座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ1: 20)

2021年04月25日 20時05分33秒 | 聖書



怒りがすべて罪なのではない。正しい怒りがある。
主はパリサイ人の偽善に怒り、又、神殿で商売がなされている事にひどく怒られた。
悪や罪を憎まずして、主を愛する事は出来ない。
神を愛するとは罪を憎む事だ。
怒りに二種類あり、正しい怒りと自我から出る怒りがある。

では、肉の怒りはどのように対処すればよいのか。
まず、自分の怒りをきちんと認める事だ。
腹を立てているのに、怒っていない振りをしてはいけない。
怒っているのに、怒りは良くない事と、抑え込む。
しかし、封じ込められた怒りは、無くなるのでなく、心の底に存在する。
溜め込んで行く。

自分はクリスチャンだからと、自分の怒りを認めない事がある。
そうではなく、怒っている事実をまず認める事だ。
次にその怒りの原因をよく考えてみる。
なぜ怒っているのか。自分の何に触れるのか。
プライドか、虚栄心か、自分の名誉、メンツが損なわれるのか。

次に、その怒りはそのまま表現してはならない。
感情的なままで人に対応すると、相手を傷つけ、自分も傷つき、必ず後悔する。
怒りに任せてしまい失敗した経験が何度もあるだろう。

自分の怒りを抑え込む事も、爆発させる事もよくない。
まず人ではなく神の御前に行き、怒りを神に告げよう。
ことごとく心の内を告げて、そして、十字架のもとへ行き、豊かな赦しを受け取ろう。

---------------------
何で怒っているのか冷静に考えてみよう。
義憤か、単に自分に都合の良い正義か。
又、自我に触れるなら、どの部分なのか。
主とよく交わり、必要なら悔い改め、そして主にお委ねしよう。
又、この事で、主に近づけていることを感謝しよう。
平安へと導いて下さる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘブル10:19

2021年04月25日 06時15分36秒 | 聖書

「こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」(ヘブル10:19)


私たちはどうだろう。主に喜ばれる事を行なおうと決心するが、何度挫折した事だろう。
日毎に、聖書を読むことが良いとはわかっているが、なかなか読めない。
祈りが大切だと知っているが、何度も失敗する。
朝、バタバタして、時間に追われ、つい御言葉と祈りをパスしてしまう。
祈りが大切だと知らなくて、祈らないのではない。
御言葉に従って生きる事の大切さを知っている。
わかっているが、出来ない。

しかし、そこで落ち込んで、自分を責め、落胆するのでなく、だからこそ主がおられることを覚えよう。
もし自分の力で、日々デボーションができて、良い行ないができるなら、主は必要無いことになる。
あなたも「〜ねばならない」で心が縛られているだろうか。
主を信じて、休息するのでなく、返って重荷にあえいでいるだろうか。
ありのまま来なさいと言われているのに、良い行ないで御前に出ようとするだろうか。

祈り聖書を読み、御心に従っている事によって、大手を振って御前に出るだろうか。
そうなら罪を犯すと、途端に出られなくなる。こういう状態だろうか。
これなら、主によってではなく、自分の功績によって御前に出ている事になる。
そうでなく、自分の状態に関係無く、イエスの血によって大胆に恐れなく、御前に出る事ができる。
今日も、今も、自分のわざによってでなく、主イエスの血のゆえに、今のままで御前に受け入れられている。
血によって御前に行ける。
-----------
主の十字架の血潮が、良心の呵責から解放してくれる。
ああすれば良かった、こうしなければ、の思いもそのまま持って24時間いつも主の前にいられる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021年04月17日 11時11分09秒 | 小説・詩

雨上がりの街

傘を持て余して

歩く

沈黙のまま

多くの人と

すれ違う

琥珀色の想い

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする