座間コミニティー

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レター・泉教会1231

2011年12月31日 15時24分55秒 | 聖書

(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)

何かの広告に付けられていたと思いますが、次のようなフレーズがあります。

「あしたを/あなたと/考えたい」。何か、響きがよかったので、そこだけ覚えています。あしたを考えるという、前向きの姿勢がいい。けれども、ちょっと考えてみると、これはすごく当たり前のようで、当たり前ではないのではないか。そう思うのです。つまり、私たちは「あした」をなかなか考えられない。24時間後の、近いところにある「あした」だったら、考えているかも知れない。しかし、自分の将来にかかわる「あした」は、なかなか考えていないのではないでしょうか。私たちは誰も皆、毎日をこつこつと、大変まじめに生きている。ふざけて生きている人は、いないのです。にもかかわらず、どうしたわけか、心の中に、時として不安がよぎる。ねたみ、憎しみがある。驕ることも、自己卑下することもある。基本的に自分を守る姿勢、というものがあって、どうしても関心が「内」に向いてしまう。こうして、結局、「あした」が考えられなくなっていると思います。鉢植えにしている蘭の花がどうも元気がないので、思い切って鉢を壊してみたら、何と、根っこがびっしりと張りつめていて、鉢の中は自分の根でいっぱいでした。しかも古い根はすでに朽ちている状態だったのです。私はそれを見ながら、私たちもけっこう同じではないかと思ったのです。興味、関心、取組みが外に向かわず、内に張り詰めている。やがて内側から朽ち始め、当然、外に向かっての勢いがなくなるのです。聖書は言っています、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」。多くのことに思い悩み、心を乱してしまう時は、不思議にものすごく真面目な時なのです。びっちりと根を張らせている時なのです。どうでしょう、聖書の前に立ち止まって、人生にすき間を作ってみませんか。あなたも、泉教会で、あしたを考える仲間になってほしいのです

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出エジプト記29章1-9節

2011年12月31日 15時17分03秒 | 聖書

29:5 「あなたは、装束を取り、アロンに長服とエポデの下に着る青服と、エポデと胸当てとを着せ、エポデのあや織りの帯を締めさせる。彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に、聖別の記章を掛ける。」  主は先に、大祭司のために、大祭司が着る装束を作るように命じました。それが出来た時にどうするかということを、ここで語っています。その装束とは、長服とその上に着る青服、さらにエポデ、そして胸当てです。これが装束です。この装束に対して、帯をつけること、また頭にかぶり物をかぶり、その上に聖別の記章をつけるようにと命じられました。  聖別の記章というのは、神によって選ばれ、この働きのためにつくように召された印ということです。これは、神による召しによったことでした。また、それのみではなくて、神に仕える者、神の前に清い者として、その立場をしっかり覚えて、働きにつくその印と意識がここに記されているのです。キリスト者に、クリスチャンというあだ名がつけられたのと同じです。主にあって、主のために生きるのです。

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◆祭りの終わりの大いなる日に、

2011年12月31日 15時07分59秒 | 聖書

イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ七・三七)

主イエスは全き忍耐を保ち、祭りの終わりの日に至るまでユダヤ人の心に訴えられた。同じようにこの一年の最後の日においても、主は私たちの心に訴えられ、私たちに恵みを与えようとして待っておられるのである。主が年々私たちのある者に対してなされる忍耐は、まことに驚くほかない。主は、私たちの挑戦、反逆、そして聖霊に対する反抗さえ耐え忍ばれる。私たちが、なおあわれみの国にいるということは、実に驚異中の驚異である。
あわれみはきわめて明白に表された。なぜなら、イエスは叫ばれたからである。主は単に声を大にされたというのではなく、優しく語りかけられたのである。主は私たちに和解を訴えておられる。パウロは「神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います」と言っている。なんという熱烈な、心に迫ることばであろう。主は罪人たちのために泣き、母親がその子どもを愛するように私たちを御胸に抱き寄せられる。主の愛のなんと深いことか。このような呼びかけに対し、心を動かさないでいられるだろうか。
備えは十二分になされている。人がたましいの渇きをいやすのに必要なものはすべて備えられている。贖いは私たちの良心に平安をもたらし、福音は私たちの悟性に豊かな教訓をもたらす。またイエスのご人格は、私たちの心に最も気高い愛の対象を刻み、イエスにある真理は、私たちの全人格に最も純粋な栄養を供給する。渇きは激しい。しかし、イエスはそれを取り去ることができる。イエスはたましいが全く飢えていても、それを満ち足らせてくださる。
この宣言は最も自由なものである。すなわち、渇いている者はだれでも歓迎するというのである。そこには渇いているという以外に、何の差別も設けられていない。それが貪欲、野心、快楽、知識、安楽などの渇きであろうと、渇いている者はすべて招かれているのである。渇きそのものは、悪いものであるかもしれない。そこには、恵みのしるしはいささかもなく、肉欲をさらに満足させようとする罪のしるしのみが見られるかもしれない。しかし、主イエスが招かれるのは、人のうちに美徳があるからではない。主は自由に、だれかれの区別なく招かれるのである。
また、イエスご自身のみもとに来るということが、ここにおいて明白に宣言されている。罪人はイエスのもとに来なければならない。善行や、儀式や、教理に来るのではなく、十字架上で自らのからだの上に私たちの罪を負ってくださった贖い主のみもとに来なければならない。血を流して死に、かつよみがえられた救い主は、罪人にとって唯一の希望の星である。ああ、一年の最後の日において、太陽が沈む前に今、イエスのみもとに行って、主から飲む恵みを得たい。
ここには待つことも準備することも言われていない。飲むことのためには、何らの資格も要求されていない。だれが飲んでもよいのである。品性が罪に汚れているということは、イエスを信じる上でいささかも妨げとなりはしない。私たちはこの水を飲んで渇きをいやすために、金の杯も、宝石を散りばめた杯も必要としない。貧しい者も、ただかがんで口を流れにつけさえすればよいのである。どんなに汚れたくちびるであっても、神の愛の流れに触れることができる。そのくちびるは流れを汚さないばかりか、かえってその水によって清められるのである。
イエスは希望の泉である。愛する読者よ。優しい贖い主が、私たち一人一人に向かって叫ばれる愛の御声を聞け。
「だれでも渇いているなら、
わたしのもとに来て
飲みなさい。」

 

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◆その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。

2011年12月30日 18時38分49秒 | 聖書

(Ⅱサムエル二・二六)

読者よ。もしあなたが、ただの自称信者であって、キリスト・イエスにある信仰をもっていないならば、次に述べるのが、あなたの終局の真の描写である。
あなたは礼拝に忠実に出席する。あなたの心が神と共にあるから出席するのではなく、他の人々が行くからあなたも行くのである。これがあなたの振り出しである。次の二十年か三十年、今のような状態が続くとしよう。外見は集会に出席して信者らしく見せかけているが、心は真の信仰をもっていない。
静かに聞いてほしい。あなたに、あなたのような人の臨終の床の有様を見せなければならないからである。彼の額は汗にぬれている。彼は目を覚まして叫ぶ。「神よ。死ぬのはつらいことです。……牧師を呼びに行ったか。」「はい。今来られます。」牧師が来る。「先生。私は死ぬのが恐ろしいのです。」「希望がないのですか。」「希望をもっているとは言えません。神の前に立つのが恐ろしいのです。ああ、どうか私のために祈ってください。」彼のために熱心な心からの祈りがささげられ、救いの道が何度も彼の前に示される。しかし、救いの綱を握らないうちに、私は彼が沈んでいくのを見る。その冷たくなったまぶたの上に、私は自分の指を置く。そのまぶたは、もう決してこの地上のものを見ることがないからである。その男はどこにいるのか。そして、その男の真の目はどこにあるのか。「ハデスで苦しみながら目を上げると……」とある。
ああ、なぜもっと早く目を上げなかったのか。それは、福音を聞くことに慣れきって、たましいがその下で眠っていたからである。ああ、もしあなたがかしこで目を上げることになるとすれば、あなたの嘆き、悲しみはどれほどであろう。それを救い主のみことばによって表そう。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」
どうかあなたが神の御怒りのもとで、このことばを発することが決してないように。

 

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出エジプト記28章39-43節

2011年12月30日 12時38分17秒 | 聖書

28:40 「あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表わすターバンを作らなければならない。これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油をそそぎ、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせよ。」  先には、大祭司のことで、その装束のことが告げられていましたが、本日の箇所では、アロンの子らのことで、求めが告げられています。アロンの子らというのは、大祭司に任職される、アロンの子ども達ということです。アロンが大祭司に任職されましたが、彼等は通常の祭司として、幕屋で仕えるように命じられた人々です。日常的に、幕屋で、主の前に奉仕をするように命じられた人々です。この人々のために、特別の衣服を作りなさいと言われているのです。それは、1つは長服であり、次はその服を締める帯です。その帯は、飾り帯とするということを語っておりまして、きれいな帯を作るように求められています。また、タ-バンを作りなさいと言われています。大祭司とは明らかに違った衣装でした。

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◆事の終わりは、その初めにまさり……。

2011年12月30日 12時05分06秒 | 聖書

(伝道者七・八)

ダビデの主を仰ぎ見よ。その初めがどうであったかを思え。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」あなたはその終わりを見るか。主は父なる神の右に座し、その敵を足台にしようとしておられる。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」なら、当然十字架を負わなければならない。そうしなければ、決して冠を得ることはできない。あなたが泥の中をはって進むのでなければ、決して黄金の大通りを歩むことはできない。それゆえ、クリスチャンよ。雄々しかれ。「事の終わりは、その初めにまさり……」とある。
うごめく毛虫を見よ。なんと卑しい姿だろう。それが事の初めである。しかし、あの目の覚めるような羽をもち、日光の中にたわむれ、花の杯より蜜を吸い、幸福といのちに満たされている蝶を見るがよい。それが事の終わりである。あなたは死のさなぎになるまでは毛虫なのである。しかし、キリストが現れたなら、キリストのありのままの姿を見るので、キリストに似た者となる。主に似た者となることを覚えて心を安んぜよ。あなたが目を覚ますその時には、主のようになっていることを見いだして満ち足りるであろう。
天然のダイヤモンドは、研磨機にかけられてその全面を削り取られ、一見貴重と思われる部分までも失わなければならない。王の戴冠の際には、喜びのラッパとともに王冠が王の頭上に置かれ、その冠からはまばゆいばかりの光が輝く。しかしその光は、直前まで研磨機によって悩まされ痛めつけられていたあのダイヤモンドから出ている。このダイヤモンドに、あなた自身をなぞらえてみるがよい。あなたは神の民の一人であり、今は玉を磨く時なのである。信仰と忍耐をもって待て。王冠が永遠不朽の王の頭上に置かれるとき、一条の栄光の光があなたからも流れ出るであろう。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。」まことに「事の終わりは、その初めにまさる」のである。

 

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失業者4万人増 296万人

2011年12月29日 17時10分30秒 | 公共・政策

11月 15~24歳男性、依然高水準

 総務省が28日に発表した労働力調査によると、11月の完全失業者数(季節調整値)は296万人と前月に比べ4万人増加しました。完全失業率(同)は4・5%と前月と同じでした。雇用情勢について同省は、円高や欧州債務危機などを背景に「全体として油断できない状況が続いている」とみています。

 完全失業率を年齢別にみると、15~24歳で8・0%(原数値)で、とりわけ男性は9・7%と他の世代にくらべて高い水準で推移しています。また、就業者数(同)を産業別にみると、学術研究、専門・技術サービス業と医療・福祉でそれぞれ前年同月比24万人増となったものの、製造業で同15万人減、農業・林業で同14万人減でした。

 被災地の失業率(調査ができない一部地域除く)は、岩手が2・9%(前月3・9%)、宮城が6・5%(同7・5%)、福島が3・8%(同4・5%)でした。

 厚生労働省が同日発表した全国の11月の有効求人倍率(季節調整値)は、0・69倍で前月比0・02ポイント上昇しました。正社員の有効求人倍率は同0・02ポイント増の0・45倍でした。有効求人倍率は、求職者1人当たりの求人数です。正社員を望む求職者の2人に1人分の仕事すらないことになります。

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◆ここまで主が私たちを助けてくださった。

2011年12月29日 10時26分32秒 | 聖書

(Ⅰサムエル七・一二)

「ここまで」とのことばは、過去のすべてを指すように思われる。二十年あるいは七十年の間、それぞれ「ここまで主が私たちを助けてくださった」のである。貧しい時、富める時、病気の時、健康の時、国内で、外国で、陸上、または海上において、名誉の時、不名誉の時、当惑の時、喜びの時、試練の時、勝利の時、祈りの時、誘惑の時において「ここまで主が私たちを助けてくださった」のである。
並木道の端から端までの長い景色をながめるのは楽しい。それは、枝の柱、葉のアーチでできた緑の宮である。あなたも過去の長い年月を振り返り、その頭上をおおうあわれみの緑の大枝、あなたの喜びを支えるいつくしみと誠実の強い幹を見よ。かなたの枝には多くの小鳥がいて、みな「ここまで」受けたあわれみについて歌っているに相違ない。
しかし、このことばはまた前方をも指し示している。なぜなら人がある目標まで来て、「ここまで」と書く時、まだ終点まで来ているのではなく、なお進むべき道のりをもっているからである。なお多くの試練と喜び、誘惑と勝利、祈りと応答、労苦と支え、戦いと凱歌を経験してから、病気、老衰、そして死が訪れる。
それで終わりであろうか。否、まだ先がある。イエスに似た者になって目を覚まし、御座に着き、たてごとをとり、賛美し、白い衣をまとい、イエスの御顔を拝し、聖徒と交わり、神の栄光を受け、永遠の満たしを与えられ、無限の祝福にあずかる。
おお、信者よ。勇気を出せ。そして感謝に満たされ、確信をもって「エベン・エゼル」と呼べ。なぜなら、
 これまであなたを助けられた方は
 あなたが旅を終えるまで伴ってくださる
からである。
天国の光に照らして見る時、あなたの「ここまで」はなんと輝かしく、またなんと驚くべき前途の眺望を、あなたの感謝に満ちた目の前に展開することであろう。

 

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◆勤勉な家庭のマネージャー  Ⅱ

2011年12月28日 12時26分13秒 | 聖書

(箴言三一13―19)

すばらしい妻の第二点、忠実で勤勉な家庭の管理者について、もう一度学びましょう。ここでまず気がつくことは、よい妻が、自分の欲望の満足とか名誉のために損得で働いているのではないことです。
私たちが持っているもので、受けなかったもの、神から与えられなかったものは何一つありません。ところが私たちは、できるだけ自分のものだと主張し、自分のために用いようとします。自分が、自分のために、自分によってが、私たちの哲学のようです。戦争のような大きな罪も、人殺しのような残忍な罪も、また、そんなはっきりした形をとらない、私たちの間のもやもや・不調和・争い・不作法・ねたみ・そねみ・さいぎ心・疑い・裏切り・悪口も、みなこのエゴイズムが原因となっています。
よい妻は、家庭の中でエゴイズムの自分を主張しません。自分の夫も子どもたちも使用人も、家畜も畑も家屋も、全部神から預けられたものとして、忠実に守り、育て、あるいは使います。みなの平和と幸福と成長という目的に従い、自分は家庭の管理者として、ただ、勤勉な仕える人となろうとしています。
ですから、人に仕えられようとせず、自分から率先して働きます。朝早く起き、夜おそくまで勤勉に働きます。夫や子どもはもちろん、使用人の一人一人や家畜にも気を配ります。冬が来る前に冬の準備をし、破れてだめになる前に、家族の着物を整えておきます。子どもたちが、やはり同じように、神からいただいた人生のよい管理者になるように、助け育てていくのです。
「こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます」(Ⅰコリント四1―2)。

