いこいの水のほとり」の「緑の牧場」を歩んだ。しかし突然、彼らは晴れた空が雲におおわれるのを発見し、ゴシェンの地に代わって砂漠を歩かなければならない。甘い水の場所には困難な川が流れ、彼らはその苦い水をなめて、「もし私が神の子なら、こういうことは断じてあってはならない」と言う。ああ、暗い道を歩む者よ。そういうことを言ってはならない。すぐれた神の聖徒は苦よもぎを飲まなければならない。神の最も愛される子どもたちは、十字架を負うべきである。クリスチャンはだれであっても繁栄ばかりを楽しむものではなく、常にたてごとを柳の木に掛けないでいられるわけではない。
おそらくあなたが弱く臆病であったために、主は初めのうち、やわらかく日の当たる道を与えてくださったのであろう。主は毛を切った小羊に強い風が当たらないように配慮される。しかしあなたは、霊的生活において強くなったので、神の成長した子どもとして円熟した激しい経験に入らなければならない。私たちは自分の信仰を鍛練し、自己依存の腐敗した枝を除き、さらによくキリストに根を下ろすために、風とあらしを必要とするのである。わざわいの時が、私たちの輝かしい希望の価値を示すのである。
 
 
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エズラ書2章59-63節

2016年04月29日 06時30分58秒 | 聖書


2:59 次の人々は、テル・メラフ、テル・ハルシャ、ケルブ、アダン、イメルから引き揚げて来たが、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを、証明することができなかった。
2:60 すなわち、デラヤ族、トビヤ族、ネコダ族、六百五十二名。
2:61 祭司の子孫のうちでは、ホバヤ族、コツ族、バルジライ族。



 時々、戦禍とか災害に巻き込まれますと、その人達は自分の家族との離別がなされて、帰る所がわからなくなるということがあります。

 民の中で、捕囚の時に、大きな混乱と困難に置かれたために、自分たちの家に置かれていた系図を失ってしまった人々がいました。

そのような人々は、一般の人々だけではなくて、祭司たちの内にもいました。

従って、一般の人々は彼らが主の民であることが証明されればよかったのですが、祭司達は、祭司としての特別な奉仕をする義務がありましたが、身分が証明されるまで、その務めを行うことができませんでした。

それは選ばれた者のみに許された、特別な行為であったからです。

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民数記2章2節

2016年04月29日 06時28分55秒 | 聖書


★「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。

ヤコブの手紙1章25節
★ ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!4月26日の朝です。今日1日も、主から御言葉を受け取り、その御言葉を宣言し、実行していきましょう。僕らは、頭でっかちに御言葉をためていくのではなく、御言葉を実行していくときに、御言葉の約束をみることができるからです。その行いによって祝福されるのです。

603,550人のレビ人以外のイスラエル人が荒野で移動するために、それぞれの旗じるしのもとにとどまり、会見の天幕を中心に進んでいきました。神様が移動するタイミングをいつも気にかけ、自分がいるべき場所を確認し、行動していく必要がありました。旗を見上げることを実行し続けていくことで、祝福を受け取っていきました。

その道から外れる時には危険が伴いました。自分がやりたいと思うことと違う道を歩んでいる時、僕らは、本当にこれで良いのかと不安になります。神様がゴーを出してくれない時、辛くてたまらなくなります。しかし、旗じるしを見上げ続けることは、自分の思いを脇におき、主の思いを第一にしていくことです。天のお父さんであられる神様の御国とその義とを求めていくことです。その時に、それに加えてすべてのものが与えられます。僕らの思いを脇に置くとき、主は、僕らの思い描いていたこと以上の祝福で満たしてくださいます。


完全な律法、すなわち自由の律法は、イエス様が成就された十字架と復活の勝利による律法です。この福音の力を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。僕らは、御言葉を実行する者になれます。そのためには、一心に見つめて離れないことです。

僕らの主の旗じるしは、愛です。主の十字架の愛を受け取っていきましょう。血潮の愛を注がれていきましょう。聖霊様を歓迎していきましょう。


■A:考えてみよう
主の旗じるしにとどまるために、今、何ができますか?
十字架を見上げ続けていくために、僕らには何ができますか?


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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