座間コミニティー

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リニューアル

2014年08月31日 19時01分10秒 | 日記

ざまっと(座間市の団体ネット)にほっとハート載っています。

http://zamat.genki365.net/gnkz/mypage/index.php?gid=G0000401

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礼拝

2014年08月31日 15時59分44秒 | 日記

今日はニューハーベストチャーチで高島清兄弟の記念礼拝をしました。

鷹巣牧師司会で1:30に及ぶものでした。

高島兄弟は大変ご苦労と辛酸をためつくした人生でしたがイエスキリストにあって高巣牧師と偶然的な出会いを通して神様に引き寄せられました。そして天国へ凱旋。

しばらくのお別れです。

写真は洗礼式の時です。

端っこに私が写っています。

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◆もし神が光の中におられるように、

2014年08月31日 15時54分44秒 | 聖書

私たちも光の中を歩んでいるなら……。(Ⅰヨハネ一・七)

私たちはこのような水準に達し得るのだろうか。私たちが「私たちの父」と呼ぶ神に関して、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と記されている。私たちは、この神のように、はっきりと光の中を歩むことができるだろうか。たしかにこれは、私たちの前に置かれた模範である。救い主ご自身がこのように言われたからである。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」私たちは、神の完全にとうてい及ぶことはできないと感じるかもしれない。しかし、それを追求すべきであり、その標準に達するまでは決して満足してはならない。まだ若い芸術家が鉛筆を手にする時、ラファエロやミケランジェロに匹敵することを望めない。しかし、心に高貴な理想をもたないならば、平凡な画家で終わるだろう。
神が光の中におられるように、クリスチャンも光の中を歩めというみことばは、程度ではなく、類似を意味するものと思う。私たちは真に、また心から、正直に光の中にあるが、神と同じ程度に光の中にいることはできない。私は太陽に住むことはできない。それは私の住まいとしては明るすぎる。しかし、私は日光の中を歩くことはできる。そのように私は、本質的に無限に善であられる万軍の主に属している完全な純潔とまことには達し得ないが、主を常に私の目の前に見て、内に住んでくださる聖霊の助けによって、その御姿に似るように努力することはできる。
有名な聖書注解者ジョン・トラップは言った。「私たちは質(クォリティ)において、神が光の中におられるように光の中にいるかもしれない。しかし、神と同程度(イクォリティ)にいるのではない」と。
私たちは神と同じ光をもち、神がその中を歩かれるようにその中を歩くべきである。しかし、聖潔と純粋とにおいて神と程度を同じくすることは、私たちがヨルダンを渡り、いと高き方の完全に入るまで残されなければならない。聖なる交わりと完全な聖めは、光の中を歩くことと結ばれていることを心に留めよ。

 

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「しかし、あなたはこのことによって、

2014年08月31日 15時53分48秒 | 聖書

主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」(Ⅱサムエル12:14)

ダビデは姦淫と殺人の二重の罪を犯した。
ナタンによって罪を指摘された時に、「私は主に対して罪を犯した」と罪の告白をした。
その時、即座に「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」と罪が赦された。
完全に罪は赦される。罪のとがめは全く受けない。
罪は忘れ去られ、海の深みに投げ込まれる。
罪の責めは全く負う事がない。
十字架の贖いによる神の恵みだ。
しかし、罪が完全に赦される事と、罪の結果を刈り取る事は別の事だ。
自分の蒔いたものは必ず刈り取る。
これは法則なので例外は無い。
罪は赦されるが、罪の結果は自らが負う事になる。
厳粛な事だ。だから、どうせ赦されるのだからと、恵みを軽んじて、決して簡単に罪を犯してはならない。
ダビデに最初に生まれた子供が病気になった。
ダビデは断食をして、一晩中地に伏して祈った。
しかし、その子は死んだ。ダビデはそれを受け入れた。
又、息子アブシャロムが謀反を起こし、自分に敵対した。
息子達の間に数々の痛く辛い出来事が起こったが、主からのものと認め、受け入れた。
そこにダビデは神の聖さを見、そこに神の愛を受け止め、ますます練り聖められて行った。
蒔いたものは刈り取るが、そこに尚も祝福が備えられている。
神のあわれみは尽きない。
----------------------
罪は赦されても刈り取りはある。
ダビデのトラブル続きの後の生涯は凄まじい刈り取りだ。
それを思うとき、弱い私達であっても罪の誘惑の前で立ち止る事が出来ないだろうか。