 

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◆いま私が、この世に生きているのは、

2011年12月28日 12時24分43秒 | 聖書

私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ二・二〇)

かつてあわれみに富む主が通られた時、倒れて死に瀕している私たちをご覧になって、まず第一に「生きなさい」と言われた。なぜなら、いのちは霊の世界において絶対に欠くことのできないものの一つであって、いのちが与えられていなければ、人は神の国のもろもろの祝福にあずかることができないからである。
聖徒たちが生かされる瞬間に、恵みによって与えられるいのちは、キリストのいのちにほかならない。それは幹から流れる樹液のように、枝である私たちに流れ込み、私たちのたましいとイエスとの間に生きた結合をもたらす。信仰はこの結合を実現する恵みであって、恵みの初穂として出たものである。それは、教会のからだを栄光のかしらに結ぶ首に当たる。
 信仰よ。あなたは私たちを主に結ぶきずな
 それがあなたの務めだ
 あなたにふさわしい名は教会の首
 意志とその働きにおいて
 教会を、天に上られた主と同じにする
信仰とは、主イエスをはっきりと知り、主にふみとどまることである。教会は主のすばらしさや価値を知り、どんな誘惑に会っても、心を移そうとしない。キリスト・イエスはこの天来の恵みを喜ばれ、愛の抱擁と永遠の御腕をもって常に教会を強め、支えてくださるのである。ここに、活気にあふれた、明確に感知することのできる喜びに満たされた結合が確立され、そこから愛と、信頼と、同情と、満足と、喜びの流れがわきいで、新郎と新婦は喜びつつ、これを飲むのである。
たましいが明確に自己とキリストとの一致を見ることができる時、両者の脈は共にうち、同一の血液がそれぞれの血管を流れるのを感じる。その時、心は地上にありながら、あたかも天国にあるようであり、最も崇高な、霊的な交わりに入るために備えられるのである。

 

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◆勤勉な家庭のマネージャー  

2011年12月27日 09時29分20秒 | 聖書

彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、
喜んで自分の手でそれを仕上げる。
彼女は商人の船のように、
遠い所から食糧を運んで来る。
彼女は夜明け前に起き、
家の者に食事を整え、
召使の女たちに用事を言いつける。
彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、
自分がかせいで、ぶどう畑を作り、
腰に帯を強く引き締め、
勇ましく腕をふるう。
彼女は収入がよいのを味わい、
そのともしびは夜になっても消えない。
彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、
手に糸巻きをつかむ。      (箴言三一13―19)

きょうは、すばらしい妻の第二点です。一三―一九節までは、すばらしい妻の理想像ではなく、ドキュメンタリー映画を見ているような現実的描写がなされています。しかも、羊・ぶどう畑・食糧の輸入などに、中近東のそれもイスラエルの文化や風土がよく表れています。そこは分化された現代社会でなく、自給自足の農業牧畜社会の家庭生活です。私も、昔の母のことを思い出します。父をはじめ、家族の一人一人に、四季それぞれの着物を洗い張りし縫い直して着せていました。冬に備えてどっさり漬物を清けこんだり、大掃除や障子の張り替えもきちんきちんとしていたのです。いにしえのよい時代のことです。
ここに示されているすばらしい妻の姿は、ひとことでいうなら、「よい、勤勉なマネージャー」ではないでしょうか。マネージャーというと、響きが悪いかもしれません。管理者といっても、あまりニュアンスがぴったりしません。しかし、すばらしいよい妻が「忠実に勤勉に家庭を管理する者」であることは、注目すべきです。
「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(Ⅰペテロ四10)。

 

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◆葦は水がなくても伸びるだろうか。

2011年12月27日 09時28分04秒 | 聖書

 (ヨブ八・一一)

葦は弱々しく、中が空虚なので、実質も安定性もない偽善者に似ている。葦はあらゆる風に揺り動かされ、形式主義者はあらゆる勢力に屈服する。それゆえ、葦はあらしによっても折られないし、偽善者も迫害によって悩まされることがない。
私は人を欺くことを望まないし、また人から欺かれることも欲しない。今日の聖句は、自分が偽善者であるかどうかを試すのに役立つであろう。
葦は水の中に生える植物であって、泥と湿気の中に根を下ろして成長する。泥が乾くならば、葦はすぐに枯れ果てる。今青々としているのは全く環境のためであり、豊かな水のゆえに繁茂しているのである。しかし一度かんばつにでもなれば、たちまち枯死する。私の場合もそうではないだろうか。私はよい仲間があり、信仰生活が利益となり、体裁のよい時にのみ神に仕えているのではないだろうか。私はこの世的な慰めが主の御手から得られる時にのみ、主を愛しているのではなかろうか。もしそうなら、私は卑しい偽善者であって、葦が枯れるように、死が私から外面的な慰めを奪い去る時には滅びてしまうであろう。逆に私は、肉体的な慰めがほとんどなく、周囲が私に恵みを与えるよりむしろ私に逆らうような時にも、なお信仰を堅く保つと、正直に告白することができるだろうか。もしそうであるならば、私のうちには真の生きた信仰があるのである。
葦は泥がなければ成長することができない。しかし、主の右手が植えられた植物は、かんばつの年にも繁茂する。信仰深い人のたましいは、しばしばこの世的な環境が朽ち果てる時に最もよく成長する。お金を目当てにキリストに従う者はユダである。パンと魚のために従う者は悪魔の子である。しかし、主を愛するゆえに主に従う者は、真に主の弟子である。
主よ。私のいのちをこの世の好意と利益の泥の中に見いだすのではなく、ただ、あなたのうちにのみ見いだすことができますように。

 

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◆愛  と  献  身

2011年12月26日 12時24分14秒 | 聖書

夫の心は彼女を信頼し、
彼は「収益」に欠けることがない。
彼女は生きながらえている間、
共に良いことをし、悪いことをしない。(箴言三一11―12)

すばらしい妻の第一点として、夫が心から信頼できる妻、徹頭徹尾、夫に善意をもって仕える妻が語られています。
悪妻に悩まされている人も多くいます。「叱りゃすねるし、ぶちゃかみつくし……」と、江戸時代の端唄にいわれています。結婚生活二十六年目の人妻から、離婚の相談を受けました。「主人は、ごはんを食べる時、犬みたいにがつがつ食べるのです。もう我慢ができません。」「ご主人は、このごろそうなったのですか。」「いいえ、結婚した時からです。」その話を聞いて、背筋を冷たい風が通るような気がしました。
しかし、「私の妻はすばらしい」と心の底から感謝しているご主人も、案外多いことでしょう。結婚生活六十年にして妻に先立たれたある方は、彼女のために石碑を建てて、こう刻んだそうです。「彼女は常に家庭を幸福にしてくれた。」人間ですから、だれにも欠点はあります。「うちの女房、気がきかない。掃除がへたで料理がまずい。手がのろいし、口ベただ。」そんなことを言いながらも心の中では、この箴言のことばのように「うちの女房は真実だ。信頼できる。徹底的に、おれによかれと仕えてくれる」と、たいてい思っているのではないでしょうか。
そんなすばらしい夫人は、どこにいますか。どうしたら、そんなすばらしい夫人になれますか。
第一は生まれつきです。そして生まれつきは、神の賜物です。第二は、夫がつくります。どんな人でも、大切にすると大切な尊いものになります。夫の愛と真実が、よい妻・すばらしい妻をつくるのです。しかし第三に、神を恐れ、神を愛し、神から愛をいただいた女性は、だれでもすばらしい妻になれるのです。