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◆善  意  の  人

2014年08月31日 07時09分10秒 | 聖書

善意の人は祝福を受ける。
自分のパンを寄るべのない者に与えるから。(箴言二二9)

さて、「善意の人」が登場しましたが、あなたは、どんな人になりたいでしょうか。人に何と言ってもらいたいでしょうか。
ところで、この聖書のことばは「善意の人」を推奨しています。「利口な人」「アイデアマン」「先が見える人」「実力者」「やる気のある人」「ユーモアのある人」「明るい人」「まじめな人」「親切な人」、皆それぞれいいのですが、「善意の人」とはどんな人でしょうか。「善意の人」の直訳は、「目のよい人」です。それは、神のように人を見ることのできる人なのです。
聖書の言う「善意の人」のすばらしい解説が、コリント人への手紙第一、一三章にあると思います。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(5―7節)。
・ 人の悪を思わない人。
よいほうへよいほうへと善意に解釈し、ひがみっぽくない人です。
・ 人のうわべや過去にこだわらず、差別しないで受け入れる人。
・ 人を信じ期待し忍耐深く待つ人。
つまり、真実の愛のある人ではないでしょうか。そして愛は、惜しみなく与えます。お返しのできない人に与えて、お返しを期待しません。私たちのために、ご自身を十字架の上で与えつくしてくださったイエス・キリストの中に、この愛の完璧な模範を見いだすことができます。
キリストの愛の中にとかされた人こそ、判断力のない愚かなお人よしではなしに、祝福を受ける善意の人になりうるのではないでしょうか。

 

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◆わたしの腕に拠り頼む。

2014年08月31日 07時08分14秒 | 聖書

(イザヤ五一・五)

激しい試練に直面して、クリスチャンは地上に何一つ頼るべきものをもたないので、ただ神にのみその身をゆだねることになる。彼の船が真横に傾いて危機に瀕し、人の助けが全く及ばなくなった時、彼は単純かつ全面的に、自分を神の摂理と守りにゆだねなければならない。人をこのように岩に打ちあてて難破させるあらしは、実は喜ばしいものである。たましいを神に追いやり、神にのみ吹きつける烈風は幸いである。時に私たちは、友人が多すぎるために神に行かないことがある。しかし、貧しく、友もなく、無力で、どちらを向いても身の置き場がないならば、御父のもとに駆けて行き、その幸いな腕により頼むのである。切迫した特別な困難を負い、神のほかにそれを打ち明けることができないならば、かえってそのことを感謝するであろう。なぜなら、そのような時にこそ主について深く学ぶからである。
あらしに悩む信者よ。あなたを御父のもとに追いやる苦難は、幸いな苦難である。今、神のほかに頼るものはない。だから、神にすべての信頼を置くように努めよ。あなたの主を、卑しむべき疑いや恐れによって辱しめるな。信仰に堅く立って、神に栄光を帰せよ。
あなたにとって神がこの世界を千万集めたほどの価値があることを、世に向かって示せ。主なる神があなたの助け手であられる時、あなたは貧困の中にあっても富める者であることを、世の富める者に示せ。あなたの下に永遠の腕がある時、自分が弱い時にこそ強いことを、世の強い者に向かって示せ。強くかつ雄々しくあれ。そうすればあなたの主である神は、天地を創造されたように確実に、あなたの弱さのうちにご自身の栄光を現し、あなたの患難のうちにご自身の力を示される。もし青空が目に見える一本の柱で支えられていたら、天の荘厳さは損なわれるであろう。あなたの信仰もまた、もし肉眼で見えるものに頼っていたなら、その栄光を失うのである。
この月の最後の日に、どうか聖霊があなたに、イエスにある安息を与えてくださいますように。

 

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第2サムエル記14章21-24節

2014年08月31日 07時06分52秒 | 聖書

14:21 それで、王はヨアブに言った。「よろしい。その願いを聞き入れた。行って、若者アブシャロムを連れ戻しなさい。」
14:22 ヨアブは地にひれ伏して、礼をし、王に祝福のことばを述べて言った。「きょう、このしもべは、私があなたのご好意にあずかっていることがわかりました。王さま。王さまはこのしもべの願いを聞き入れてくださったからです。」



 ヨアブに遣わされた女の言葉によって、事の自体を悟ったダビデは、ヨアブに向かって、よくわかったので、アブシャロムを連れ帰ってきなさいと伝えました。

ヨアブは、王の心が変えられて、自分の願ったことが実現したので、そのことを喜んで、告げられたことを実行しました。

アブシャロムをダビデの都エルサレムに連れてきたのです。

ところがダビデは、彼が町に来た時、彼に会うことをしないで、自分の顔を見ることを許さないと告げ、さらに彼に自分の家に閉じこもるようにと命じました。

アブシャロムの自由を束縛してしまいました。

ダビデの心の内にあるわだかまりは、まだ解けていなかったのです。


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ルカによる福音書14章27節(イザヤ書14章)

2014年08月31日 07時04分08秒 | 聖書

 ★  自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

■O:今日のコラム

塔を築こうとするとき、完成に必要な費用はいったいどれ程か、考え、計算しない人がいるでしょうか。
では、罪人がイエスの弟子となるために必要な代価はいったいどれ程でしょうか。

私たちは神の御子のいのちで買い取られています。
では、このいのちの代価を私たちはいったい何で支払えば良いのでしょうか。それは、いのちです。

しかし、いのちを損じたら何の得があるでしょうか。
ですから、私たちは、生きながら、自分の十字架を背負ってキリストについて行くしかないのです。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコによる福音書8章34、35節)

人前で主を恥じず、イエスの福音を語り、人や自分の喜ぶことではなく、イエスへ栄光を帰する者として生きる。

十字架を負い、イエスについて行くとは、誰も主を主としない悪い世の中で、イエスを高く掲げていくこと、自ら進んで受難の道に入るということです。イエスの御名があがめられ、その福音が述べ伝えられるためなら、たとえ苦しい道だとしてもかまわない、むしろそちらの道を選び取っていくということです。

■A:考えてみよう

自ら進んで、イエスの十字架の道へ入っていこう。どちらか迷ったとき、より困難な方を選んでみよう。

それがイエスの栄光が褒め讃えられ、イエスが述べ伝えられるためなら、主はその姿を見て、ご自分の背負われた十字架を思い出し、私たちを、友と呼んで下さいます。そのような人を主は決して一人にはしません。助け主なる聖霊さまを送られ、必ず完成へと導いて下さいます。

■P:祈り

イエスさまの御名が褒め讃えられるために今日、どんなことができるでしょうか。
自分にとって楽なことではなく、神の国から尊ばれることを教えて下さい。

自分の安全地帯から今日、一歩踏み出します。聖霊さま、イエスの道へ進み出すことを助けて下さい。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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8月30日(土)のつぶやき

2014年08月31日 02時09分07秒 | キリスト教
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追悼

2014年08月30日 18時05分39秒 | 日記

今日は、13:30~15:45まで市民活動サポートセンターでセミナーに出席しておりました。

セミナーが終わって携帯の留守電を聞き頭が真っ白に~~電波が繋がりにくいので聞き取れた文書を繋ぐとK牧師の電話で高嶋さんが今日亡くなられたという事でした、すぐにT牧師に電話して詳しい事情を聴きましたが突然のことに対して理解が追い着かないのです。それから15分くらいで用事を済ませて高嶋さんのいる所に急ぎ自転車で行ってみました。すると偶然教会の方にお会いし高嶋さんにも最後のお別れとお祈りを捧げさせていただく奇跡を体験させていただきました。

帰って来て、高嶋さんの思い出にあるのは笑顔の高嶋さんを思い出します。

後で教会のブログを検索してみると1か月前から難病に罹り入院したことを知らせる文章とT牧師の祈りの~~言葉、

でも悲しみは無いです、この世での人生を送られ、私たちに祈り心を残していった高嶋さん、そして天国でお会いできる希望があるのでしばしのお別れです。

高嶋さんお疲れ様でした。イエス様のふところでゆっくりお休みください。

 