 

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◆最後のアダム……。

2011年12月26日 12時22分47秒 | 聖書

(Ⅰコリント一五・四五)

イエスは、選ばれた者たちのかしらである。ちょうどアダムが、行いの律法の下にあって人類の契約の締結者であり代表者であったために、すべての血肉の子孫は彼と個人的関係をもったように、恵みの律法の下において、すべての贖われたたましいは、天から降られた主と一体である。なぜなら、主は第二のアダムであり、新しい契約の下において選ばれた者たちの保証人、あるいは代理人だからである。
ヘブル人への手紙の著者は、メルキゼデクがアブラハムに会ったとき、レビはアブラハムの腰の中にいたと言う。永遠の昔に恵みの契約が定められ、批准せられ、永遠に確定されたとき、信者がイエスの腰の中にいたことは確実な真理である。このように、イエスがなされたことはすべて、教会全体のためであった。私たちは主にあって十字架につけられ、主と共に葬られた。さらに驚くべきことに、私たちは主と共によみがえらされ、共に天の所に座らせられたのである。こうして、教会は律法を成就し、「愛する御子によって受け入れられた」のである。そして義であられる神は、満足して教会をご覧になるのである。なぜなら、神は教会をイエスにあって見るのであり、契約のかしらであるイエスと別なものとは見られないからである。
イスラエルの油注がれた贖い主であられるキリスト・イエスがもたれるもので、教会と関係ないものは一つでもなく、主の所有されるものはすべて教会のためのものである。アダムの義は、彼がそれをもち続ける限りは私たちのものであった。そして、アダムが罪を犯した瞬間に、彼の罪は私たちのものとなった。同様に、第二のアダムは私たちの代表であるため、第二のアダムとその行為はすべて、主のものであるとともに私たちのものである。ここに、恵みの契約の基礎がある。
殉教者ユスティノスは、この代表と身代わりの恵みに感動して、「おお、聖なる転換よ。甘美なる交換よ」と叫んだ。これこそ救いの福音の土台であり、強い信仰と無上の喜びをもって受け入れるべきものである。

 

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◆恋愛か見合いか

2011年12月25日 11時40分09秒 | 聖書

しっかりした妻を
だれが見つけることができよう。
彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。(箴言三一10)

きのうに引き続き、もう一度このことばに注目しましょう。今は養殖真珠の時代ですから、真珠は非常にポピュラーな宝石となりました。しかし、旧約聖書でも新約聖書でも、尊いものの代名詞は、ダイヤモンドでもルビーでもサファイヤでもなく、真珠なのです。よい妻を持つのは、その真珠を持つことどころではなく、すばらしいというのです。
さて、一一節以下に、よい妻・すぐれた妻・すばらしい妻の姿が、いろいろな角度から描き出されています。まず、きょうの箴言のことばは、「しっかりした妻をだれが見つけることができよう」と言っています。
テレビで夫婦のインタビュー番組がいくつかあるようですが、いつも「お見合いですか、恋愛ですか」と聞きます。日本では、結婚相手の見つけ方にこの二つがあるようです。一つは、自分にぴったりくる人を自分で捜し、自分で見つけます。もう一つは、他の人に捜してもらいます。恋愛結婚は、相手を自分で確かめて捜すのでしょうが、このほうが離婚率が高いと聞きました。見合い結婚は、人だのみ結婚です。成功率はどうでしょうか。
ある人は、「二十代はあつあつ、三十代はいやいや、四十代は我慢、五十代はあきらめ、六十代は相手が互いに必要だからくっついている」と、結婚を皮肉っています。
さて、聖書はこう言うのです。「思慮深い妻は主からのもの」(箴言一九14)と。箴言の別なところには、「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく」(一八22)ともあります。よい妻は、神の賜物なのです。
きょう十二月二十五日のクリスマスの日に、神の最上の賜物、救い主イエス・キリストのことを思います。このお方から、すべてのよきことが流れ出ます。

 

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