 

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◆私をいやしてください。

2014年08月30日 16時58分02秒 | 聖書

主よ。そうすれば、私はいえましょう。(エレミヤ一七・一四)

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。(イザヤ五七・一八)
霊の病をいやすことは、神のみがもっておられる大権である。肉体の病は、人が仲介していやされるかもしれない。しかしその時ですら、薬に効力を与え、人体に病を追い払う力を与えてくださる神をあがめるべきである。霊の病に至っては、偉大ないやし主の手のみがこれをいやす。そして神は、ご自分の独占権としてそれを主張される。「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」と。「わたしは主、あなたをいやす者である。」このことばは、人のくちびるからは出すことのできない約束であり、永遠の神の御口からのみ出る。
そのゆえに、詩篇の作者は主に向かって叫んだ。「主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。」さらにまた「私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」敬虔な人々が主の御名を賛美する時も、同じように「主は私たちのすべての病をいやす」と言う。人を造られた方は、人を回復させることができる。私たちの性質を造られた方は、それを新しく造り変えることができる。キリストのうちに「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」いることは、どれほどすばらしい慰めだろうか。
私のたましいよ。おまえの病がどのようなものであっても、この偉大ないやし主はいやすことができる。このいやし主が神であられる以上、その力に限界はない。だから、暗くて理解力がないなら、そのままで来い。弱くなった足、信仰のない手、短気の熱、失望落胆の発作の状態のままで来い。あなたの現在あるままの姿で来ればよい。もう何ものも、神である主イエスから流れ出るいやしの力をさえぎることはできない。汚れた霊のレギオンも、愛する医師の力を認め、決して妨げようとはしなかった。
過去において、主の患者はすべていやされた。これから後もまたそうである。友よ。今夜、主のうちに憩うことを願うなら、あなたもその一人となるであろう。

 

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「私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。

2014年08月30日 16時57分02秒 | 聖書

これは、私たちがサタンに欺かれないためです」(Ⅱコリント2:10)

ある人に、嫌がらせの無言電話が続いた。
余りに続くと、精神的にまいって来た。
段々、日頃の対人関係を考えると、相手がわかるようになってきた。
普段からの言葉や態度を思うと、他には考えられない。
嫌がらせを思う時、平常からの言動や態度と共に、赦せない思いで一杯になった。

その思いは、自分自身が辛く苦しい。しかし赦せない、憎しみが湧き上がる。
その内に、環境的に相手と関わる事が無くなり、会う事も無くなった。
だが、憎しみは無くならなかった。心にはっきりと存在し、暗い重苦しい思いに支配された。
多忙な日々には、紛れて忘れているが、何もしていない時は、よみがえっては、苦しみに支配された。

真っ暗闇の牢獄だった。
楽しい時も、楽しくなく、ずっと囚われているようだった。
主のもとへ行き、祈った。心の苦しみをありのまま打ち明け、助けを求めた。
この苦しみから解放されたかった。
御心に、従いたい気持ちを告げた。
すると、相手を赦すようにと語られた。

自分はできない、したくないが、でも、感情は置いて、意志を向けて、意志で「赦します」と決心した。
すると、心の重苦しさが消えて、平安になった。
楽になって、喜びが来た。心から感謝が溢れた。
その後、何とその相手から「申し訳なかった」との謝罪の手紙が届き、驚いた。
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サタンの策略を知らないわけではない。憎しみの背後に憎しみに閉じ込め、主にある平安な日々を奪うサタンがいる。
赦すことが牢獄からの開放だ。
憎しみがあるなら相手に反応するたびに主に祈ろう。

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◆種まきの人生

2014年08月30日 07時49分08秒 | 聖書

不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。
彼の怒りの杖はすたれる。      (箴言二二8)

ここでソロモンは、王座から不正をほしいままにする暴君はその結果、必ずわざわいを刈りとり、その支配の杖はいつか折れてしまうと言っているようです。
しかし、まいたものは刈りとるようになるとは、何という厳粛な事実でしょう。パウロはこう言いました。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ六7―8)。
私たちの人生を、種をまいている人生だと考えたことがおありでしょうか。昔ユダヤ地方では、畑に畝などつくらないで、パアッパアッと種をばらまいたそうです。そこで、イエス・キリストは、「まかれた種のうち、道ばたの種は鳥に食われ、岩地に落ちた種は日に照りつけられて生えても枯れ、いばらの中にまかれた種はひょろひょろ伸びるだけで実を結びませんでした。よく耕された土地にまかれた種だけが、三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです」と話されました。
悪の種をまいても、生えないで無事のことがありましょう。しかし、あなどってはなりません。最後には、滅びの刈りとりをきっとどこかでします。善や愛の種をまいても、踏みにじられて生えないことも多いでしょう。しかし、いつかどこかで、愛の花が咲き、その実がみのるのです。私の家のおばあちゃんは、小さな小さな土地を耕して種をまきます。肥料をやり、水をやります。私たちが忘れたころに、私に「初物だよ」と言ってブロッコリーを食べさせ、「咲きましたよ」と言って、かわいい鉢の花を私の机の上に飾ってくれるのです。
何とかして、私たちは愛の種をまく者となりたいものです。

 

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◆待ち望め。

2014年08月30日 07時48分17秒 | 聖書

主を。(詩篇二七・一四)

待つということはたやすいようであるが、キリストの兵士にとってはきわめて困難なことである。神の戦士には、じっと立ち止まっているよりは、前進や強行軍のほうがほるかにたやすいのである。
熱心に主に仕えようと願うたましいが途方にくれることがある。そのような時にはどうしたらよいか。気落ちしていらだつのか。後ろに逃げ出すのか。単なる推定から、前に突進するのか。否、ただ待つのである。しかし祈りつつ待つのである。神を呼び求め、事の詳細を神の前に広げよ。直面する困難を神に語り、私たちを助けられるとの約束のみことばを握って求めよ。
二つの義務の間にはさまれた時、幼子のように謙遜になり、単純な心で主を待ち望むのは、実に麗しい。私たちが自分の愚かさを知り、みこころのままに導かれることを願うのは、たしかによいことである。
そして信仰をもって待て。あなたの神に対する揺るがない確信を表明せよ。信仰なくして、また信頼なくして待つのは、主を侮ることである。たとえあなたが真夜中まで待って、なお主が来られないとしても、主がよいと思われる時必ず来られることを信ぜよ。ビジョンは来るであろう。決して遅れることはない。
静かに忍耐して待て。苦しみの中にあっても神に逆らうことなく、かえってそのために主をあがめよ。イスラエルの民がモーセにつぶやいたように、決してつぶやいてはならない。古い世界に再び戻ることを願うな。与えられた試練をあるがままの姿で受け入れ、自己中心の思いを退け、単純にしかも全き心をもってそれを神の御手にゆだねよ。そしてこう祈れ。「主よ。私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。私は進退に窮し、どうしたらよいのかわかりません。ただあなたが洪水を裂き、敵を散らしてくださるのを待ちます。たとえ待つ日が何日であろうとも、私はあなたを待ちます。なぜなら、神様。私の心はあなただけに向けられているからです。あなたこそ私の喜び、私の救い、私の避け所、また私の強いやぐらであるとの確信をもってあなたを待ち望みます」と。

 

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第2サムエル記14章12-17節

2014年08月30日 07時41分34秒 | 聖書

14:14 「私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることのできない水のようなものです。神は死んだ者をよみがえらせてはくださいません。どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください。」



 女は、王は一般的な人々の報復への考えを超えてまで、自分の要求をお聞きくださいましたと語りました。

それならば、同じように王様であるあなた御自身が、自分が追放した者をそのままにされないで、その者に許し与えて、ご自分の元にお返しになられてはどうなのですかと問うたのです。

なぜかというと、一度死んでしまった者は、もう生き返ることは出来ません。

むしろ、今生きている者こそ大事にすべきだと思うからです、と告げたのです。

 ここでは彼女は、自分が王に要請したこと、また語ったことを超えて、王自身の思いに対して、心と態度の変更をを要請したのです。

つまり、殺人を犯したアブシャロムを追放されたままにしないで、彼を許して、ご自分の元に帰すようにされたら如何かでしょうか、と問うたのです。

ここにヨアブの思いがあったのです。

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